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夕食を終えたエレノアは、自室へ戻る途中で廊下の窓から庭を眺めた。
日が長くなったとはいえ、外はすっかり暗くなっている。庭園に沿って置かれた灯りが小道を照らし、昼間とは違う静かな景色が広がっていた。
侯爵邸で暮らし始めた頃は、夜になると屋敷の広さを改めて感じたものだった。けれど今では、どの廊下を通ればどこへ出るのかも分かるようになり、行き交う使用人たちとも自然に言葉を交わせる。
今日もセシリアと招待客の話をしたり、家令から新しい書類を預かったりと、忙しい一日だった。
部屋へ戻って本の続きを読もうかと考えていると、向こうから歩いてきたローザが足を止めた。
「エレノア様、旦那様がお戻りになりました」
「アレクシス様が?」
「はい。先ほど執務室へお入りになりましたが、今夜はもうお仕事を終えられるそうです」
エレノアは思わず顔をほころばせた。
同じ屋敷に暮らしていても、アレクシスとゆっくり話せる日はそう多くない。朝は彼が先に仕事へ出てしまうことが多く、夕食も予定が合わない日があった。
もちろん、顔を合わせられないわけではない。それでも、時間を気にせず二人で過ごせるとなれば、やはり嬉しかった。
「それなら、お茶をお願いしてもいいかしら」
「かしこまりました。どちらへお運びいたしましょう?」
「小さな居間を使ってもいいか、アレクシス様に聞いてみるわ」
ローザは微笑んで一礼すると、準備のために廊下を戻っていった。
エレノアが執務室の前へ着いた頃、ちょうど扉が開き、セドリックが書類を抱えて出てきた。
「エレノア様」
「セドリック。アレクシス様は、もうお仕事が終わったの?」
「ええ。明日の分まで片づけてしまわれましたので、今夜は急ぎの用件でも入らない限り、お休みいただけるかと」
「そうなのね。よかった」
その返事を聞いて、セドリックは少し笑った。
「閣下も、今日は早く切り上げるおつもりだったようですよ」
「そうなの?」
「夕食の前から、残りの仕事を何度も確認されていましたから」
エレノアが驚いていると、室内からアレクシスの声がした。
「セドリック、まだ何かあるのか」
「いいえ。エレノア様がお見えです」
扉の向こうで椅子を引く音がして、ほどなくアレクシスが姿を見せた。
「エレノア」
「お仕事中でしたか?」
「いや、終わったところだ」
「それなら、少しご一緒しませんか? ローザにお茶をお願いしたんです」
アレクシスは一度だけセドリックへ視線を向けた。
「明日の予定に変更はないな」
「ございません。今夜はどうぞごゆっくり」
セドリックは心得たように答え、二人へ一礼して廊下を去っていった。
アレクシスは執務室の扉を閉めると、エレノアの隣へ並んだ。
「小さな居間でよろしいですか?窓から庭が見えるところです」
「ああ、あそこか」
「はい。昼間も綺麗ですけれど、夜は灯りが見えて素敵なんですよ」
エレノアが歩き出すと、アレクシスもその隣をゆっくりと歩いた。
居間にはすでにローザがお茶の支度を整えていた。小さな卓には二人分の茶器が並び、菓子も少し添えられている。
礼を述べて席に着くと、ローザは必要があれば呼んでほしいと伝え、静かに部屋を出ていった。
窓の外には、先ほど廊下から見た庭園が広がっていた。
「ここで過ごすのが好きなのか」
アレクシスに尋ねられ、エレノアは頷いた。
「はい。昼間は本を読みに来ることもあります。お義母様に教えていただいたんです」
「母上らしいな」
「お義母様も、昔はよくこちらで過ごされていたそうですよ」
エレノアは茶器を手に取りながら、今日あったことを少しずつ話し始めた。
セシリアと次のお茶会について相談したことや、先日会った夫人から劇場の公演について手紙が届いたこと。王都で知り合いが増えるにつれ、覚えることも多くなったが、今はそれが楽しかった。
アレクシスは時折質問を挟みながら、エレノアの話を聞いていた。
「劇場へ行ってみたいのか」
「少し興味があります。リーヴェでは、そういう機会がほとんどありませんでしたから」
「なら、予定を確認しておこう」
「アレクシス様もご一緒してくださるんですか?」
「ああ。公演の日が分かれば、調整できるかもしれない」
エレノアは嬉しくなったものの、すぐに頷くことはしなかった。
「でも、お仕事が忙しいでしょう? 無理はなさらないでくださいね」
「無理をするつもりはない。行ける日を探すだけだ」
相変わらずの言い方にエレノアは笑った。
「楽しみにしています」
アレクシスもわずかに表情を和らげ、茶器へ手を伸ばした。
しばらくは他愛のない話が続いた。
エレノアが最近読んだ本の話をすると、アレクシスはその題名を覚えていた。以前、リーヴェから送った手紙に書いたことがあったらしい。
「そんなことまで覚えていらっしゃるんですね」
「君が気に入ったと書いていたからな」
「でも、ずいぶん前の手紙ですよ」
「そうだな」
何でもないことのように答えるアレクシスを見て、エレノアは嬉しくなった。
5年前も、アレンは自分の話をよく聞いてくれた。毎日のように部屋を訪れては、読んだ本や庭で見つけたものについて話していたが、彼は一度も迷惑そうな顔をしなかった。
今になって思えば、療養中だった彼を随分と長く引き留めてしまった日もあったのだろう。
「昔も、こうしてお話ししていましたね」
エレノアが言うと、アレクシスは彼女を見た。
「リーヴェでか」
「はい。私ばかり話していましたけれど」
「今もそれほど変わらないだろう」
「……そうでしょうか」
「俺は聞いている方が多い」
そう言われて思い返してみると、確かに今日も自分の話ばかりしていた気がする。
「アレクシス様のお話も聞きたいです」
「仕事の話ばかりになるぞ」
「それでも構いません。私も、今日あったことをお話ししているだけですもの」
アレクシスは少し考えたあと、最近届いた領地からの報告について話し始めた。
戦後の復興が進んでいる地域もあれば、まだ道路の整備が追いつかない場所もある。エレノアには馴染みのある話題だったため、自然と質問も増えた。
「人手が足りないところは、やはり多いのですね」
「ああ。資材を揃えられても、運ぶ人間がいなければ工事は進まない」
「リーヴェもそうでした。畑を直したくても、先に道を使えるようにしないと何も運べなくて」
「父上からも、その話は聞いている」
エレノアは、アレクシスの顔を見た。
今、父上と言っただろうか。
聞き間違いかと思ったが、アレクシスは何事もなかったように茶器へ手を伸ばしている。
「……アレクシス様」
「どうした?」
「今、お父様のことを……父上、と?」
「ああ」
あまりにも自然な返事だったので、エレノアはかえって驚いてしまった。
「……父上、とお呼びになるんですね」
「俺にとっても父上になる方だろう」
そう言ってから、アレクシスはエレノアの顔を見た。
「おかしいか?」
「いいえ!」
思わず大きな声で答えてしまい、エレノアは少し恥ずかしくなった。
「ただ……嬉しくて」
父はアレクシスのことを、いつも侯爵として敬意をもって接している。もちろん結婚後もその関係が急に変わるわけではないだろう。それでも、アレクシスが父を自分の家族として考えてくれていることが、エレノアには嬉しかった。
「お父様が聞いたら、きっと喜びます」
「そうか」
アレクシスは短く答えたが、その表情はどこか穏やかだった。
「5年前は、こんなふうになるなんて思ってもいませんでした」
エレノアは茶器を置き、改めてアレクシスを見た。
「あの頃は、アレンが何をしている方なのかも知りませんでしたから。今は同じ屋敷で暮らして、こうしてお話ししているんですね」
「そうだな」
静かな返事だった。
窓の外で風が木々を揺らし、葉の擦れる音がかすかに聞こえた。卓の上の茶器はすっかり空になっていたが、どちらもすぐに立ち上がろうとはしなかった。
エレノアは窓の外へ目を向けたまま、ふと思い出したことを口にした。
「今日、お義母様と結婚式の席次についてお話ししたんです。リーヴェから来る方々のお席も、だいたい決まりました」
「父上たちの到着は?」
再びその呼び方を聞き、エレノアは思わず笑みを浮かべた。
「式の数日前になるそうです。お父様から手紙が届きました。マルタもリナも、一緒に来てくれるそうですよ」
「そうか」
「久しぶりに皆に会えるのが楽しみです。リナにも、王都でのことをたくさん話したいですし」
エレノアは嬉しそうに笑ったあと、ふとアレクシスへ視線を戻した。
「結婚式も、もう近いですね」
「ああ」
アレクシスは短く答え、卓の上に置かれていたエレノアの手へ目を向けた。
「エレノア」
呼ばれて顔を上げると、彼はその手を取った。
以前なら、突然触れられるたびに驚いていた。今でも胸が高鳴ることは変わらないが、エレノアは自然に指を重ね、アレクシスの顔を見つめた。
「こうして一緒に過ごせる時間が増えて、嬉しいです」
エレノアがそう伝えると、アレクシスは重ねた指を握り直した。
「俺もだ」
そのまま少しの間、二人は互いの顔を見つめていた。
アレクシスが握った手をそっと引くと、エレノアは彼の隣へ座り直した。肩が触れるほど近くに寄ったところで、アレクシスの腕が背中へ回り、優しく抱き寄せられる。
エレノアは彼の肩に身を預けた。
「……アレクシス様」
「もう少し、こうしていたい」
思いがけない言葉に、エレノアは顔を上げた。
アレクシスが自分からそんなことを言うのは珍しい。けれど、彼が忙しい合間にも二人で過ごす時間を作ろうとしてくれていることは、エレノアにも分かっていた。
「私もです」
そう答えると、アレクシスは彼女を抱く腕に少しだけ力を込めた。
窓の外では庭園の灯りが静かに揺れていた。
「明日も、お仕事は早いのですか?」
「ああ。朝から会議がある」
「では、あまり遅くならないうちにお休みにならないと」
そう言いながらも、エレノアはすぐに離れようとはしなかった。
アレクシスもそれを咎めず、彼女の肩を抱いたまま窓の外へ目を向けている。
しばらくして、エレノアが小さく笑った。
「こうしていると、時間が過ぎるのが早いですね」
「そうだな」
「また、こんなふうにお茶をご一緒したいです」
「いつでも言えばいい」
「お仕事の邪魔になりませんか?」
「時間は作る」
その返事が嬉しくて、エレノアは彼の肩にそっと頬を寄せた。
結婚式まで、あと少し。
今はまだそれぞれの部屋へ戻り、翌朝になればアレクシスは仕事へ出かけていく。けれど、同じ屋敷で一日を過ごし、夜にはこうして互いの話を聞けることが、エレノアには何より嬉しかった。
やがてアレクシスが立ち上がり、エレノアへ手を差し出した。
「そろそろ戻るか」
「はい」
その手を取って立ち上がると、アレクシスは自然に指を絡めた。
部屋を出てからも手は離されず、二人は並んで静かな廊下を歩いた。




