46
侯爵邸の午前は、思っていた以上に忙しい。
エレノアが暮らし始めたばかりの頃は、屋敷の中を案内してもらい、どこで誰がどの仕事を担っているのかを知るところから始まった。それが今では、朝食を終えると家令の待つ部屋へ向かい、その日に確認する帳簿や書類に目を通すことが日課になっている。
この日も机の上には、先月分の帳簿のほか、取引先から届いた請求書や納品予定を記した書類、使用人から提出された備品の申請が並べられていた。
侯爵家ともなれば、屋敷を維持するために動く金額も人の数もリーヴェとは比べものにならない。食料や日用品だけでも取引先は多く、使用人への支払い、馬車や馬の維持、庭園の管理、屋敷の修繕まで、ひと月の間に動くものは驚くほど多かった。
初めて帳簿を見せてもらったときには、その項目の多さに目を見張ったものだったが、仕組みそのものがまったく違うわけではない。
戦後のリーヴェでは、限られた収入の中で何を優先するのかを常に考えなければならなかった。父と一緒に帳簿を確認することもあれば、必要な物資の数を数え、届いたものと記録が合っているかを確かめることもあった。
規模は違っても、見るべきところが分かれば戸惑うことは少ない。
エレノアは帳簿を追っていた指を止め、一つの数字を確認してから顔を上げた。
「先月より、こちらの支出が増えていますね」
家令がエレノアの示した場所へ目を落とす。
「はい。東棟の客室をいくつか整えておりますので、その分でございます」
「結婚式のあとに滞在される方々のためですか?」
「左様でございます」
家令が差し出した書類を受け取り、エレノアは内容を確認した。修繕にかかった費用と、新しく揃える調度品の費用が分けて記されており、帳簿の数字とも合っている。
「では、予定されていた支出なのですね。こちらは問題ありません」
書類を戻して次へ移ろうとしたところで、備品の申請書が目に留まった。
客室で使用する寝具を追加するためのものだったが、必要とされている時期はまだ先になっている。それに対して、同じ束の中には早急に交換が必要だと記された厨房の調理器具もあった。
エレノアは二枚を並べてから家令を見る。
「こちらの寝具は、今月中に揃えなければいけないものですか?」
「いいえ。使用するのは来月の予定でございます」
「でしたら、こちらを先にした方がいいと思います。厨房のものは毎日使うのでしょう?」
「はい。料理長からも、できれば早めに交換してほしいと申し出がございました」
「では、寝具は納期だけ確認して、間に合うのであれば来月に回しても問題ありませんか?」
家令はすぐには答えず、エレノアが並べた二枚の書類へ視線を落とした。
「問題ございません。私も同じように考えておりました」
その答えにエレノアは頷き、寝具の申請書を別にしておく。
以前なら、こうした書類を見るたびに家令から一つずつ説明を受けていた。侯爵家で何を優先するのかも、どこまで自分で判断してよいのかも分からなかったからだ。
それがいつからか、先にエレノアが目を通し、判断に迷ったところだけを家令に尋ねる形へ変わっていた。
「それから、こちらなのですが」
今度は取引先から届いた納品予定を示す。
「いつもお願いしているところとは違いますよね?」
「よくお気づきになりましたね」
「名前を見たことがなかったので。新しい取引先ですか?」
「一時的にお願いしております。これまでの商会から、希望していた品を期日までに揃えることが難しいとの連絡がございましたので」
事情を聞けば、それ以上確認する必要はなかった。エレノアは納品される品と数量だけを確かめて、書類を元の場所へ戻した。
すべてを知っているわけではない。
侯爵家にしかない取引もあれば、王都へ来て初めて知った商会もある。それでも、分からないものを分からないままにせず、その都度確認していけばいいのだということは、リーヴェにいた頃から変わらなかった。
最後の書類に目を通していると、扉が開いた。
「まだやっていたのね」
聞き慣れた声に顔を上げると、セシリアが部屋へ入ってくるところだった。
「お義母様」
「もう少ししたらお茶にしようと思って呼びに来たのだけれど、ずいぶん真剣ね」
「すみません。もう終わるところです」
「謝ることではないわ。でも、根を詰めすぎては駄目よ」
セシリアはそう言いながら机のそばまで来ると、並べられた書類を眺めた。
「今日は随分多かったのね」
「いえ、これで全部です。あとは家令に確認していただくだけで」
その言葉を聞いたセシリアが、わずかに目を丸くする。
「確認してもらうだけ?」
「はい。分からないところは途中で教えていただきましたから」
セシリアの視線が家令へ向くと、家令は静かに一礼した。
「エレノア様には、すでにほとんどご自身で確認していただいております」
「あら」
驚いた声を出したものの、セシリアはすぐに納得したように笑った。
「やっぱり、私が思っていたより早かったわね」
「早い、ですか?」
「ええ。あなたが色々できることはもう分かっていたけれど、侯爵家はリーヴェとは規模が違うでしょう? もう少し慣れるまで時間がかかると思っていたの」
それはエレノア自身も同じだった。
初めて大量の書類を見た日は、これをすべて把握できるようになるのだろうかと思った。それでも一つずつ見ていけば、リーヴェでやってきたことと重なる部分は多かった。
「私も最初はそう思っていました。でも、やってみたら知っていることも多かったので」
「必要だったから覚えた、でしょう?」
先回りするように言われ、エレノアは思わず笑った。
「……はい」
以前にも似たようなことを答えた覚えがある。
セシリアもそれを覚えていたのだろう。楽しそうに笑ったあと、家令へ尋ねた。
「あなたから見て、どう?」
「日常的な屋敷の管理につきましては、そろそろエレノア様にお任せして問題ないかと存じます」
今度はエレノアが目を見開いた。
「もう、ですか?」
「はい。通常の帳簿や支払い、物資の管理については十分にご理解いただいております。今後は実際にお任せしながら、侯爵家独自のものについてのみ、その都度ご説明すればよろしいかと」
任せてもらえる。
その言葉は、思っていた以上に嬉しかった。
侯爵家へ来る前から、自分にできることはきちんと覚えたいと思っていた。アレクシスと結婚するからというだけで何もせずに暮らすのではなく、この家で自分にできることを見つけたかった。
「ありがとうございます。まだ分からないこともありますから、そのときはこれからも教えてください」
「もちろんでございます」
「それなら安心しました」
笑ったエレノアを見て、セシリアも満足そうに頷いた。
「屋敷のことは、もう心配しなくてもよさそうね」
「まだ全部ではありませんよ」
「そういう意味ではないの。分からないことをきちんと聞けるなら、それで十分よ。最初から何でも知っている人なんていないもの」
そう言ってから、セシリアは何かを思い出したように続けた。
「残るは王都でのお付き合いね」
エレノアは少しだけ姿勢を正した。
帳簿や屋敷の管理とは違い、それについてはリーヴェでの経験がほとんど役に立たない。
「そちらは、まだ教えていただくことばかりだと思います」
「それも実際にやってみればいいのよ。近いうちに、何人かお招きしてお茶会を開きましょう。いきなり大勢では疲れてしまうでしょうから、まずは私と親しい方たちだけで」
「はい。お願いします」
「そんなに緊張した顔をしなくても大丈夫よ。お茶を飲んでお話しするだけだもの」
セシリアは軽く笑うと、今度こそエレノアをお茶へ連れ出すつもりらしく、机の上の書類を指した。
「それを片づけたら終わりにしましょう。続きは明日でも逃げないわ」
「分かりました」
返事をしながら、エレノアは最後の書類を家令へ渡した。
♢
その日の夕方、家令はいつものようにアレクシスの執務室を訪れていた。
机ではアレクシスが書類に目を通しており、少し離れたところではセドリックが届いた書簡を仕分けている。領地からの報告、屋敷の修繕予定、来客についての確認と話が進み、家令は最後にエレノアについて報告した。
「エレノア様への屋敷の管理に関するご説明ですが、日常的なものについては、本日でひととおり終えております」
アレクシスの手が止まった。
「もう?」
珍しくすぐに聞き返した主人に、家令は平然と頷いた。
「はい。通常の帳簿、支払い、物資の管理につきましては、今後エレノア様にお任せして問題ないかと存じます」
アレクシスは書類から顔を上げた。
エレノアがリーヴェで父を手伝っていたことは知っている。水路の修復に加わり、畑へ出て、領民の話を聞いて回っていた姿も実際に見た。
屋敷へ来てからも、彼女が家令から様々なことを教わっているのは知っていたが、侯爵家の規模に慣れるにはもう少し時間がかかるだろうと考えていた。
「まだしばらくかかると思っていたが」
「私もそのつもりでおりました」
「なら、なぜそんなに早い」
家令は少し考えてから答えた。
「エレノア様は、教えられたことを覚えるだけではございませんので」
アレクシスが黙って続きを待つ。
「帳簿の数字に不自然なところがあれば、ご自身でお気づきになります。申請が重なれば優先順位を考えられますし、見慣れない取引先があれば、そのままにせず理由を確認されます。一方で、侯爵家独自のことで判断できないものについては、決してご自身だけで決めようとはなさいません」
書簡を仕分けていたセドリックも手を止め、家令の話へ耳を傾けていた。
「リーヴェで実際に帳簿や物資の管理に携わっていらしたことが大きいのでしょう。規模こそ違いますが、何を確認すべきかはすでにご存じですので、こちらのやり方をご説明すれば理解されるのも早うございます」
「大したものですね」
セドリックが素直に感心した声を上げた。
「領地であれだけ動いていらしたので働き者なのは知っていましたが、屋敷の管理までそこまでできるとは思いませんでした」
アレクシスも同じだった。
再会してから、エレノアが5年前とは違うことには何度も気づかされている。自分がいなかった5年間、彼女がリーヴェで何をしてきたのかも聞いていたつもりだった。
けれど、知っていたのはその一部にすぎなかったらしい。
18歳だったエレノアは、戦争が終わるのをただ待っていたわけではない。荒れた領地で父を支え、人が足りなければ自分も動き、その中で必要になったことを一つずつ覚えてきた。
アレクシスが思っていた以上に、彼女はこの5年間で多くのものを身につけていた。
「できないと思っていたわけではない」
ぽつりとアレクシスが言うと、セドリックがそちらを見る。
「ただ、もっとゆっくりでいいと思っていた」
急がせるつもりはなかった。
結婚までにすべてを覚える必要などないし、侯爵夫人になってから少しずつ慣れていけばいい。そう考えていたからこそ、家令にもエレノアの負担にならないよう進めるよう伝えていた。
家令が静かに頷く。
「私も急がせてはおりません。エレノア様ご自身が、自然とここまで進まれたのでございます」
その答えに、アレクシスはしばらく何も言わなかった。
「頼もしい方ですね、エレノア様は」
セドリックの言葉にも、今度はすぐに頷いた。
「ああ」
短い返事だったが、そこに異論はなかった。
家令は続けて、屋敷の実務とは別に、王都での貴族同士の付き合いについてはセシリアが少しずつ教えていく予定であることも伝えた。
「大奥様が、近いうちに小規模なお茶会を開かれるとのことでございます」
「そうか」
「エレノア様は基本的な作法については問題ございませんが、王都での社交そのものにはまだ慣れていらっしゃいませんので、まずは大奥様のお知り合いから、と」
それについては、アレクシスにも異論はなかった。
エレノアが本来社交界へ出るはずだった頃には戦争が始まり、その後はずっとリーヴェにいた。作法を知らないわけではなく、単純に経験する機会がなかっただけだ。
「母上に任せておけばいい」
「私もそう思います」
セドリックが答え、家令も一礼した。
必要な報告を終えた家令が執務室を出ていくと、室内には再び紙をめくる音が戻った。
アレクシスも仕事へ戻ったものの、先ほどまで読んでいた書類の続きを追う前に、一度だけ手を止めた。
5年前、リーヴェで療養していた自分のところへ毎日のようにやって来て、本の話やその日にあったことを楽しそうに話していた18歳の少女と、今この屋敷で侯爵家の帳簿を広げているエレノアは、もちろん同じ人間だ。
けれど、自分が知らなかった5年間が彼女にも確かにある。
それをこれから少しずつ知っていくことになるのだと思うと、アレクシスはほんのわずかに目を細めた。
「閣下」
セドリックの声に視線を上げると、新しい書類が差し出されていた。
「次はこちらです」
「ああ」
受け取ったアレクシスは、今度こそ仕事へ意識を戻した。




