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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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ある朝、侯爵邸の玄関前に停められた馬車へ、最後の荷物が運び込まれていた。

ついにリナがリーヴェ領へ帰る日になったのだ。


大きなものはほとんどない。王都へ来るときから、リナは長く滞在するつもりではなかったからだ。それでも荷物が一つずつ積み込まれていくのを見ていると、本当に帰ってしまうのだという実感が増していく。

エレノアは玄関ホールに立ったまま、その様子を眺めていた。


「忘れ物はない?」


隣にいたリナが笑う。


「昨日も確認しましたし、今朝も確認しました。大丈夫です」


「本当に?」


「エレノア様よりは、忘れ物は少ないと思います」


それを言われると何も返せず、エレノアは口を閉じた。

ローザへの引き継ぎはすでに終わっている。侯爵邸での暮らしにも慣れ、身の回りのことはローザが把握してくれている。

リナが帰ることは、エレノア自身が望んだことでもあった。

だから、寂しいからと今さら引き止めるつもりはない。

そう思っているのに、朝から何度も荷物を確認したり、出発の時間を尋ねたりしてしまう。


「エレノア様」


「なに?」


「そんなに心配なさらなくても、ちゃんとリーヴェへ着きますよ」


「心配してるんじゃないわ」


「では、何でしょう」


聞かれて、エレノアは少し考えた。


「……まだ帰らなくてもいいんじゃないかと思い始めただけ」


素直に答えると、リナが困ったように笑った。


「それでは、いつまで経っても帰れません」


「分かってるわ」


自分でも分かっているから、それ以上は言わなかった。

背後から足音が聞こえ、振り返るとローザがこちらへ歩いてきた。


「お荷物はすべて積み終わったそうです」


「ありがとうございます、ローザさん」


リナが頭を下げると、ローザも丁寧に応じた。

王都へ来てから、二人は毎日のように一緒にエレノアの身の回りを整えてきた。最初はリナが説明することの方が多かったが、今ではローザの方から先回りして動くことも増えている。


「エレノア様のことを、よろしくお願いいたします」


リナがそう言うと、ローザは静かに頷いた。


「はい。お任せください」


それだけの短いやり取りだったが、エレノアはなんとなく居心地が悪くなった。


「私、そんなに二人で引き継がれないといけないほど手がかかる?」


リナとローザが揃ってこちらを見る。


「……なによ」


「何も申し上げておりません」


そう答えたローザの横で、リナが笑いを堪えている。

エレノアもつられて笑った。

こんなふうに笑えるのなら大丈夫だと思ったのに、玄関の扉が開き、外で待つ馬車が見えた途端、胸の奥が急に寂しくなった。


リナと並んで外へ出ると、朝の空気は少し冷たく、馬車の前では御者が出発の準備を整えていた。

見送りに出てきたセシリアが、リナへ声をかける。


「エレノアさんのために王都まで来てくれて、ありがとう。道中、気をつけて帰ってね」


「ありがとうございます。大奥様にも大変お世話になりました」


「結婚式にはいらっしゃるのでしょう?」


「はい。そのつもりです」


「それなら、またお会いできるわね。楽しみにしているわ」


セシリアはそう言ってリナに微笑むと、エレノアの肩へ軽く手を添えた。


「私は中へ戻っているわね」


「はい、お義母様」


エレノアが頷くと、セシリアはもう一度リナへ挨拶をしてから屋敷へ戻っていった。

アレクシスは仕事のため、すでに屋敷を出ている。昨夜、リナが明日帰ると聞いた際には、これまでエレノアに付き添って王都まで来てくれたことへの礼と、帰路の馬車や護衛はこちらで用意すると伝えていた。

最初は遠慮していたリナも、3日かかる道のりを一人で帰らせるつもりはないと言われ、最後には受け入れていた。


やがて出発の準備がすべて整い、リナがエレノアへ向き直る。


「それでは、エレノア様。行ってまいります」


いつもと変わらない声だった。


その言い方がおかしくて、エレノアは少し笑った。


「帰るのに、行ってまいりますなの?」


「結婚式には戻ってまいりますから」


「ああ、そういうこと」


納得して頷いたものの、その言葉を聞いた途端、エレノアの目の奥が熱くなった。

泣くつもりはなかった。リーヴェへ帰ればもう会えないわけではないし、結婚式にも来てくれる。自分だって結婚したあと二度と故郷へ帰れないわけではない。


幼い頃から、リナはいつも近くにいた。

2つ年上の彼女を追いかけて遊んだ頃も、少し大きくなって同じ本を読んだり、くだらない話をしたりした頃も、戦争が始まってリーヴェの暮らしが変わってからも、一緒だった。

令嬢と侍女ではあったけれど、エレノアにとってリナは姉妹のような存在だったのだ。

王都へ来てからもそうだったから、離れて暮らすことがどういうものなのか、今になってようやく分かった気がした。


「エレノア様?」


リナに呼ばれ、エレノアは慌てて目元を押さえた。


「……やだ、泣くつもりじゃなかったのに」


「はい」


「結婚式にも来てくれるし、私もリーヴェへ帰れるもの」


「はい」


リナはそれ以上何も言わず、エレノアが落ち着くのを待っていた。

その顔を見ていたら、余計に涙がこぼれそうになる。

エレノアは諦めて一歩近づくと、リナを抱きしめた。

一瞬驚いたように身体を固くしたリナも、すぐにエレノアの背へ腕を回した。


「今まで、ありがとう」


口にしてから、以前マルタを見送ったときと似た言葉になったことに気づく。

けれどリナは笑った。


「まだ早いですよ」


「分かってるわ。結婚式の日もよろしくね」


「もちろんです」


しばらくして身体を離すと、リナの目も少しだけ赤くなっていた。


「リナも泣いてるじゃない」


「エレノア様が先に泣かれるからです」


「私のせいなの?」


「そういうことにしておいてください」


二人で笑う。

その方が、最後まで泣いているよりもリナらしいと思った。


「向こうに着いたら手紙をちょうだい」


「はい」


「結婚のことも、決まったらすぐに教えてね」


「もちろんです」


「それから――」


まだ何か言おうとしたエレノアを、リナが笑いながら止めた。


「エレノア様。3日後にはリーヴェに着きます。外国へ行くわけではありませんよ」


「分かってるわよ」


少し恥ずかしくなりながら答える。

リナはそんなエレノアを見て、穏やかに微笑んだ。


「エレノア様も、お幸せに」


その言葉に、エレノアは一瞬だけ黙った。


「……リナもね」


リナが馬車へ乗り込み扉が閉じると、御者の合図とともに馬車がゆっくり動き出し、エレノアはその場から手を振った。窓から顔を覗かせたリナも、見えなくなるまで手を振っている。

馬車が門を抜け、その姿が見えなくなっても、エレノアはしばらくそこに立っていた。

いつまでも見ていたところで、もう馬車は戻ってこない。


ようやく踵を返し、一人で屋敷へ戻る。

玄関ホールを通り、いつもの廊下を歩いて自分の部屋へ向かう。王都へ来てから何度も通った道なのに、今日は少しだけ違って感じられた。

部屋へ戻れば、もうリナはいない。

明日の朝も、その次の朝も、当たり前のように扉を開けて入ってくることはない。

そう思えばやはり寂しかったが、それでもこれでよかったのだとエレノアは思う。

自分がアレクシスとの未来を選んだように、リナにもリナの未来がある。

姉妹のように育ってきたからこそ、自分のためにそれを諦めてほしくはなかった。

部屋の前まで来ると、扉の側にはローザが控えていた。


「エレノア様」


いつもと変わらない穏やかな声に、エレノアは足を止める。


「ローザ」


「はい」


エレノアは少しだけ笑って、そのままローザと共に部屋へ入った。

見慣れてきたはずの部屋は、何も変わっていない。

それでも、そこにリナの姿がないだけで、今日はいつもより少し広く感じられた。







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