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クラリスと王都へ出かけた日から、さらに10日ほどが過ぎた。
侯爵邸での暮らしは、もう最初の頃ほど新鮮なものではなくなっていた。朝になればローザが部屋を訪れ、その日の予定を確認し、セシリアと過ごす時間があれば侯爵家や王都の社交について教わる。空いた時間には本を読んだり手紙を書いたりしながら過ごし、アレクシスが早く帰った日には夕食を共にする。
リナからローザへの引き継ぎも順調に進んでいるらしく、最近では身支度をローザに任せることも増えていた。
そんなある日の午後、エレノアの部屋には朝からいくつもの箱が運び込まれていた。
結婚式のために仕立てているドレスが、最初の仮縫いを迎えたのだ。
まだ完成にはほど遠く、細かな刺繍や装飾もすべて施されているわけではない。それでも、仕立て屋に手伝われながら初めて袖を通し、鏡の前に立った瞬間、エレノアは思わず息を止めた。
デザイン画で見ていたものとは、まるで違って見える。
柔らかな白い生地が身体に沿って流れ、裾へ向かうほどゆるやかに広がっている。これから手を加える箇所には仕立て屋が印をつけているものの、鏡の中に立っているのは、どう見ても結婚式のためのドレスを身につけた自分だった。
「まあ……」
背後でセシリアの声がした。
振り返ると、先ほどまで仕立て屋と細かな部分を確認していたセシリアが、すっかり手を止めてエレノアを見ている。
「やっぱりこちらにして正解だったわ。とてもよく似合っているわよ、エレノアさん」
「ありがとうございます、お義母様」
そう答えながら、エレノアはもう一度鏡へ向き直った。
生地を選んだ日にも、結婚が近づいていることは実感したつもりだった。けれど実際にドレスを身につけてみると、それまでとはまるで違う。
あと2ヶ月と少しで、このドレスを着てアレクシスと結婚する。
鏡の中の自分を眺めていると、嬉しいような、落ち着かないような気持ちになった。
仕立て屋が裾の長さを確認している間、ローザは必要なものを受け渡しながら側に控えていた。その隣にいたリナは、先ほどからほとんど口を開いていない。
いつもなら真っ先に何か言ってくれそうなのにと思い、エレノアは鏡越しにリナを見た。
「リナ?」
呼ばれたリナが、ようやくエレノアと目を合わせた。
「どうしたの?」
「いえ……」
リナは少しだけ困ったように笑った。
「本当にご結婚されるのだと思いまして」
「今さら?」
思わず笑うと、リナも笑った。
「分かってはいたのです。王都へお供したのも、そのためですから。それでも、こうして実際に花嫁衣装をお召しになっているところを見ると、やはり違いますね」
リナとは、幼い頃からずっと一緒に育ってきた。
年齢も2つしか違わず、立場こそ令嬢と侍女ではあったものの、エレノアにとっては姉妹のような存在だった。遊び相手になってもらった幼い頃から、成長して身支度を任せるようになってからも、気づけばいつもすぐ側にリナがいた。
泥だらけになって戻ってきてマルタに叱られたときには、呆れながら着替えを用意してくれたことも一度や二度ではない。
そのリナが今、鏡の向こうで花嫁衣装を着た自分を見ている。
「まだ完成していないわよ」
「それでも、とてもお綺麗です。完成したら、もっと素敵なのでしょうね」
「結婚式には来てくれるでしょう?」
エレノアが尋ねると、リナは驚いたように目を瞬いたあと、すぐに笑った。
「もちろんです。エレノア様の花嫁姿を見ないわけにはまいりません」
その返事に安心していると、セシリアが横から楽しそうに口を挟んだ。
「完成した姿は、私だって今から楽しみよ。今日でも十分素敵なのに、ここから刺繍も入るのだもの」
セシリアは仕立て屋と相談しながら、袖や裾へ施す予定の刺繍を確認していく。エレノアも鏡の前で何度か身体の向きを変え、歩いたときに裾が邪魔にならないか、長時間着ていて苦しくならないかを確かめた。
以前なら、綺麗なものなら多少の不便は仕方がないと思っていたかもしれない。しかしセシリアは、式の間ずっと身につけるのだから、エレノア自身が楽に過ごせることも大切だと言う。
「少しでも気になるところがあったら、今のうちに言ってちょうだいね。当日になって我慢するなんて駄目よ」
「今のところは大丈夫です。思っていたよりも動きやすいです」
「エレノアさんの『大丈夫』は、少し疑った方がいいのだったかしら」
セシリアがそう言ってローザを見ると、ローザは困ったように微笑み、リナまで黙って頷いた。
「お義母様まで……」
思わず抗議すると、部屋に小さな笑いが広がった。
一通りの確認が終わり、仕立て屋が最後に肩回りを調整しているところで、廊下の向こうから人の気配がした。
やがて扉の外で声が交わされ、ローザが様子を見に行く。すぐに戻ってきた彼女は、セシリアへ声を落として告げた。
「旦那様がお戻りになったそうです」
エレノアが反射的に扉の方を見ると、セシリアはすぐに首を振った。
「駄目よ」
「何がですか?」
「アレクシスに見せようと思ったでしょう?」
図星だったため、エレノアは返事に困った。
せっかく初めてドレスを着たのだから、少しくらい見てもらってもいいのではないかと思っただけなのだが、セシリアは譲るつもりがないらしい。
「花嫁衣装は結婚式の日まで秘密にしましょう。その方が楽しみが増えるもの」
「そういうものなのですか?」
「そういうものにするの」
ずいぶん楽しそうに断言され、エレノアは笑うしかなかった。
「分かりました。では、アレクシス様には内緒にします」
「ええ。絶対よ」
セシリアは満足そうに頷いた。
その日の夕方には、今度はアレクシスの婚礼衣装について仕立て屋と相談することになっていた。
クラリスと会った日に一緒に選びたいと話していたため、エレノアもセシリアと共に部屋へ向かう。アレクシスはすでに仕事着から着替え、仕立て屋が用意した生地や意匠の候補を前にしていた。
「アレクシス様」
声をかけると、アレクシスが振り返った。
その視線が一度エレノアへ向いたあと、後ろにいるセシリアへ移る。
「先ほど、仕立て屋が来ていたそうですね」
「ええ」
セシリアが何でもないことのように答える。
「エレノアさんの仮縫いをしていたの」
アレクシスの視線が再びエレノアへ戻った。
「着たのか?」
「はい」
「どうだった」
「まだ途中ですけれど、とても素敵に作っていただいています」
「そうか」
そこで会話が終わるのかと思ったが、アレクシスは少し間を置いてから尋ねた。
「見られないのか?」
エレノアは笑いそうになりながらセシリアを見る。
「お義母様が、結婚式まで秘密にした方がいいと」
「母上が?」
「ええ。私が決めました」
セシリアが堂々と答えると、アレクシスは何も言わず母を見た。しばらくして諦めたように小さく息をつく。
「……分かりました」
素直に引き下がったものの、納得しているようには見えない。
エレノアはそんなアレクシスを見て、少しだけ嬉しくなった。見たいと思ってくれていること自体が嬉しいのだと気づき、当日まで秘密にするのも悪くないような気がしてくる。
仕立て屋が広げた候補へ視線を移すと、今度はエレノアが真剣に選ぶ番だった。
アレクシスの婚礼衣装は、侯爵としての格式を保ちながらも華美になりすぎないものが中心だった。濃い色の生地を基調に、襟や袖口へ刺繍を施す案がいくつか並んでいる。
エレノアは一つずつ見比べながら、アレクシスの隣へ立った。
「アレクシス様は、どれがお好きですか?」
「特にない」
予想していた答えが返ってきて、エレノアは思わず笑った。
「本当に何でもよろしいのですか?」
「必要な形式を満たしているなら、俺は構わない」
「でも、結婚式のお衣装ですよ」
「だから君に選んでもらうことにしたんだろう」
あまりにも当然のように言われ、エレノアは返す言葉を失った。
確かに、先日そういう話にはなった。しかし本当にすべて任されるとは思っていなかった。
「私の好みだけで決めてしまって、あとで嫌だとおっしゃっても知りませんよ?」
「言わない」
迷いのない返事に、エレノアはまた笑った。
いくつかの候補を見比べていると、仕立て屋が一つの提案をした。
「奥方様のドレスに使う意匠を、旦那様のお衣装にも少し取り入れてはいかがでしょう。まったく同じものではなく、袖口や襟元に同じ意匠を用いる程度でしたら、並ばれた際にもよく映えるかと存じます」
奥方様、と呼ばれたことに少しだけ照れながらも、エレノアは提案された意匠へ目を向けた。
「同じものを入れるのは、素敵ですね」
そう言ってアレクシスを見ると、彼はほとんど迷わなかった。
「それでいい」
「まだどの意匠にするかも決めていませんよ?」
「君のドレスと揃うなら構わない」
エレノアは一瞬黙ったあと、仕立て屋が広げている見本へ視線を戻した。
先ほどまで自分の好みだけで選んでいいものか迷っていたのに、そんなことを言われれば、ますます真剣に選ばなければならない。
最終的には、エレノアのドレスにも使われる予定の植物を模した繊細な意匠を、アレクシスの袖口と襟元へ控えめに入れることになった。
生地の色や細かな仕立てについてはアレクシス本人と仕立て屋が確認し、エレノアも隣で意見を求められれば答える。
自分のドレスを選んだときとはまた違う楽しさがあった。
式の日、今日選んだ衣装を着たアレクシスの隣に、自分も花嫁衣装を着て立つ。
そう考えると、まだ2ヶ月以上先のことなのに、その日が待ち遠しくなった。
衣装の相談を終えたあと、エレノアはリナと共に自室へ戻った。
ローザは仕立て屋から預かった確認事項を整理するために残っており、久しぶりに二人だけで廊下を歩く。
「今日は楽しかったわ」
「はい。旦那様のお衣装も、きっとよくお似合いになると思います」
「そうね。完成するのが楽しみ」
話しながら部屋へ入り、エレノアは窓辺の椅子へ腰を下ろした。
リナはいつものように飲み物を用意してから、少し離れたところで手を止めた。
「エレノア様」
「なに?」
「ローザさんへの引き継ぎですが、ほとんど終わりました」
何気ない報告のように聞こえたのに、エレノアはすぐに返事ができなかった。
王都へ来る前から分かっていたことだった。
リナはここで暮らすために来たわけではない。エレノアが新しい生活に慣れ、侯爵家の侍女へ引き継ぎを終えたら、リーヴェへ戻ることになっている。
それを決めたのは、ほかでもないエレノア自身だ。
それなのに、毎朝変わらずリナが部屋へ来て、ローザと一緒に身支度を手伝ってくれていたから、いつの間にかまだ先のことのように思っていた。
「……そう」
ようやく出た言葉に、リナは穏やかに笑った。
「ローザさんでしたら、何も心配はいらないと思います。エレノア様のことも、もうずいぶん分かってくださっていますから」
「分かってるわ。ローザはとてもよくしてくれているもの」
「はい」
エレノアは手元のカップへ目を落とした。
ローザに不満があるわけではない。むしろ、これから側にいてくれるのが彼女でよかったと思っている。
それと、リナがいなくなることを寂しく思う気持ちは別だった。
「いつ頃、帰るの?」
「まだ決めておりません。ですが、引き継ぎが終わりましたら、いつまでもこちらにお世話になるわけにもまいりませんので」
「そうね」
分かっていたはずなのに、いざ言葉にされると寂しい。
そんなエレノアの顔を見て、リナが少し笑った。
「結婚式には、ちゃんと参りますよ」
「それは分かってるわ」
エレノアも笑い返した。
「絶対に来てね」
「もちろんです。エレノア様の花嫁姿を見ないわけにはまいりません」
「リナの結婚も、ちゃんと知らせてね」
「はい。必ず」
リナがリーヴェへ帰っても、これで終わるわけではない。
自分はアレクシスと結婚し、リナもいつかリーヴェで家庭を持つ。それぞれの暮らしが変わっても、姉妹のように育ってきた時間までなくなるわけではなかった。
それでも、毎日のように隣にいた人がいなくなることを、何とも思わずにいられるはずもない。
エレノアはリナを見上げた。
「帰る日が決まったら、ちゃんと教えてね」
「もちろんです」
いつものように返ってきた声を聞きながら、エレノアはあとどれくらい、こうしてリナと同じ部屋で話せるのだろうと思った。
結婚の日が近づくにつれて、新しいものが一つずつ増えていく。
その一方で、これまで当たり前だった暮らしも、少しずつ形を変え始めていた。




