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王都へ来てから、数日が過ぎた。
最初こそ広すぎると思った侯爵邸にも、少しずつ慣れてきた。自分の部屋から食堂まで迷わず歩けるようになり、廊下ですれ違う使用人たちの顔と名前も、まだ全員とはいかないものの少しずつ一致するようになっている。
ローザとも、初日に比べればずいぶん話すようになった。
長く侯爵家に仕えているだけあって、屋敷のことはもちろん王都の店や仕立て屋にも詳しく、エレノアが何か尋ねればすぐに答えてくれる。それでいて必要以上に口を出すことはなく、リナとはまた違う心地よい距離で側にいてくれた。
セシリアからは侯爵家について少しずつ教わっているが、エレノアが思っていたほど戸惑うことばかりでもなかった。
帳簿を見せられれば数字を追うことはできたし、物資の出入りや使用人たちへの支払いについても、仕組みそのものはリーヴェと大きく変わらない。規模が違うため覚えることは多いものの、戦後の5年間、父の側で領地の復興を手伝い、必要があれば専門家や職人とも話してきた経験は、思っていた以上に役に立った。
初めて帳簿を見せてもらった日、セシリアに「ここまで分かるの?」と驚かれたことの方が、エレノアには意外だったほどだ。
料理や裁縫についても同じだった。人手の足りなかったリーヴェでは、できる者ができることをするのが当たり前だったため、特別なことを身につけたという意識はない。
ただ、王都の社交となると話は別だった。
誰と誰が親戚で、どの家とどの家に長い付き合いがあり、王宮で誰にどの順番で挨拶をするのか。そうした話になると、エレノアは途端に聞く側へ回ることになる。
「そちらは、ゆっくり覚えればいいのよ」
セシリアはそう言って笑っていた。
アレクシスとの生活にも、少しずつリズムができ始めている。
朝食を一緒に取れる日もあれば、エレノアが食堂へ向かう頃にはすでに仕事へ出ている日もある。夕食も同じで、早く帰ってくれば共に食べ、遅くなる日は先に済ませるよう言われていた。
同じ屋敷で暮らし始めたからといって、いつでも会えるわけではない。
それでも以前とは違う。
朝に会えなくても、夜になれば同じ屋敷へ帰ってくる。夕食を共にできなくても、翌朝には顔を合わせられるかもしれない。
そのことが、エレノアには嬉しかった。
そんな生活にも少し慣れた頃、エレノアは以前から約束していた外出の日を迎えた。
待ち合わせの店へ着くと、先に来ていたクラリスがエレノアの姿を見つけ、すぐに笑顔を見せた。
「エレノア様。お久しぶりです」
「クラリス様。お会いできるのを楽しみにしていました」
顔を合わせるのは約3ヶ月ぶりだった。
けれど、不思議とそれほど久しぶりという気がしない。リーヴェへ戻ってからも手紙を送り合い、王都であったことやリーヴェでの暮らし、結婚準備について何度もやり取りをしていたからだろう。
席につき、飲み物が運ばれてくる頃には、3ヶ月という時間などなかったかのように話が弾んでいた。
「お手紙で伺ってはいましたけれど、本当に侯爵邸で暮らし始めたのですね」
「はい。まだ数日ですけれど、皆さんによくしていただいています」
「セシリア様もお喜びでしょう」
その名前が出た途端、エレノアは数日前のことを思い出して笑った。
「実は、お義母様と呼ぶようになったんです」
クラリスが目を丸くした。
「もう?」
「そう呼んでほしいと言ってくださって。最初は少し緊張しましたけれど、今は少しずつ慣れてきました」
「それはセシリア様がお喜びになったでしょうね」
「はい。もう一度呼んでほしいと言われました」
思い出して笑うエレノアにつられ、クラリスも楽しそうに笑った。
「エレノア様がお手紙でおっしゃっていた以上に、可愛がられていらっしゃるようですね」
「本当によくしていただいています。ドレスも一緒に選んでくださったんですよ」
「もうお決めになったのですか?」
「大まかな形と生地は決まりました。これから仕立てていただいて、仮縫いをしていただくことになっています」
結婚式のドレスについて話し始めると、今度はクラリスの表情がいっそう明るくなった。
「それでしたら、次にお会いするときには、かなり形になっているかもしれませんね」
「そうかもしれません。まだ自分があのドレスを着るところは、あまり想像できないのですけれど」
「私も最初はそうでしたよ」
その言葉に、エレノアは顔を上げた。
クラリスの結婚式は、エレノアよりも先に控えている。婚約そのものもずっと以前から決まっており、手紙の中でも準備が進んでいることは聞いていた。
「クラリス様は、もう来月ですね」
「ええ。ここまで来ると、楽しみより先に、本当に間に合うのかしらと思うことの方が増えてしまって」
「クラリス様でもそう思われるんですか?」
「もちろんです。昨日も確認したはずのものを、夜になってもう一度確認してしまいました」
しっかりして見えるクラリスにもそんなことがあるのだと知り、エレノアは少し安心した。
「ユリウス様は?」
「まったく心配していません。私が何度確認しても、大丈夫だろうと言うだけです」
「アレクシス様と少し似ていますね」
「そうかもしれません。本人たちは、自分の衣装さえ用意されていれば結婚式ができると思っているのではないでしょうか」
さすがにそれはないだろうと思いながらも、エレノアはアレクシスの顔を思い浮かべてしまった。
「そういえば、アレクシス様の婚礼衣装はどうなさるのですか?」
「お義母様が仕立て屋にお願いしていると聞いています。まだ詳しくは見ていませんけれど」
「エレノア様は選ばれないのですか?」
「私が、ですか?」
思ってもいなかったことを言われ、エレノアは瞬いた。
「全部を決める必要はありませんけれど、せっかくですもの。色や刺繍くらい、エレノア様のお好みを入れてもよろしいのでは?」
「そんなこと、考えたこともありませんでした」
自分のドレスを選ぶだけで精一杯で、アレクシスの衣装にまで口を出していいとは思っていなかった。
けれど、想像してみると少し楽しそうでもある。
「今度、お義母様に聞いてみます」
「ええ。きっと喜んでくださいますよ」
クラリスはそう言ってから、少し笑った。
「アレクシス様ご本人は、何でもいいとおっしゃいそうですけれど」
エレノアも否定できず、二人で笑った。
話題がひと段落したところで、今度はクラリスが侯爵邸での暮らしについて尋ねた。
「実際に同じお屋敷で暮らしてみて、いかがですか?」
「そうですね……思っていたより、お会いできないものだとは思いました」
「そうなのですか?」
「朝は私が食堂へ行く前にお仕事へ出られていることもありますし、夜も遅くなられる日がありますから。でも、お忙しいことは前から分かっていましたし、お仕事を疎かにされる方ではありませんから」
そう答えてから、エレノアは少し考えた。
リーヴェにいた頃も、王都にいたアレクシスとは毎日会えるわけではなかった。手紙を待ちながら何日も過ごしていたことを思えば、今はずっと近くにいる。
「それでも、以前とは違うんです。朝にお会いできなくても、夜になれば同じ場所へ帰ってくるでしょう? 今日は遅くても、明日は一緒に朝食を取れるかもしれません。そう思えるだけで、私は嬉しいんです」
クラリスはしばらくエレノアを見つめたあと、ふっと笑った。
「エレノア様、ずいぶんお幸せそうですね」
言われて初めて自分がどんな顔をしていたのか気づき、エレノアは少し恥ずかしくなった。
「……そう見えますか?」
「とても」
否定する理由もなく、エレノアも笑った。
「クラリス様はどうですか? もうすぐユリウス様とご結婚されるのでしょう?」
「私たちは長く婚約していましたから、今さら何かが大きく変わるような気がしなかったんです。でも、いざ日が近づいてくると不思議ですね。これまで当たり前に実家へ帰っていたのに、もうすぐ帰る場所が変わるのだと思うと、急に実感が湧いてきました」
「分かるような気がします」
エレノア自身、ほんの数日前にそれを経験したばかりだ。
リーヴェを離れた寂しさは今もある。それでも、王都に新しい居場所ができ始めていることも確かだった。
その後も話題は尽きず、王都での暮らしやリーヴェのこと、クラリスとユリウスの新居について話しているうちに、いつの間にかずいぶん時間が経っていた。
店を出ようとしたところで、クラリスが思い出したようにエレノアを振り返った。
「エレノア様、このあとお時間はありますか?」
「はい。今日は特に予定はありません」
「でしたら、少しお買い物に付き合っていただけませんか? 新居へ持っていくものを、もう少し見ておきたくて」
「もちろんです」
店を出た二人は、そのまま王都の通りを歩いた。
以前王都へ来たときには見るものすべてが珍しく、店先を眺めているだけでも時間が足りなかったが、今日は隣にクラリスがいる。気になった店へ一緒に入り、品物を見ながらあれこれ話す時間は、一人で歩いたときとはまるで違った。
クラリスは新居で使う小物をいくつか選び、エレノアも横から意見を求められた。
「こちらとこちらなら、どちらがいいと思いますか?」
「私は、こちらの方がクラリス様のお部屋には合うと思います。以前、お手紙に書いていらした色にも近いですし」
「私もそう思っていたんです。では、こちらにします」
手紙で聞いていた新居が、クラリスにとっても少しずつ現実のものになっているのだろう。
何軒か店を見て回ったあと、小さな装飾品を扱う店に入ったところで、クラリスが足を止めた。
並べられていたのは、花をかたどった小さなブローチだった。派手なものではないが、細かな細工が施されており、中央には色の違う小さな石が嵌め込まれている。
「これ、素敵ですね」
クラリスが手に取ったものの隣に、同じ意匠で石の色だけが違うものがあった。
「本当ですね。こちらも綺麗です」
エレノアがもう一つを手にすると、クラリスは二つを見比べ、それからエレノアを見た。
「……エレノア様。お揃いにしませんか?」
「お揃い、ですか?」
「はい。同じものを持つのも、楽しそうでしょう?」
その言葉に、エレノアは手の中のブローチを見つめた。
同じ年頃の友人と王都を歩き、気に入ったものを見つけて、お揃いで買う。考えてみれば、こんな経験はこれまでほとんどなかった。
18歳になる頃には戦争が激しくなり、その後の5年間はリーヴェの復興に追われていた。忙しかった日々を嫌だったとは思わない。それでも、今こうして過ごしている時間が嬉しいことも確かだった。
エレノアは顔を上げて笑った。
「……嬉しいです。そうしましょう」
二人は同じ花をかたどった、石の色だけが違うブローチをそれぞれ選んだ。
店を出たあともクラリスは何度か包みを見ており、エレノアも同じだった。特別高価なものではない。それでも、今日王都へ出てきたことを思い出すたび、この小さな花を見ることになるのだろう。
やがて別れる時間になり、エレノアは名残惜しく思いながらクラリスへ向き直った。
「クラリス様の結婚式、とても楽しみにしています」
「ありがとうございます。エレノア様にも来ていただけるのが嬉しいです」
クラリスはそう答えてから、少しだけ照れたように笑った。
「その次は、エレノア様ですね」
「……はい」
以前なら、その言葉に緊張の方が先に立っていたかもしれない。
けれど今は違った。
「次は、私です」
自分で口にすると、また少しだけ結婚式が近づいたような気がした。
クラリスと別れたあと、エレノアは侯爵邸へ戻った。
門をくぐり、馬車が見慣れ始めた玄関前へ止まる。
数日前までは、ここへ戻ってくるたびに「侯爵邸へ来た」と思っていた。けれど今日は、不思議とそうは思わなかった。
外出を終えて、自分の暮らす場所へ帰ってきた。
そんな感覚が少しずつ生まれている。
馬車を降りて屋敷へ入ると、ちょうど奥からセドリックが歩いてくるのが見えた。
「お帰りなさいませ、エレノア様」
「ただいま、セドリック。アレクシス様は?」
「少し前にお戻りです」
思っていたより早い。
エレノアの表情が自然と明るくなった。
「もうお戻りなのね」
「本日は珍しく」
セドリックがわずかに笑ったため、エレノアも笑いながら奥へ向かった。
アレクシスは居間にいた。
仕事から戻ったばかりなのか、まだ外出時の服装のままで、手元の書類に目を通している。
エレノアが入ってきたことに気づくと、アレクシスは書類から顔を上げた。
「帰ったか」
「はい。先ほど戻りました」
立ち上がったアレクシスがこちらへ来る。
「クラリス嬢とは楽しかったか?」
「はい。とても。お手紙はずっといただいていましたけれど、やっぱり直接お話しするのは違いますね」
「そうか」
エレノアは今日話したことを伝えようとして、ふとクラリスから言われたことを思い出した。
「アレクシス様」
「なんだ」
「結婚式のお衣装は、もうお決まりですか?」
突然の質問だったのだろう。アレクシスはわずかに眉を上げた。
「いや。母上に任せている」
やはり、とエレノアは思った。
「私も一緒に選んでもよろしいですか?」
今度は、アレクシスが少しだけ黙った。
「俺のものを?」
「はい。クラリス様に、せっかくなのだから私の好みも入れてはどうかと言われたんです。もちろん、アレクシス様がお嫌でなければですけれど」
「構わない」
返事は早かった。
「特に希望はない。君が選びたいなら、そうすればいい」
「全部は駄目です。アレクシス様も一緒に選んでください」
エレノアが笑うと、アレクシスも拒むことなく頷いた。
「分かった」
そ
の返事に満足していると、アレクシスがエレノアを見たまま、ふと声を柔らかくした。
「おかえり、エレノア」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
けれどすぐに、ここへ来た日のことを思い出す。
あの日はセシリアが、屋敷の前で「おかえりなさい」と迎えてくれた。そして昨日まで、自分は仕事から戻ったアレクシスへ何度も「おかえりなさい」と言っていた。
今度は、自分が言われる番だった。
エレノアはアレクシスを見上げ、自然と笑った。
「……ただいま戻りました」
王都へ来て、まだ数日しか経っていない。
それでも少しずつ、ここへ帰ってくることが当たり前になっていくのかもしれない。




