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翌朝、エレノアが目を覚まして最初に目にしたのは、まだ見慣れない天井だった。
ぼんやりと眺めているうちに昨日王都へ着いたことを思い出し、身体を起こして部屋を見回す。窓辺の椅子も大きな机も、昨夜リナと並べた本が収まった本棚も、昨日初めて見たばかりのものなのに、そこへ自分の荷物が加わっただけで少し印象が変わって見えた。
そして、視線を巡らせた先には、廊下へ出るものとは別の扉がある。
その向こうがアレクシスの部屋だと聞いたときのことを思い出し、エレノアはしばらく扉を眺めていた。あと3ヶ月もすれば、この扉を隔てた隣の部屋で暮らすことが当たり前になるのだろうか。
まだうまく想像できないまま寝台を出したところで、控えめに扉が叩かれた。
「エレノア様、お目覚めですか?」
聞き慣れたリナの声に返事をすると、ほどなくして彼女が部屋へ入ってくる。
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
「ええ。自分でも驚くくらいよく眠れたわ」
「それはようございました。昨日は長旅のあとにもかかわらず、荷解きをほとんど終わらせてしまわれましたから」
少し呆れたように言われ、エレノアは笑った。3日も馬車に揺られてきたのだから休むようにと何度か言われたものの、部屋に箱が積まれたままなのが気になり、結局リナと二人で片づけ始めてしまったのだ。
身支度を手伝ってもらいながら、エレノアはふと隣の部屋へ続く扉へ目を向けた。
「アレクシス様は、もう起きていらっしゃるの?」
「旦那様でしたら、もうお出かけになりましたよ」
「……もう?」
驚いて振り返ると、リナは当然のことのように頷いた。
「ずいぶん早くにお出かけになったそうです。お戻りは夕方になると伺っております」
起きるのが遅かったわけではないはずなのに、それよりもずっと早くアレクシスは仕事へ向かったらしい。昨夜は夕食を一緒に取ったものの、同じ屋敷で暮らすようになったのだから、朝も顔を合わせるものだと何となく思っていた。
少しだけ残念だったが、アレクシスが忙しいことは王都へ来る前から知っている。
「お仕事ですものね」
そう言って鏡の前へ向き直ると、リナが髪を整えながら小さく笑った。
朝食へ向かうと、セシリアはすでに席についていた。
「おはよう、エレノアさん。よく眠れた?」
「おはようございます。はい、とてもよく眠れました」
「それならよかったわ。昨日はずいぶん長い一日だったでしょう」
勧められた席についたところで、エレノアはやはりアレクシスの姿がないことが気になり、先ほどリナから聞いたばかりだというのに口にしてしまった。
「アレクシス様は、もうお仕事へ行かれたのですね」
「ええ。朝早くに出ていったみたい」
セシリアは特に驚く様子もなく答え、紅茶へ手を伸ばした。
「仕事人間だもの、アレクシスは。あなたが来たからといって、そこまで急に変わったりはしないわ」
冗談めかした言い方に、エレノアは思わず笑った。
「それは困ります。私が来たからといって、お仕事を放り出されても」
「でしょう? あの子はあの子で仕事をするのだから、エレノアさんもアレクシスを待って一日を過ごしたりしなくていいのよ。ここで好きなことをして、あなたの暮らしを作っていけばいいの」
その言葉は、エレノアにはありがたかった。
侯爵家へ来たからといって、突然これまでとはまったく違う人間にならなくてもいいのだと、セシリアは昨日から何度も伝えてくれているような気がする。
「まあ、昨日はあなたの馬車が予定より少し遅れただけで、ずいぶん落ち着かなかったそうだけれど」
セシリアが何気なく付け加えたため、エレノアはまた笑ってしまった。
「それは昨日、セドリックから聞きました」
「まあ、もう聞いたの?」
「はい。アレクシス様は何もおっしゃいませんでしたけれど」
「言うわけがないわね」
二人で顔を見合わせて笑っていると、アレクシス本人がいない朝食の席なのに、不思議と寂しい感じはしなかった。
朝食を終えて部屋へ戻ると、ほどなくして一人の女性が訪ねてきた。
年齢はリナより少し上だろうか。きちんとまとめられた髪に乱れはなく、立ち姿にも落ち着きがある。侯爵家の侍女らしく身なりは整っているものの、表情には堅苦しさよりも穏やかさがあった。
女性はエレノアの前まで進むと、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、エレノア様。本日より身の回りのお世話をさせていただきます、ローザと申します」
昨日、専属の侍女については翌日に改めて紹介すると聞いていたことを思い出し、エレノアもローザへ向き直った。
「エレノア・リーヴェルトです。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。何かご不便なことや、ご希望がございましたら、どのようなことでもお申しつけくださいませ」
落ち着いた声と柔らかな表情に、エレノアは少し安心した。
結婚後、リナはリーヴェへ戻ることになっている。王都まで一緒に来てくれたため、まだ別れる実感はほとんどないものの、いずれは幼い頃から自分を知るリナではない人に身の回りを任せることになる。
目の前にいるローザなら、少しずつ慣れていけそうだった。
「ローザさんには、しばらく私と一緒にいていただくことになっております」
リナがそう説明すると、ローザも頷いた。
「エレノア様のお好みや、普段どのようにお過ごしなのかを教えていただければと思っております。旦那様からも、エレノア様がこちらで不自由なくお過ごしになれるようにと申しつかっておりますので」
「アレクシス様が?」
「はい」
知らないところですでにそこまで手配していたらしい。
リナはローザへ向き直ると、さっそく引き継ぎを始めた。
「エレノア様は本をお読みになると、お時間を忘れてしまわれることがあります」
「リナ」
「承知いたしました」
ローザが真面目に頷くため、エレノアは口を挟む機会を失った。
「それから、お疲れでもご自分では気づかれないことがあります。お尋ねしても、大丈夫だとおっしゃることが多いので、その場合は少しお気をつけください」
「そちらについては、旦那様からも伺っております」
今度こそエレノアはローザを見た。
「そんなことまで聞いているの?」
「はい。ご自分のことになると無理をなさることがあるので、よく様子を見るようにと」
リナまで納得したように頷いている。
「私、本当にそこまでではないと思うのだけれど」
「そのようにおっしゃることも含めて、お伝えしておきますね」
穏やかに返したリナに、ローザがほんの少し笑った。
どうやら王都へ来て早々、自分の周囲にはリナと同じことを言う人がもう一人増えたらしい。
午前中は、ローザに案内されながら屋敷の中を見て回った。
以前訪れたときにもいくつかの部屋には入ったが、客として案内されるのと、これからここで暮らす者として歩くのとでは見え方が違う。普段使う食堂や応接室、庭へ出る場所など、日々の生活に必要なところを中心に教えてもらい、途中で顔を合わせた使用人たちとも改めて挨拶を交わした。
エレノアがそのたびに名前を聞いていると、ローザは何人目かのところで少し笑った。
「一度に皆の名前を覚えていただかなくても大丈夫でございます」
「でも、これから一緒に暮らす方たちでしょう? 少しずつでも覚えたいわ」
「それでしたら、皆も喜ぶと思います」
そう言って微笑むローザを見て、エレノアも笑った。
屋敷の規模も、そこで働く人の数もリーヴェとは比べものにならない。それでも、一人ずつ顔を知っていけば、いつかこの広い屋敷にも慣れる日が来るのだろう。
昼食を終えて少し休んだあと、エレノアはセシリアの部屋へ向かった。
テーブルにはお茶が用意され、リナとローザも一緒に部屋へ入る。エレノアが席につくと、セシリアはまず体調を尋ね、それから荷物について口にした。
「荷解きもまだ残っているでしょう? 今日は無理をしなくてもいいのよ」
「荷解きでしたら、昨日終わりました」
セシリアがティーカップへ伸ばしていた手を止めた。
「……昨日?」
「はい。ですので、早速お願いいたします」
エレノアが期待を込めて姿勢を正すと、セシリアはしばらくこちらを見つめたあと、楽しそうに笑った。
「本当に働き者なのね。アレクシスから聞いていた通りだわ」
「リーヴェでは、毎日何かしらすることがありましたから。何もしないでいる方が落ち着かなくて」
「そうみたいね。でも、それならちょうどよかったわ。今日はとても大事なことを決めなくてはいけないの」
声の調子が少し変わったため、エレノアも自然と背筋を伸ばした。
これから侯爵夫人になるにあたって、最初に教わるべきことがあるのだろうか。王都の社交についてか、それとも結婚後の侯爵家での役目についてか。
「大事なこと、ですか?」
「ええ。何より先に決めなくてはいけないことよ」
セシリアはもったいぶるように少し間を置いたあと、楽しそうに笑った。
「結婚式のドレスよ」
「……ドレス?」
思っていたものとまったく違う答えが返ってきて、エレノアは目を瞬いた。
「そう。あと3ヶ月しかないのよ。そろそろ本格的に作り始めないと間に合わなくなるわ」
セシリアが合図をすると、待っていたらしい侍女たちがいくつもの箱や布地、デザイン画を運び込んできた。
あっという間にテーブルの上へ広げられていくものを見て、エレノアは圧倒される。白を基調としていることは同じでも、布地の質感も刺繍も少しずつ違い、描かれているドレスの形も一つとして同じものはなかった。
「もう、こんなに?」
「あなたが王都へ来る前から仕立て屋とは話をしていたの。ある程度は候補を絞ってあるけれど、最後に決めるのはエレノアさんよ。あなたの結婚式なんですもの」
「侯爵家の結婚式ですから、私の好みだけで決めてしまってもよいのでしょうか」
「もちろん格式は考えるわ。でも、それはこちらでいくらでも調整できるもの。あなたはまず、自分が着たいと思うものを選びなさい」
迷いのない言葉に、エレノアは目の前に並べられたデザインへもう一度視線を落とした。
結婚することは、もちろん分かっていた。あと3ヶ月だということも、そのために王都へ来たことも分かっている。
それでも、こうして自分が着るためのドレスを目の前にすると、急にその日が近づいてきたような気がした。
「アレクシス様は、何かおっしゃっていましたか?」
ふと思いついて尋ねると、セシリアは少し呆れたように笑った。
「聞いたわよ。どんなドレスがいいと思うかって。でも、エレノアが好きなものにすればいい、としか言わないの」
その答えがあまりにもアレクシスらしく、エレノアは笑ってしまった。
「アレクシス様らしいですね」
「でしょう? せっかく聞いたのに、何の参考にもならなかったわ」
そう言いながらも、セシリアは楽しそうだった。
リナも加わってデザインを見比べ、ローザは王都で最近使われることの多い生地や、実際に仕立てた場合の印象について教えてくれる。セシリアは気になるものを次々とエレノアへ合わせ、少し離れて眺めては首を傾げたり、満足そうに頷いたりしていた。
「これは綺麗だけれど、少し重そうね。式のあいだずっと着ることを考えると、こちらの方がいいかしら」
「でも、この刺繍も素敵です」
「そうね。なら刺繍だけこちらを参考にすることもできるわ。全部そのまま選ばなくてもいいのよ」
セシリアはそう言いながら、別の布地をエレノアの肩へ当ててみる。
その様子を見ているうちに、エレノアはふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
母が亡くなったのは、エレノアが15歳の頃だった。
それからは父やマルタ、リナに囲まれて過ごし、寂しいばかりの日々だったわけではない。それでも、もし母が今も生きていたなら、結婚が決まったときにはこうして一緒にドレスを選んでくれたのだろうかと思うことはあった。
しばらくデザインを見比べていたセシリアが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだわ、エレノアさん」
「
はい?」
「これから私のことは、お義母様と呼んでね」
あまりにも自然に言われたため、エレノアはすぐに返事ができなかった。
「……よろしいのですか?」
「もちろんよ。あと3ヶ月で本当にそうなるのだもの」
セシリアは当然のように答え、それから少しだけ声を柔らかくした。
「それに私、もうあなたのことを娘だと思っているわ」
その言葉に、エレノアは胸がいっぱいになった。
母を亡くしてから、誰かを母と呼ぶことはなかった。もう二度と、自分がそう呼べる人ができることなどないと思っていたわけではない。それでも、目の前の人からこんなにも自然に「娘」と言ってもらえる日が来るとは思っていなかった。
セシリアは急かすこともなく、ただ笑ってエレノアを見ている。
エレノアもつられるように笑った。
「……はい、お義母様」
呼んだ瞬間、セシリアの顔がぱっと明るくなった。
「もう一度呼んでくれる?」
「え?」
「だって、嬉しいんですもの」
思わず笑ってしまいながら、エレノアはもう一度口にした。
「お義母様」
「ええ」
満足そうに頷いたセシリアは、すぐに目の前のデザイン画へ手を伸ばした。
「では、娘の結婚式のドレスを決めなくてはね。3ヶ月なんて、あっという間よ」
先ほどよりもさらに楽しそうなセシリアを見て、エレノアも笑いながら隣へ身を寄せた。
侯爵夫人になるために覚えなければならないことは、これからいくらでもあるのだろう。
けれど今日は、もう少しだけこの時間を楽しんでいたかった。
新しい家での暮らしが始まって2日目。
エレノアには、新しい侍女と、これから母と呼べる人ができた。




