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出発の朝、エレノアはいつもより早く目を覚ました。
荷物はすでにまとめ終えている。王都へ持っていくものは昨夜のうちにほとんど運び出され、部屋には必要最低限のものだけが残っていた。
身支度を終えたあとも、エレノアはすぐには部屋を出なかった。
机も、窓辺の椅子も、本棚も、昨日までと何も変わらない。けれど、本が減り、いつも置いていたものがなくなった部屋は、どこか広く見えた。
今日、この部屋を出る。
もう戻ってこないわけではない。結婚してもリーヴェは故郷であり、父もマルタもここにいる。それでも、ここで毎朝目を覚ます暮らしは今日で終わるのだと思うと、寂しさが込み上げた。
階下へ降りると、父はすでに食堂で待っていた。
「おはよう、エレノア」
「おはようございます、お父様」
向かいに座り、いつもと同じように朝食を取る。けれど、今日はいつもと同じ朝ではない。
「結婚式には私も王都へ行くよ」
父がそう言った。
「もちろんです。来てくださらないと困ります」
「そうだね。それに、結婚したからといってリーヴェへ帰ってこられなくなるわけでもない」
「分かっています」
分かっている。それでも寂しいものは寂しかった。
父はしばらくエレノアを見てから、穏やかに笑った。
「私も寂しいよ」
顔に出ていたのか、その言葉にエレノアは顔を上げた。
「君がいなくなったら、この家はずいぶん静かになるだろうな」
「……お父様」
「でも、王都へ行くのは楽しみなんだろう?」
エレノアは少しだけ迷ってから、頷いた。
「…はい」
寂しい気持ちも、王都へ行くのが楽しみな気持ちも、どちらも本当だった。
◇
朝食を終えて外へ出ると、すでに馬車が用意されていた。
父だけでなく、マルタや屋敷の使用人たちも見送りに出ている。リナはエレノアとともに王都へ向かうため、すでに荷物を積み終えて馬車のそばに立っていた。
「エレノア様」
マルタがエレノアの前へ進み出た。
「王都へ行かれても、きちんとお食事をなさってくださいませ。お疲れのときはお休みになること。それから、危ないことを見つけたからといって、ご自分でどうにかしようとなさらないでください」
「分かっているわ」
「あと、外へお出かけになるときは、くれぐれも泥だらけになってお戻りになるようなことのないように」
「気をつけるわ」
エレノアが笑いながら答えると、マルタは困ったように眉を下げた。
「お気をつけになるだけでは困るのですが」
いつもなら、ここからもう少し小言が続くところだった。
けれど今日は、マルタはそれ以上何も言わなかった。しばらくエレノアを見つめたあと、静かに微笑む。
「……お幸せに、エレノア様」
その一言を聞いた途端、エレノアは堪えきれずにマルタへ抱きついた。
「今まで、ありがとう」
「そんな、もう二度とお帰りにならないようなことをおっしゃらないでくださいませ」
「そういう意味じゃないわ。また帰ってくるから」
「はい。お待ちしております」
身体を離してから、エレノアは父の前へ向かった。
父は何も言わずに両腕を広げた。エレノアはその胸へ身を寄せる。
「行っておいで、エレノア」
「……はい」
「幸せになるんだよ」
父を抱きしめてから離れ、エレノアは馬車へ乗り込んだ。
リナと並んで座り、動き出した馬車の窓から外を見る。父もマルタも、屋敷の使用人たちも、その場に立ったまま見送ってくれていた。
エレノアは何度も振り返った。
やがて屋敷が見えなくなり、見慣れた景色も少しずつ遠ざかっていく。隣に座るリナは何も言わなかった。
今はそれがありがたく、エレノアも何も話さないまま、しばらく窓の外を眺めていた。
◇
王都までは3日かかった。
以前、初めて王都へ向かったときには、近づくにつれて見るものすべてが珍しくなり、窓の外ばかり眺めていた。
けれど今回は違う。
王都には、これから3ヶ月を過ごす家がある。そして、その先には結婚が待っている。何より、アレクシスがいる。
侯爵邸が見えてくる頃には、リーヴェを離れた寂しさと同じくらい、これから始まる暮らしへの期待が大きくなっていた。
「見えてまいりましたね」
リナの声に、エレノアは窓の外へ目を向けた。
「ええ」
以前にも訪れたことのある屋敷なのに、今日はまるで違って見える。あのときは客として訪れただけだったが、今日からはここで暮らすのだ。
馬車が正門を抜けて屋敷の前へ進むと、玄関には大勢の使用人が並んでいた。
「……あんなにたくさん」
「皆様、お待ちだったのでしょう」
リナに言われ、エレノアは少し緊張しながら姿勢を正した。
やがて馬車が止まり、外から足音が近づいてきて扉が開いた。
御者か使用人だと思っていたエレノアは、そこに立っている人物を見て目を見開いた。
「……アレクシス様?」
「長旅だったな」
「はい。……でも、どうしてこちらに?」
仕事があると聞いていた。到着する頃には屋敷にいるかもしれないとは思っていたが、まさか自ら馬車のところまで来ているとは考えていなかった。
アレクシスは答える代わりに手を差し出した。
「待っていた」
その言葉に、エレノアは一瞬動けなくなった。
王都へ来るようにと書かれた手紙の最後にも、同じ言葉があった。
――君が来るのを待っている。
エレノアは差し出された手に自分の手を重ね、その支えを借りて馬車を降りた。
「無事に着いてよかった」
「ありがとうございます。アレクシス様も、お元気そうで安心しました」
「ああ」
すぐ後ろではリナも馬車を降りている。その向こうにはセドリックが立っており、エレノアと目が合うと軽く頭を下げた。
「長旅、お疲れさまでございました。エレノア様がお着きになって、閣下も安心なさるでしょう」
「安心?」
「到着予定を少し過ぎた頃から、ずっと落ち着かないご様子でしたので」
エレノアが思わずアレクシスを見ると、彼は何も言わずにセドリックへ視線を向けた。
「失礼いたしました」
そ
う言いながら、セドリックに反省した様子はない。
エレノアは笑いそうになったが、アレクシスと目が合って慌てて口元を引き締めた。
そのとき、玄関の方から明るい声が届いた。
「エレノアさん」
セシリアがこちらへ歩いてくる。
「おかえりなさい、エレノアさん」
予想していなかった言葉に、エレノアは目を瞬いた。
「……ただいま、戻りました」
そう答えると、セシリアは嬉しそうに笑った。
玄関まで進んだところで、エレノアは改めてセシリアへ向き直る。
「本日からお世話になります。まだ分からないことも多く、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが――」
「そんなに堅苦しい挨拶はなしにしましょう」
セシリアはエレノアの言葉を止めると、その手を取った。
「これから一緒に暮らすのよ。それに、あと3ヶ月もすれば本当に家族になるんですもの。侯爵家のことは、これから少しずつ覚えていけばいいわ」
「ですが……」
「私もいるし、屋敷の皆もいるでしょう? 分からないことがあれば、何度だって聞けばいいの」
セシリアはそう言ってから、改めてエレノアを見つめた。
「私ね、娘ができるのをとても楽しみにしていたの。それがこんなに可愛らしい娘だなんて、本当に嬉しいわ」
「……ありがとうございます」
真正面からそう言われると照れくさく、エレノアは頬が熱くなるのを感じた。
「これから一緒にできることもたくさんあるわね。お茶も、お買い物も楽しそうだわ」
楽しげに話すセシリアのそばで、アレクシスは特に口を挟むことなく聞いていた。
屋敷へ入ると、並んでいた使用人たちが一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、エレノア様」
揃った声に驚きながらも、エレノアは皆へ頭を下げた。
「今日からよろしくお願いいたします」
「皆、あなたが来るのを楽しみにしていたのよ」
セシリアにそう言われて使用人たちを見ると、何人かが柔らかく微笑んでいる。歓迎されているのだと分かり、先ほどまであった緊張が少しだけ和らいだ。
そのままセシリアに案内されたのは、以前この屋敷を訪れたときに使った客室とは別の部屋だった。
「ここが、あなたのお部屋よ」
扉が開き、エレノアは中へ足を踏み入れた。
大きな窓から光が入り、室内は明るい。華美すぎる装飾はなく、家具も落ち着いた色合いで揃えられている。窓辺にはゆったりと座れる椅子と小さなテーブルがあり、その近くには本や手紙を広げても十分な大きさの机が置かれていた。
壁際には、大きな本棚もある。
「……素敵」
思わず声が漏れた。
エレノアが本棚へ近づいていると、後ろからアレクシスの声がした。
「足りるか?」
振り返ると、彼も部屋までついてきていた。
「十分です。こんなに大きな本棚を用意してくださったんですね」
「本を持ってくると言っていただろう」
「はい。結局、かなり持ってきてしまいました」
「そうだと思っていた」
迷いなく返され、エレノアは笑った。
窓辺の椅子も机も、どれも自分が使いやすそうなものばかりだった。見れば見るほど、初めて使う部屋とは思えないほど好みに合っている。
「もしかして、このお部屋はアレクシス様が?」
「家具を選んだのは俺だけではない。君が落ち着いて過ごせるようにしてほしいとは伝えた」
「私の好きなものを覚えていてくださったんですか?」
「5年前から、本を読む場所にはこだわっていただろう」
何でもないことのように返され、エレノアはもう一度部屋を見回した。
「……とても好きです。このお部屋」
「そうか」
短い返事だったが、その表情から少しだけ力が抜けたのが分かった。
そのとき、エレノアは壁の一角にもう一つ扉があることに気づいた。廊下へ出る扉とは別の位置にあり、隣の部屋へ続いているように見える。
「あちらは?」
「俺の部屋に続いている」
「……アレクシス様のお部屋に?」
「ああ。結婚後は行き来できた方が便利だろう。今は使わないし、君の許可なくこちらへ入ることもない」
「はい……」
分かっていたはずなのに、扉一枚の向こうがアレクシスの部屋だと知ると、急に結婚まであと3ヶ月なのだという事実が現実味を帯びた。
やがてアレクシスが時計へ目を向けた。
「俺は仕事に戻る。長旅で疲れているだろうから、今日は無理に何かしなくていい」
「はい。アレクシス様」
部屋を出ようとする彼を、エレノアは呼び止めた。
「お忙しいのに、今日はお時間を取ってくださってありがとうございました」
アレクシスが振り返る。
「君が来る日だからな」
「それでも嬉しかったです。馬車のところまで迎えに来てくださったことも」
エレノアがそう言うと、アレクシスは少しの間彼女を見つめた。
「俺がそうしたかっただけだ」
それ以上は何も言わず、アレクシスは仕事へ戻っていった。
残ったエレノアはリナとともに荷物を確認し、本を何冊か本棚へ並べたり、持ってきたものを置く場所を決めたりして過ごした。自分のものが少しずつ部屋の中へ増えていくにつれて、初めて入ったばかりの部屋にも少しずつ馴染みが生まれていく。
気づけば窓から差し込む光は傾き、夕食の時間が近づいていた。
身支度を整えたエレノアは、リナとともに食堂へ向かった。
廊下を進んでいると、玄関広間の方から人の気配がする。使用人が外套を受け取り、聞き慣れた低い声が短く何かを答えていた。
エレノアがそちらへ目を向けると、ちょうど仕事から戻ったアレクシスが、セドリックとともに屋敷へ入ってきたところだった。
「アレクシス様」
思わず声をかけると、アレクシスが顔を上げた。
昼間に別れたばかりなのに、その姿を見つけたことが嬉しくて自然と頬が緩む。エレノアはいつの間にか少し早足になり、彼のもとへ近づいていた。
「おかえりなさいませ、アレクシス様」
アレクシスは一瞬だけ動きを止めた。
ほんのわずかな間を置いてから、その表情が柔らかくなる。
「……ああ」
それだけ答えた彼の表情が、わずかに和らぐ。
「夕食へ行くところか?」
「はい。今からです」
「俺も行こう」
アレクシスが隣へ並び、エレノアは彼とともに食堂へ向かった。
朝には父とマルタに見送られ、長く暮らした家を離れた。王都へ着けば、自分を待っていた人たちが「おかえりなさい」と迎えてくれ、一日の終わりには自分も同じ言葉でアレクシスを迎えている。
リーヴェが自分の故郷であることは、これからも変わらない。けれど、ここにも少しずつ、自分の居場所ができていくのかもしれない。
今日から、ここでの暮らしが始まる。




