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アレクシスから届いた手紙を読みながら、エレノアは何度目か分からないほど同じ一文へ目を戻していた。
結婚まで残り3ヶ月になる頃には、王都へ来てほしい。
王都で進めなければならない準備が増えていることや、結婚後に暮らすことになる侯爵邸に今のうちから慣れておいた方がいいこと、その間は侯爵邸で過ごせばいいことが、いつも通り整った文字で書かれている。
どれも納得できる話だった。
リーヴェでも少しずつ結婚の準備を進めていたが、衣装をはじめ、王都へ行かなければ決められないものも多い。侯爵家の使用人たちとも、結婚式当日に初めて顔を合わせるわけにはいかないだろう。
けれど、エレノアが何度も読み返していたのは、その説明ではなかった。
手紙の最後に書かれた一文だった。
――君が来るのを待っている。
「……エレノア様?」
向かい側で衣類を整理していたリナに呼ばれ、エレノアはようやく顔を上げた。
「何?」
「先ほどから、同じところばかりご覧になっていませんか?」
「そんなことないわ」
「そうでしょうか」
リナの視線が手紙へ向く。
エレノアは何となく見られたくなくて、便箋を畳んだ。
「アレクシス様から、そろそろ王都へ来ないかと」
「まあ」
リナは手を止めた。
「いつ頃ですか?」
「結婚まで残り3ヶ月になる頃に、と。王都で準備を続けながら、侯爵家での暮らしにも慣れておいた方がいいだろうって」
「それなら、もうあまり時間がありませんね」
言われて、エレノアは机の上の暦へ目を向けた。
アレクシスがリーヴェを訪れてから、すでに2ヶ月以上が過ぎている。手紙を待ち、返事を書き、領内のことや結婚の準備に追われているうちに、思っていた以上に早く時間が過ぎていた。
「お父様にも相談してくるわ」
手紙を持って立ち上がると、リナもすぐに頷いた。
◇
書斎にいた父に手紙を見せると、父は驚くことなく最後まで読み、しばらく考えてから机へ置いた。
「私も、そろそろだと思っていたよ」
「お父様も?」
「王都で準備することも多いだろうし、何より結婚したその日から、突然知らない家で暮らし始めるよりいい。先代侯爵夫人もいらっしゃるのなら、今のうちに教えていただけることもあるだろうからね」
父が反対するとは思っていなかった。それでも、あまりにも穏やかに話すので、エレノアは少しだけ寂しくなる。
「……私がいなくなっても、大丈夫ですか?」
父は一度目を瞬いたあと、笑った。
「大丈夫ではないかもしれないね」
予想していなかった返事に、エレノアは父を見た。
「この家にエレノアがいない生活なんて、私もまだ想像できていないよ。ただ、それと王都へ行かせたくないというのは別の話だ」
「お父様……」
「結婚するのだろう?」
「はい」
迷わず答えると、父は満足そうに頷いた。
「だったら行っておいで。まだ3ヶ月あるんだから、ゆっくり慣れればいい」
そして王都へ行くことが決まれば、準備は早かった。
アレクシスからは父へも正式に書簡が届き、王都へ向かう日程が決まった。侯爵邸ではすでにエレノアの部屋を整え始めているらしく、必要なものがあれば先に知らせてほしいとも書かれていた。
その話を聞いたとき、エレノアは真っ先に本のことを思い出した。
以前の手紙で、持っていく本を選べないと書いたところ、アレクシスからは「本ならこちらにも置ける。無理に減らさなくていい」と返事が来た。
その手紙をリナに見せたときには、本当に全部持っていくつもりなのかと呆れられたが、侯爵本人がいいと言っているのだから問題ないはずだ。
そう思っていたのだが、実際に部屋の本を並べてみると、さすがのエレノアも少し不安になった。
「……多いかしら」
床に並べた本を見ながら尋ねると、リナはしばらく黙っていた。
「アレクシス様がよろしいとおっしゃったのでしょう?」
「そうなのだけれど」
「でしたら、お持ちになればよろしいのではありませんか?」
「なんだか諦めていない?」
「いいえ。侯爵様がお許しになったものを、私が止める理由はございませんから」
口調は穏やかなのに、明らかに諦めている。
エレノアは笑いながら本を箱へ収めた。
衣類や小物も少しずつ箱に入れられ、長く使ってきた部屋の中から自分のものが減っていく。すべてを持っていくわけではないのに、棚や机の上に空いた場所ができるたび、自分が本当にここを出るのだという実感が増していった。
そんなある日、荷物を整理していたリナが、当然のように言った。
「侯爵邸へ着きましたら、まずお部屋を確認いたしますね。収納の場所もそうですが、エレノア様のお支度について向こうの侍女の方々にもお伝えしておかなければなりませんし」
「そうね。お願いするわ」
「朝のお時間や、お召しになるものの好みもお伝えしておいた方がよろしいですね。私が慣れるまでは直接お支度をしても構わないと思いますが、結婚後のことを考えますと、侯爵家のやり方も覚えなければなりませんから」
エレノアは手にしていた本を箱へ入れかけて、止まった。
今の言葉に、少し引っかかるものがあった。
「リナ」
「はい?」
「結婚後も、私についてくるつもりなの?」
リナがきょとんとする。
「もちろんです」
あまりにも迷いのない返事だったので、エレノアの方が驚いた。
「もちろんって……リナは結婚するでしょう?」
「はい」
「はい、じゃないわ」
思わず笑ってしまったが、リナは不思議そうな顔をしている。
「お相手はリーヴェにいるのよね?」
「おりますが、それがどうかなさいましたか?」
「どうかするでしょう」
エレノアは持っていた本を置き、リナへ向き直った。
「あなたが王都で私の侍女を続けたら、結婚できないじゃない」
「ずっと王都にいると決めたわけではありません。エレノア様が侯爵家での生活に慣れるまでは、私もおそばにいた方が――」
「だめよ」
はっきりそう言うと、リナは口を閉じた。
「王都へ行くときは、一緒に来てほしいわ。初めて暮らす場所だもの。リナがいてくれたら、私も心強いから」
「でしたら、そのまま――」
「そこまでよ」
エレノアが遮ると、リナの表情がわずかに曇った。
「向こうの方たちに私のことを伝えて、私が侯爵家でちゃんと暮らしていけそうだと思ったら、リーヴェへ帰って」
「ですが、エレノア様」
「私はアレクシス様と結婚するために王都へ行くの。リナも、自分の結婚を大切にして」
「私は、自分でエレノア様についていくと決めております」
リナの声は穏やかだったが、その言葉に迷いはなかった。
エレノアは少し黙ってから、首を振った。
「それでもよ。私が結婚するからって、リナまで自分の結婚を後回しにする必要はないでしょう?」
「後回しにするつもりでは……」
「じゃあ、いつ結婚するの?」
そう尋ねると、リナは答えに詰まった。
それだけで十分だった。
エレノアは少し笑い、今度は先ほどより柔らかく続ける。
「私のために、リナの人生を変えてほしくないの」
リナはしばらく何も言わなかった。
長く一緒にいるからこそ、エレノアにも分かる。今すぐ納得してくれたわけではないのだろう。それでも、何を言ってもエレノアが考えを変えないことも分かったらしい。
やがてリナは、小さく息を吐いた。
「……エレノア様は、時々ずるいことをおっしゃいますね」
「そうかしら」
「そのように言われてしまえば、私が何も言えなくなると分かっていらっしゃるでしょう」
「でも、王都までは一緒よ」
そう言うと、リナの表情が少しだけ緩んだ。
「侯爵家に着いて、私がちゃんとやっていけそうか見ていて。向こうの侍女の方にも、私のことをいろいろ教えてほしいわ」
「それはもちろんです」
「それから、安心してリーヴェへ帰って」
今度はすぐに返事がなかった。
エレノアも急かさずに待っていると、やがてリナは渋々といった様子で頷いた。
「……分かりました。ただし、私が大丈夫だと思うまでは帰りませんからね」
「それでいいわ」
「本当にお分かりですか?」
「分かっているわ」
ようやく話がまとまり、二人は再び荷造りへ戻った。
しばらくすると、リナが本の入った箱を見ながら尋ねる。
「こちらで全部ですか?」
エレノアは部屋の本棚を振り返った。
まだ何冊か残っている。
「……あと少しだけ」
「先ほどもそうおっしゃいました」
「でも、アレクシス様が持ってきていいって」
「分かりました。もう止めません」
呆れたように言われて、エレノアは笑った。
王都へ向かう日まで、あとわずかだった。
父やマルタと離れることも、この部屋を出ることも寂しい。リナとも、いずれ王都で別れることになる。
それでも、王都へ行くことが嫌なわけではなかった。
荷造りを終えたあと、エレノアは机の引き出しからアレクシスの手紙を取り出した。
――君が来るのを待っている。
その一文をもう一度読んでから、丁寧に畳む。
王都へ行けば、アレクシスがいる。
そのことを考えるだけで、別の場所で始まる生活への不安より、会えることへの嬉しさの方が大きくなった。
エレノアは手紙をほかの手紙と一緒に大切にしまい、途中になっていた荷造りへ戻った。
王都へ向かう日は、もうすぐそこまで来ていた。




