3章 38
王都へ戻った翌日から、アレクシスはいつも通り仕事に戻っていた。
リーヴェへ向かうために数日間屋敷を空けていた分、執務机の上には確認を待つ書類が積まれている。出発前にできる限り片づけていたとはいえ、その間にも新しい報告や判断を求める書類は増えており、朝から何人もの部下が執務室を出入りしていた。
午後になって持ち込まれた報告書に目を通したアレクシスは、数枚めくったところで手を止めた。
「これは誰が確認した」
机の前に立っていた男の顔が強張る。
「私ですが……」
「
数字が合っていない。やり直せ」
「ですが、こちらは前回の資料をもとに――」
「言い訳は聞いていない。今日中にやり直せ。次も同じものを持ってくるなら担当を替える」
低い声で告げると、男はすぐに頭を下げ、書類を抱えて執務室を出ていった。
入れ替わるように入ってきたセドリックが、その背中を見送ってから机へ近づく。
「お戻りになった途端、容赦がありませんね」
「間違っているものを通す方が問題だ」
「それはそうですが」
セドリックは新しい書類を机へ置いたあと、別に持っていた封書をその上へ重ねた。
「こちらも届いております」
何気なく目を向けたアレクシスの手が止まる。
見覚えのある筆跡で、差出人を確認するまでもない。
「リーヴェからです」
「見れば分かる」
アレクシスはそれまで読んでいた書類を脇へ置き、封を切った。
その様子を見ていたセドリックが何か言いたそうな顔をしたが、アレクシスは構わず便箋を開く。
リーヴェを発ってから、まだ数日しか経っていない。
手紙には、まず水路のことが書かれていた。今のところ流れに問題はなく、あの日皆で取り除いた場所も再び詰まる様子はないらしい。
その次には、アレクシスが帰った翌日、エレノアがマルタから改めて泥だらけになったことを注意されたと書いてある。
――アレクシス様も一緒だったと申し上げたのですが、まったく助けにはなりませんでした。
その一文を読み、アレクシスはわずかに口元を緩めた。
さらに読み進めると、途中まで読んでいた本を読み終えたことや、父と領内を回ったことまで書かれている。どれも急いで知らせる必要のある話ではない。それでも、丘でエレノアが言っていた通り、本当にその日にあったことをそのまま手紙にしたらしい。
最後には、別のことが書き加えられていた。
――王都へ戻った翌日から仕事をしていると聞きましたが、きちんと食事と休息は取られていますか。
そこまで読んだところで、アレクシスはしばらく便箋を見たまま動かなかった。
「何かございましたか?」
まだ部屋に残っていたセドリックに尋ねられ、アレクシスは便箋を畳んだ。
「何もない」
「そうですか」
セドリックはそれ以上尋ねなかったが、その視線が机の上の手紙へ向いていることには気づいていた。
「何だ」
「いえ。リーヴェでも同じことを言われていらっしゃったなと思いまして」
「何の話だ」
「休息の話です」
アレクシスは答えず、再び仕事の書類へ手を伸ばした。
セドリックは小さく息をついたものの、それ以上は何も言わずに執務室を出ていった。
その日の仕事を終えたのは、外がすっかり暗くなってからだった。
自室へ戻る前にもう一度エレノアの手紙を開き、最初から読み返す。水路も、マルタに叱られた話も、本の話も、すでに一度読んだものばかりだったが、不思議と読み飛ばす気にはならなかった。
翌朝、アレクシスは仕事を始める前に返事を書いた。
橋については、すでに詳しい者へ話を通していること。日程が決まればリーヴェルト子爵へ直接知らせること。それから、自分はきちんと食事を取っていること。
休息について書くか少し考えた末、そこには触れないことにした。
数日後、届いた手紙には最初の方にこう書かれていた。
――お食事のことしか書かれていませんでした。お休みにもなってくださいね。
アレクシスはその一文を見つめたあと、思わず額へ手を当てた。
以前、エレノアが自分の疲れに気づかず働き続けることを心配したとき、彼女からも同じことを言い返された。そのうえ離れてからもこうして確認されるのだから、どうやら忘れてはもらえないらしい。
次の返事には、短く書いた。
――君までセドリックと同じことを言うのか。
その返事が届く頃には、王都での仕事も、リーヴェの橋についての手配も少しずつ進んでいた。
アレクシスが頼んだ者が現地へ向かい、橋だけでなく周辺の道も含めて状態を確認することになった。リーヴェルト子爵から届いた報告には、すぐに工事を始めるのではなく、必要な人手や資材を整理したうえで進めたいと書かれていた。
アレクシスもそれに異論はなかった。
リーヴェで実際に暮らしている者たちの話を聞き、何を優先するべきか決めるのは彼ら自身だ。必要な知識や人材を用意することはできても、自分が王都からすべてを決めるつもりはなかった。
その間にも、エレノアとの手紙のやり取りは続いていた。
橋の話だけで一通が終わることもあれば、ほとんどリーヴェの日常だけが書かれていることもあった。畑で今年最初の収穫があったこと、父と出かけた先で以前会った老人に呼び止められたこと、マルタに今度こそ水路へ入るなと言われたこと。
読んだ本について何行も感想が続いていることもある。
最初のうちは、それにどう返せばいいのか少し迷った。
仕事の報告ならば必要なことだけを書けばいい。しかし、面白かった本の登場人物について長々と書かれていても、アレクシスはその本を読んだことすらない。
それでも、返事を書かなかったことは一度もなかった。
分からないものは分からないと書き、気になったことは尋ねた。次の手紙にはその答えが書かれ、そこからまた別の話へ続いていく。
いつの間にか、リーヴェから手紙が届くこと自体が日常になっていた。
ある日の夕方、執務室へ入ってきたセドリックが何通かの封書を持っていた。
「本日の分です」
アレクシスは受け取った封書すべてに目を通し、差出人と内容の概要を確認した。急ぎで判断しなければならないものがないと分かると、その中から見覚えのある封筒を抜き取ると、最初にその封を切った。
セドリックは何も言わない。
それがもう、珍しいことではなくなっていたからだ。
その日の手紙には、結婚に向けて少しずつ荷物を整理し始めたと書かれていた。
本が多すぎて、どれを王都へ持っていくか決められないらしい。
――全部持っていくのは無理だとリナに言われました。分かってはいるのですが、選ぼうとするとどれも必要に思えてしまいます。
アレクシスはそこを二度読んだあと、返事を書くときに一文付け加えた。
――本ならこちらにも置ける。無理に減らさなくていい。
後日届いた返事には、
――それをリナに見せたら、侯爵様がそうおっしゃるなら仕方ありません、と言われました。
とあった。
さらにその下には、
――ありがとうございます。お気に入りを全部持っていけそうです。
と続いていた。
それからしばらくして、セシリアが結婚準備について話すため本邸を訪れた。
夕食を終えたあと、二人は居間で今後の予定について話していた。式までに決めなければならないことは多く、セシリアが確認していたものだけでも、衣装や招待客、屋敷側の準備までいくつもある。
話が一段落したところで、アレクシスはそばに置いていたエレノアからの手紙を手に取った。
それに気づいたセシリアが、穏やかに尋ねる。
「エレノアさんから?」
「はい」
「そう。元気そう?」
「変わりないようです」
「よかったわ」
セシリアはそれ以上手紙について尋ねることなく、手元の予定表へ目を戻した。
「そろそろ、本格的に進めないといけないわね」
「そのつもりです」
結婚までの期間を半年と決めたときには、まだ先のように感じていた。それからリーヴェへ行き、戻ってきて、手紙を交わしているうちに時間は過ぎている。
気づけば、あれから2ヶ月以上が経っていた。
「残り3ヶ月になったら、エレノアさんには王都へ来てもらった方がいいと思うの」
母の言葉に、同じことを考えていたアレクシスも頷いた。
王都で準備しなければならないことも多い。衣装や式のことだけではなく、結婚後はこの屋敷で暮らすことになるのだから、使用人たちとも顔を合わせ、この家そのものに慣れる時間があった方がいい。
「私もそのつもりでした」
「あら」
セシリアが少し驚いたように目を見開く。
「あなたから言うつもりだったの?」
「何かおかしいですか」
「いいえ。ただ、私が口を出さなくてもちゃんと考えているのね」
「結婚するのは俺ですから」
答えると、セシリアは一瞬黙ったあと、嬉しそうに笑った。
「そうね」
残りの3ヶ月を王都で過ごしてもらうことについて、リーヴェルト子爵にも正式に話を通す必要がある。エレノアの部屋も整えなければならないし、結婚後に彼女につく者についても決めていかなければならない。
やることはいくらでもあった。
それでもアレクシスにとっては、面倒だと思うものではなかった。
その日の仕事を終えたあと、アレクシスは新しい便箋を取り出した。
橋についての進捗を書き、王都で進めている準備についても伝える。
そして最後に、結婚まで残り3ヶ月になる頃には王都へ来てほしいと書いた。
この屋敷で暮らしながら準備を進めればいいこと、母もそれを望んでいること。リーヴェルト子爵には自分からも正式に話をすると続ける。
そこまで書いて、アレクシスは一度筆を止めた。
まだ伝えることがあるような気がして、これまでエレノアから届いた手紙へ目を向ける。
王都へ戻ってから、何度もその文字を読んだ。
水路のことも、本のことも、マルタに叱られたことも、どれも手紙が届かなければ自分が知ることのなかったエレノアの日常だった。
離れていてもそれを知ることができるのは嬉しかったが、手紙だけで十分だと思ったことは一度もない。
アレクシスは再び筆を取り、最後に一文を書き加えた。
――君が来るのを待っている。
書き終えた手紙をしばらく見てから、静かに封を閉じた。
結婚まで、あと3ヶ月。
今度は、エレノアが王都へ来る番だった。




