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翌朝、エレノアが目を覚ましたときには、窓の外はすでに明るくなり始めていた。
いつもと変わらない朝のはずなのに、身支度を整えて部屋を出る頃には、今日でアレクシスが王都へ戻るのだということばかり考えていた。
昨夜のうちに荷物のほとんどはまとめられていると聞いている。朝食を終えれば、そのまま出発する予定だった。
食堂へ向かう途中、玄関前を通りかかると、すでに使用人たちが慌ただしく動いていた。アレクシスとセドリックが乗ってきた馬も準備されており、それを見た途端、昨日までまだ少し先に感じていた出発が急に現実になった気がした。
厩舎の者が鞍を確かめ、別の使用人が荷物を運んでいる。その光景を少しだけ眺めていると、後ろからリナがやって来た。
「エレノア様、朝食のお時間ですよ」
「分かっているわ」
返事をしたものの、エレノアはもう一度だけ馬の方を見た。
「数日前には、ここへ来るのを待っていたのに。早いわね」
「楽しい時間ほど、そう感じるものかもしれませんね」
リナの言葉に頷いて、エレノアはようやく食堂へ向かった。
朝食には父も同席した。
話題の中心になったのは、やはり昨日見に行った橋だった。王都へ戻ったあと、アレクシスが詳しい者へ声をかけ、その者が来られる時期が分かり次第知らせることになったらしい。
「こちらでも、橋だけでなく周辺の道についてもう一度確認しておきます」
父がそう言うと、アレクシスは頷いた。
「その方がいい。橋を直したあとに、荷車が通れない道が残っても意味がないからな。詳しいことは、現地を見た者の話を聞いてから決めよう」
「ええ。よろしくお願いいたします」
「水路の方も、昨日のうちにもう一度見ておきました。今のところは問題なく流れているそうです」
父の言葉に、エレノアも顔を上げた。
一昨日、皆で取り除いた大きな枝のことを思い出す。
「では、しばらくは大丈夫そうですね」
「そうだね。ただ、上流の方はまだ詰まりやすい場所が残っているそうだから、そちらは少しずつ進めるつもりだよ」
アレクシスはその話にも耳を傾けていたが、何かを指示することはなかった。必要なことだけを尋ね、父の話を聞いている。
今回の滞在中、アレクシスはリーヴェのあちこちを見て回った。
最初の日には水路で泥だらけになり、エレノアを馬に乗せて領内を回った。翌日はエレノアの日常について歩き、昨日は父と一緒に壊れた橋を見に行った。
婚約者に会いに来ただけの滞在ではなくなっていたことが、エレノアには嬉しかった。
朝食を終えると、父とアレクシスはそのまま書斎へ向かった。昨日までに話したことを最後に確認しておきたいらしく、エレノアも途中までは一緒にいたものの、領地の書類にまで口を挟む必要はないと思い、先に部屋を出た。
廊下へ出たところで、セドリックが向こうから歩いてくる。
「もう出発の準備は終わったの?」
「ほとんど。あとは閣下を馬に乗せれば、いつでも出られます」
「そう……」
思わず残念そうな声が出てしまい、エレノアは少しだけ笑った。
「もう少しかかってもいいのに、と思ってしまったわ」
「閣下に聞かれれば、喜ばれると思いますが」
「言わないでね」
「承知しました」
そう答えたセドリックの顔が、どこか面白がっているように見える。
エレノアは少し考えてから、今度は自分から尋ねた。
「王都へ戻ったら、やっぱりすぐお仕事?」
「おそらくは。今回の滞在のために前後の予定もかなり調整しておりますので」
やはりそうなのだろう。
昨日の丘で、自分が見ていないところでも身体を大事にしてほしいと伝えたばかりだが、アレクシスが王都へ戻った途端に仕事へ戻る姿は簡単に想像できた。
「ちゃんと休むように言っておいてね」
「私が申し上げて聞いてくださるのであれば、とうにそうしております」
あまりにも淡々と返され、エレノアは笑ってしまった。
「じゃあ、私からも手紙に書くわ」
「それがよろしいかと」
どうやらセドリックは本気で期待しているらしい。
エレノアは、昨日アレクシスと交わした約束を思い出した。用事がなくても手紙を書いていいと言ってくれたのだから、本当に書こうと思う。リーヴェであったことも、読んだ本のことも、それから時々は、きちんと食事をして休んでいるのかも聞いてみよう。
やがて書斎から父とアレクシスが出てきた。
それを合図にするように、屋敷の中の空気が少し慌ただしくなる。
玄関前へ出ると、マルタやリナをはじめ、屋敷の者たちも見送りに集まっていた。
「このたびは、わざわざリーヴェまでお越しいただき、ありがとうございました」
父が改めて頭を下げると、アレクシスは静かに首を振った。
「俺が来たかっただけだ。橋の件は、王都へ戻り次第手配する」
「お願いいたします。道中、どうぞお気をつけて」
父との挨拶を終えたアレクシスは、マルタたちにも短く声をかけた。
マルタは初日に泥だらけで戻ってきたアレクシスを見たときとは違い、今日はいつもの落ち着きを取り戻している。
「またお越しくださいませ。次はどうか、お嬢様と一緒に泥だらけにならずにお帰りください」
さすがのエレノアも思わずマルタを見た。
「マルタ」
「何も間違ったことは申し上げておりませんよ」
困ったように笑うリナの隣で、セドリックがわずかに視線を逸らしている。
アレクシスはというと、怒るどころか少しだけ口元を緩めた。
「善処する」
「アレクシス様まで……」
結局、最後まで自分だけが叱られているような気がして、エレノアは小さく息をついた。
やがてセドリックが馬の準備を確認しに離れ、父もマルタに呼ばれて少し離れた。
ほんのわずかな時間だったが、アレクシスと二人になる。
昨日まで何日も一緒にいたのに、いざ別れるとなると何を言えばいいのか分からなくなるのが不思議だった。
「道中、お気をつけて」
「ああ」
「無理に急がないでくださいね。3日かかってもいいんですから」
「分かっている」
返事を聞いてからも、エレノアはその場を動かなかった。
アレクシスも馬の方へ向かおうとはせず、黙ってエレノアを見ている。
その顔を見ているうちに、エレノアは5年前の朝を思い出した。
あのときも、こうして彼を見送った。
あの頃はアレンだと思っていた人が、今はアレクシスとして目の前にいる。どこへ帰るのかも知っていて、手紙を送ることもできる。昨日は、何でもないことでも書いていいと言ってもらった。
それでも、胸の中にある寂しさは思っていたより素直だった。
「……やっぱり、見送る側は寂しいですね」
エレノアがそう言うと、アレクシスの表情がわずかに変わった。
「5年前も、こうしてアレクシス様が行ってしまうのを見ていました」
「今回は、あのときとは全然違うのに」
エレノアは少し笑った。
「それでも、寂しいものは寂しいみたいです」
無理に平気なふりをする必要もないと思った。会えなくなるわけではないと分かっていても、好きな人が遠くへ帰るのなら寂しい。それだけのことだった。
アレクシスはしばらく何も言わなかったが、やがてエレノアへ一歩近づいた。
その手が伸び、頬に触れる。
屋敷の前には父も使用人たちもいる。少し離れているとはいえ、誰もいなくなったわけではない。それでもアレクシスは気にした様子もなく、親指で頬を一度だけ撫でた。
エレノアも離れようとはしなかった。
もう彼は、正体も知らないまま別れたアレンではない。
正式に婚約した、自分が好きだと伝えた人だった。
「俺も同じだ」
低い声でそう言われ、エレノアは目を瞬いた。
「王都へ戻れば仕事がある。ここに残ることはできない」
「はい。分かっています」
「だが、帰りたいわけでもない」
寂しいと言ったのは自分なのに、その言葉を聞いた途端、胸がいっぱいになった。
アレクシスの手が頬から離れるまで、エレノアはただ彼を見上げていた。
少し離れたところから、セドリックの声がした。
「閣下、そろそろ」
「ああ」
アレクシスは答えたものの、すぐにはエレノアから離れなかった。
「手紙を書くと言っていただろう」
昨日、丘で交わした会話を思い出す。
「はい。たくさん書いてもいいとおっしゃいましたから」
「待っている」
その一言に、エレノアは笑った。
「では、本当にたくさん書きますね」
「ああ」
ようやくアレクシスが馬の方へ向かう。
セドリックも馬へ跨がり、父たちがもう一度二人へ声をかける中、アレクシスも手綱を取った。
「エレノア」
馬上から名前を呼ばれ、エレノアは顔を上げた。
「行ってくる」
その言葉に、エレノアは一瞬だけ迷った。
5年前には言えなかった言葉が、今なら自然に出てくる。
「はい。いってらっしゃいませ」
アレクシスはわずかに目を細め、それから馬を進ませた。セドリックもそのあとに続き、蹄の音が少しずつ遠ざかっていく。
エレノアはその場に立ったまま、二人の背中を見つめていた。
隣にいた父たちが屋敷へ戻り始めても、もう少しだけここにいたかった。
道の先でアレクシスが一度だけ振り返る。
遠くて表情までは見えなかったが、エレノアは小さく手を振った。アレクシスもわずかに片手を上げると、再び前を向く。
やがて二頭の馬は道の向こうへ小さくなり、その姿も見えなくなった。
それでもエレノアは、しばらく同じ場所に立っていた。
「エレノア様」
後ろからリナに呼ばれて、ようやく振り返る。
「戻りましょうか」
「ええ」
そう答えて屋敷へ向かいながら、エレノアは昨日交わした約束を思い出していた。
今日のことも、次の手紙に書こう。
見送るのはやっぱり寂しかった、と。
そう書いたら、アレクシスはどんな返事をくれるのだろう。
それを考えると、先ほどまでより少しだけ足取りが軽くなった。




