36
翌朝、エレノアが食堂へ入ると、アレクシスとセドリックはすでに席についていた。
昨日は一日中領内を歩き回ったうえ、屋敷へ戻ってからも父と地図を広げ、南の村へ続く橋について話していたらしい。エレノアが部屋へ戻る頃にも書斎には明かりがついていたため、結局何時まで起きていたのだろうと思いながら席につく。
「おはようございます。昨日は何時頃お休みになったのですか?」
「それほど遅くない」
曖昧な返事に、エレノアは隣のセドリックへ視線を移した。セドリックは一瞬だけアレクシスを見たもの
の、何も知らないという顔で紅茶へ手を伸ばす。
「セドリック?」
「私から申し上げることではありませんので」
「余計なことは言わなくていい」
先に釘を刺したアレクシスを見れば、それほど遅くないという言葉をそのまま信じる気にはなれなかった。昨日、自分の「大丈夫」は信用できないと言われたばかりだが、どうやらアレクシスにも似たところがあるらしい。
「今日は橋を見に行くのでしょう? 少し遅く出ても――」
「睡眠は取った。問題ない」
納得したわけではなかったが、ここで言い合っても仕方がない。エレノアが朝食へ手を伸ばしたところで、ちょうど父も食堂へ入ってきた。
南の橋については昨夜アレクシスから話を聞いていたらしく、父も今日は一緒に現地を見るつもりだという。
朝食を終えると、4人で屋敷を出た。
途中までは馬と馬車を使ったものの、橋に近づくにつれて道が荒れ始め、最後は全員が歩くことになった。かつては荷車が行き来していたという道も、今では端から草が伸び、深く刻まれた轍の跡には雨水が溜まっている。
「以前は、向こうの村からこの道を通って荷物を運んでいたそうです」
エレノアが説明すると、アレクシスは足元の状態を確かめながら先へ進んだ。
「橋だけ直しても、この道を荷車が通れなければ使いづらいな」
「こちらは何度か人を入れておりますので、橋ほどではありません」
父が答えると、アレクシスは頷いた。
「なら、まず橋の状態を正確に見た方がいい」
それ以上は何も決めず、アレクシスは道の状態を見ながら歩いていく。
昨日一日彼と領内を回ったことで、エレノアにも少し分かってきた。アレクシスは自分の知らないことを、立場だけで決めようとはしない。領民から話を聞くときも必要なことは尋ねるが、リーヴェの事情を知る父や、そこで暮らす者たちの言葉を遮ることはなかった。
やがて木々の向こうに川が見え、その少し先に壊れた橋が現れた。
以前エレノアが見たときよりも状態は悪くなっている。石造りの橋脚そのものは残っているものの、中央付近の床板が大きく落ち、一部は傾いたまま川へ垂れ下がっていた。
対岸には、昨日話を通してくれたらしい村の男たちが数人待っていた。
近くに設けられた細い仮の渡しを使って向こう側へ移ると、そのうちの一人が橋の状態を説明してくれる。
「去年まではもう少しましだったんですが、この前の雨でまた崩れまして。人なら渡れますが、荷車はとても無理です」
「迂回すると、どれくらいかかる?」
アレクシスが尋ねると、男は少し考えてから答えた。
「荷車なら半日近く余計にかかります。急ぎじゃなければ、こっちの村とはほとんど行き来しなくなりました」
「橋が使えた頃は、村同士で人の行き来も多かったのです」
父が橋脚を見ながら言った。
「収穫の時期が少しずれるので、以前は互いに人を出すこともできました。今のリーヴェには、それができなくなったことの方が痛いかもしれません」
人手が足りないという話は、昨日も何度も聞いている。それぞれの村にまったく人がいないわけではない。ただ、道や橋が壊れたことで、必要な場所へ人を動かすことまで難しくなっていた。
アレクシスは残った橋脚や川幅をしばらく確認したあと、父へ向き直った。
「王都へ戻ったら、橋を見られる者を一人寄越そうと思う。構わないか」
「お願いできますか。こちらだけでは、どこまで修復できるのか判断がつかず、手をつけられずにおりました」
「分かった。まず状態を見てもらおう。その上で、どの程度の人手と資材が必要になるのかを出した方がいい」
父が頷くと、アレクシスはセドリックを呼び、王都へ戻ってから連絡を取る相手についていくつか確認を始めた。
エレノアはその会話を聞きながら、もう一度橋へ目を向けた。
昨日聞いたばかりの困り事が、今日はもう次に何をするべきかという話に変わっている。それでもアレクシスは、橋を直すとも、侯爵家ですべて引き受けるとも言わなかった。まず詳しい者に見てもらい、その結果を父と相談する。リーヴェのことを勝手に決めるのではなく、必要なところにだけ手を差し出してくれていることが、エレノアには嬉しかった。
橋を見終えたあとは、対岸の村にも少し立ち寄った。
父が村の者たちから近況を聞く傍ら、アレクシスも橋が使えなくなってから何に一番困っているのか、どの時期に人手が必要になるのかを尋ねていた。
屋敷へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
昼食の席でも父とアレクシスは橋について話していたが、食事が終わるのを待ってから、エレノアはアレクシスへ声をかけた。
「午後は、私にお付き合いいただいてもいいですか?」
「どこへ行く?」
「5年前に一緒に行った丘です」
アレクシスはすぐに分かったようだった。
「あの丘か」
「はい。午後は二人で、何もせずにのんびりしましょう」
朝から橋を見に行っていた人間の提案とは思えないかもしれないが、昨日は自分が休むように言われたのだから、今日はアレクシスにも付き合ってもらうつもりだった。
昼食を終えてしばらくしてから、二人は屋敷を出た。
5年前と同じように馬車で丘の麓まで向かい、そこからは歩いて坂を上る。あの頃に比べれば足取りはずっと軽く、隣を歩くアレクシスにも、怪我をしていた頃の面影はなかった。
丘の上へ出ると、柔らかな風が草を揺らしていた。
5年前に来たとき、一面に咲いていた白い花は今の季節には見られない。それでも、緩やかに広がる草原も、遠くに続く空も変わらず、エレノアは懐かしさに目を細めた。
「白い花はありませんね」
「ああ」
「少し残念ですけど、ここは今の時期も気持ちいいんです」
少し先まで歩いたエレノアは、風に揺れる草を見ながらその場へ腰を下ろした。アレクシスも隣まで来ると、しばらく周囲を見渡してから同じように腰を下ろす。
ここへ来たのは、何かを確認するためでも、誰かに話を聞くためでもない。
そのことが、昨日までとはずいぶん違って感じられた。
エレノアは両手を後ろについて空を見上げた。
「ここに寝転がったら、気持ちよさそうですね」
「やったことがあるのか?」
「子どもの頃はよく。マルタにいつも怒られていました」
思い出すだけで可笑しくなり、エレノアは笑った。
外で遊んでドレスを汚して帰るたびに、マルタから何度叱られたか分からない。それでも懲りずにまた同じことをしていたのだから、今になって考えれば、マルタの苦労も相当なものだっただろう。
「今はしないのか」
「さすがに怒られることくらい分かっていますから」
そう言いながらも、目の前には柔らかな草が広がっている。今日はマルタもいない。
エレノアが身体を倒そうとしたところで、隣から声がした。
「待て」
振り向くと、アレクシスはすでに上着へ手をかけていた。それを脱ぐと、何でもないことのようにエレノアの後ろの草へ広げる。
「使え」
「でも、汚れてしまいますよ?」
「洗えばいい」
それだけ言って、アレクシスは広げた上着を示した。
せっかく敷いてくれたものを断る理由もなく、エレノアは素直にその上へ身体を横たえた。背中に草が直接触れることはなくなったが、風に混じる青い匂いは近く、見上げれば視界いっぱいに空が広がっている。
「気持ちいいですよ」
エレノアが言うと、アレクシスも隣で身体を倒した。
自分には何も敷かず、そのまま草の上へ横になる。
エレノアは思わず横を向いた。
「アレクシス様は、そのままなのですね」
「この程度は気にならない」
戦場にいたことを思えば、草の上に寝転がるくらい何でもないのだろう。
「私も気にならないんですけど」
「君はそうだろうが、俺が気になる」
すぐに返され、エレノアは目を細めた。
アレクシスは空を見上げたまま、少しだけ口元を緩める。
「相変わらず、令嬢らしくない」
聞き覚えのある言葉に、エレノアは一瞬目を丸くしたあと、笑ってしまった。
「前にも、そう言われましたね」
「ああ。5年経っても変わっていない」
咎められているようには聞こえなかった。
むしろ、変わっていないことを確かめるような声だった。
エレノアは再び空へ目を向けた。雲がゆっくり流れていくのを眺めているうちに、いつの間にか会話も途切れたが、何も話さない時間は心地よかった。
5年前、この丘へ来たときには、隣にいるアレンを好きになってしまったことを認めるだけで精一杯だった。
その人が今はアレクシスとして隣にいて、自分の婚約者になっている。
あの頃の自分に話しても、きっと信じないだろう。
しばらくして、エレノアは空を見たまま口を開いた。
「王都へ戻られたら、またお忙しくなるんですよね」
「ああ。留守にしている間の仕事もある」
予想していた通りの返事だった。
昨日セドリックから聞いた話を思い出す。止めなければ食事を後回しにし、休むよう言われても仕事を続ける。それを聞いたときは、自分も同じだと言われて何も言えなくなったが、だからといって心配しなくなるわけではない。
「戦争が終わってからも、ずっとお忙しかったのですか?」
「戦時中よりはましだ」
忙しくないとは言っていない。
けれど、さらに問い詰めるような聞き方をするのも違う気がして、エレノアは少し考えてから言葉を選んだ。
「昨日、私の5年間を知りたいとおっしゃいましたよね」
「ああ」
「私も同じです。アレクシス様がどんな5年を過ごしてきたのか、私はほとんど知りませんから」
アレクシスはすぐには答えなかった。
彼が侯爵位を継いだのは戦争の最中だった。その前には父を亡くし、それでも戦場を離れることはできなかったと聞いている。
リーヴェで暮らしていた自分とは、きっとまるで違う5年間だった。
「知らなくていいことも多い」
昨日と同じ言葉が返ってきたが、エレノアはそれを否定しなかった。
「そうかもしれません。ですから、無理に聞こうとは思っていません」
過ぎた5年間をすべて話してほしいわけではない。話したくないことまで聞き出したいわけでもなかった。
「でも、これからのことなら気にしてもいいでしょう?」
隣を見ると、アレクシスもこちらを向いていた。
「王都へ戻ったらお仕事があることも、お忙しいことも分かっています。お仕事を減らしてくださいとは言いませんし、きっと言っても聞いてくださらないでしょうから」
そこでアレクシスが何か言いたそうな顔をしたが、エレノアは小さく笑って続けた。
「それでも、私が見ていないところでも、ご自分を大事になさってくださいね」
しばらく返事はなかった。
風が草を揺らす音だけが聞こえる中、アレクシスはエレノアを見ていたが、やがて視線を空へ戻した。
「5年前も、似たようなことを言われたな」
その言葉で、エレノアも当時のことを思い出した。
怪我をしているのに外へ出ようとするアレンを止めたり、疲れていないと言う彼を部屋へ戻したり、食事をきちんと取ったのかと尋ねたこともあった。
あの頃は、目の前の青年が侯爵家の人間だとは知らなかった。
今はもう何も知らなかった頃とは違う。それでも、彼を心配する気持ちだけはあの頃と変わらない。
「……そうでしたね」
エレノアが微笑むと、アレクシスは少し間を置いてから頷いた。
「分かった」
短い返事だったが、それ以上の言葉は必要なかった。
そのまま二人で空を眺めているうちに、午後の時間はゆっくりと過ぎていった。
何もしないと決めてここへ来たのだから、本当に何もしなかった。エレノアが思いついたことをぽつぽつと話せば、アレクシスがそれを聞き、ときどき返事をする。それだけなのに、朝から領内を歩き回っていた昨日よりも、ずっと近くに彼がいるような気がした。
やがて日差しが少し傾き始めた頃、エレノアは身体を起こした。
アレクシスの上着を丁寧に払って返すと、彼は汚れを気にする様子もなく受け取った。
「明日は、朝食のあとにお発ちになるんですよね」
「ああ」
王都までは遠く、アレクシスには侯爵としての仕事もある。
そう何度もリーヴェへ来られるわけではないことくらい、エレノアにも分かっていた。次に会うのがいつになるのかは、まだ決まっていない。
エレノアは返してしまった上着を着直すアレクシスを見ながら、少し迷ったあとで口を開いた。
「王都へ戻られてからも、私からお手紙を書いてもいいですか?」
アレクシスがこちらを見る。
「何か用事があるときだけではなくて……今日あったこととか、読んだ本のこととか。そんなことでも」
言葉にしてみると、少しだけ恥ずかしかった。
けれど、離れている間もアレクシスに伝えたいと思った。水路がどうなったのか、橋を見てもらった結果がどうだったのか。今日読んだ本が面白かったとか、庭の花が咲いたとか、そんな何でもないことまで。
「もちろんだ」
迷いのない返事に、エレノアの表情が緩んだ。
「お忙しいときは、お返事はなくても大丈夫ですから」
「返す」
「でも、お仕事もあるでしょう?」
「君から来た手紙には返す」
あまりにも当然のように言われ、エレノアはしばらくアレクシスを見つめた。
「……では、たくさん書いてしまうかもしれません」
「構わない」
その返事が嬉しくて、エレノアは笑った。
二人で丘を下り始めると、少し前まで寝転がっていた草原が背後へ遠ざかっていく。
明日の朝には、アレクシスは王都へ戻る。次に会える日がまだ決まっていなくても、今度は彼がどこにいるのかを知っていて、伝えたいことがあれば手紙を書ける。
それだけでも、5年前とはずいぶん違っていた。
エレノアは隣を歩くアレクシスと歩調を合わせながら、丘をゆっくりと下っていった。




