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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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翌朝、朝食を終えたエレノアは、窓の外を見ながら今日の予定を考えていた。


アレクシスがリーヴェにいられるのは数日しかない。昨日は到着してすぐに水路の作業へ加わり、そのあとには馬で領内まで見て回ったのだから、今日はもう少しゆっくりしてもらった方がいいのではないかと思っていた。

けれど、食後のお茶を飲んでいたアレクシスから尋ねられたのは、彼自身の予定ではなかった。


「今日は何をする?」


「私ですか?」


「ああ」


エレノアは少し考えた。


「昨日の水路を一度見て、そのあと北側の畑へ行こうと思っています。人手が足りないと聞いているので、何かできることがあれば手伝おうかと」


「他には?」


「今のところは、それくらいです」


予定と呼ぶほどのものでもない。外へ出れば誰かに声をかけられることもあるし、屋敷へ戻ってから父と話したいこともあるが、その日のうちに決まることの方が多かった。


「なら、俺も行く」


エレノアは目を瞬いた。


「昨日も領内をご覧になったでしょう?」


「昨日見たのは土地だ。今日は君が何をしているのか見たい」


アレクシスはそれだけ言うと、残っていたお茶を飲んだ。

昨日、彼は自分がこの5年をどう過ごしてきたのか知らないと言っていた。

エレノアにとっては特別なことなど何もない一日だが、それでいいのなら断る理由もない。


「分かりました。では、一緒に行きましょう」


屋敷を出る頃には、セドリックも同行することになっていた。


最初に向かったのは、昨日作業した水路だった。取り除いた枝や土はまだ脇に積まれていたが、水は昨日よりずっと滑らかに流れている。

エレノアが水際へ近づこうとすると、隣から腕を掴まれた。


「そこから見れば分かる」


「もう少し近くで見たいのですが」


「昨日落ちかけただろう」


「落ちてはいませんよ」


アレクシスは答えず、掴んだ腕も離さない。

仕方なくその場から水の流れを確かめていると、昨日も一緒に作業していた男が道具を抱えてやってきた。


「お嬢様、もう見に来たんですか」


「ええ。ちゃんと流れているか気になって」


「ここは大丈夫そうですよ。ただ、上の方がまだ怪しくて。昼から何人かで見に行こうと思ってます」


場所を聞けば、この先の畑へ水を送るためには放っておけないところだった。


「それなら私も――」


「お嬢様は北の畑へ行くんでしょう?」


言い終える前に止められ、エレノアは口を閉じた。


「昨日そう言ってましたよ。こっちは俺たちで見ますから」


「でも、人手が足りないでしょう?」


「足りないのはどこも同じです。何でもお嬢様が来てたら身体がいくつあっても足りませんよ」


笑いながら言われてしまえば、エレノアも引き下がるしかない。


「では、お願いします。何かあったら屋敷へ知らせてください」


「あいよ」


話を終えて歩き出すと、アレクシスが隣へ並んだ。


「よく止められるのか?」


「たまにです」


「そうか」


何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。

水路から北側の畑へ向かう道でも、まっすぐ目的地へ着くことはなかった。

最初に声をかけてきたのは、家の前で木材を移していた女性だった。壊れた納屋の一部を直すために運んでいると聞き、エレノアはそのまま袖をまくった。


「少し運べばいいのですね?」


「お嬢様、いいですよ。今日はお客様もいらっしゃるんでしょう?」


「これくらいならすぐ終わります」


手頃な一本を抱えたところで、横から伸びてきた腕に取り上げられた。


「アレクシス様?」


「どこへ運ぶ」


女性が慌てて場所を示すと、アレクシスは木材を抱えたままそちらへ向かっていく。


「お手伝いしてくださらなくてもよかったのですよ?」


追いかけたエレノアに、アレクシスは振り返りもせず答えた。


「君一人にやらせる方がおかしいだろう」


そのままセドリックまで加わったため、残っていた木材はあっという間に片づいた。

女性は何度も頭を下げていたが、アレクシスは「構わない」とだけ答え、何事もなかったように歩き始める。


ようやく北側の畑へ着いた頃には、朝の涼しさもすっかり消えていた。

ここ数日は収穫と畑の手入れが重なり、人手が足りていない。エレノアは作業の進み具合を聞くだけのつもりだったが、積まれた籠を運ぶ人が足りないと知れば、当然のようにその一つへ手を伸ばした。

それを見たアレクシスの眉がわずかに動いた。

けれど今度は何も言わなかったため、エレノアも気にせず作業を続けた。

一つ運び終えたところで、今度は別の畑から呼ばれる。数日前に水の入りが悪くなった場所があるというので見に行けば、そこでも農夫たちと話し込み、その帰りには倒れた柵を起こそうとしている者を見つけた。


「こちらを持てばいいですか?」


そう言って手を伸ばしたところで、後ろから低い声がした。


「エレノア」


振り返ると、アレクシスが立っている。


「はい?」


「君は畑の様子を見に来たんじゃなかったのか」


「見ていますよ」


「さっきから働いているようにしか見えない」


言われてみれば、畑へ着いてから座ってはいない。

けれど、どれも大したことではなかった。


「人が足りないときは、手伝った方が早いですから」


「それで全部手を出すのか?」


「全部ではありません」


答えながら、エレノアは柵へ手をかける。今度は止められなかったが、反対側をアレクシスが持った。

二人で持ち上げれば、倒れていた柵はすぐ元の位置へ戻る。

近くにいた農夫が申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみませんね、お嬢様。侯爵様まで」


「構わない。それより、ここは前から壊れていたのか?」


アレクシスに尋ねられ、農夫は少し驚きながらも説明を始めた。

戦争のあと、使える木材は家や納屋の修理へ優先して回したため、畑の柵は後回しになっている場所が多いらしい。獣除けも十分ではなく、せっかく作物を育てても被害が出ることがあるという。


「木材そのものが足りないのか?」


「ないわけじゃありません。ただ、切り出す人間も運ぶ人間も足りませんで」


「どこも結局、人手なのですね」


エレノアが言うと、農夫は苦笑した。


「人さえいれば、もう少し何とかなるんですがね」


アレクシスは周囲の畑へ視線を向けた。


「人が足りないなら、使う畑を減らすことはできないのか?」


「それも考えました。ただ、減らせば当然、収穫も減ります。去年よりは人が戻ってきましたから、できれば今年は少しでも増やしたいんです」


「なるほど」


それ以上アレクシスは口を挟まず、今度はエレノアへ視線を向けた。


「ほかの場所も同じか?」


「似ています。水路を直したくても畑から人を取れませんし、道を直すにも人が必要です。どこかを進めれば、どこかが遅れてしまって」


王都で専門家から話を聞いてきたことで、優先順位をつける必要があることは分かった。それでも、実際にここで暮らす人たちを前にすると、簡単に後回しにできるものなどほとんどない。

アレクシスは少し考えてから農夫にいくつか質問し、今使えている畑と、まだ手を入れられていない畑の場所を確認した。

答えを聞いても、その場で何かを決めることはしない。

ただ話を聞き、周囲を見て、それを覚えているようだった。


昼が近づく頃には、エレノアが最初に考えていた予定はほとんど意味をなくしていた。

畑から畑へ移動する途中でも何度か呼び止められ、相談されれば足を止めて話を聞き、人手が足りなければそのまま手を貸した。気になる場所があると聞けば確認にも向かったため、北側の畑へ来ただけのはずが、気づけば朝からかなりの距離を歩いている。


アレクシスはそのすべてについてきていたが、エレノアが収穫物の入った籠へ手を伸ばしたところで、とうとうその手首を掴んだ。


「それはいい」


エレノアは籠から手を離し、アレクシスを見上げた。


「もう少しでこちらも終わりますよ」


「だからといって、君が運ぶ必要はないだろう。朝からほとんど動き続けている」


言われて初めて朝からのことを振り返ったが、水路を見て、木材を運び、畑をいくつか回った程度で、エレノア自身はそれほど疲れているつもりはなかった。


「私は大丈夫です」


「君の大丈夫は信用していない」


あまりにも迷いなく返され、エレノアは目を瞬いた。


「昨日から見ていれば分かる。疲れていても気づかないだろう」


そこまで言われると否定しづらい。昨日も水路で足を滑らせかけたうえ、小さな傷まで作っている。

それでも、エレノアには一つだけ納得できないことがあった。


「でしたら、アレクシス様も少しお休みください」


今度はアレクシスが黙った。


「3日も馬で移動していらしたのに、昨日は到着してからずっと動いていたでしょう? 私が心配しても、大丈夫だとおっしゃっていました」


「俺は慣れている」


「私が同じことを言ったときは、余計に心配だとおっしゃったではありませんか」


返事がない。

少し後ろを歩いていたセドリックが、そこで小さく息を吐いた。


「よく似ていらっしゃいますね」


アレクシスとエレノアが同時に振り返ると、セドリックは二人の視線を受けながらも平然としていた。


「ご自分のことになると、お二人とも大丈夫としかおっしゃいませんので」


「今はエレノアの話をしている」


「はい。ですが、閣下も止めなければ食事を後回しになさいますし、休めと言っても仕事を続けます」


「セドリック」


低い声で名前を呼ばれても、セドリックは慣れているのか表情一つ変えなかった。

エレノアは隣のアレクシスを見上げる。


「では、今日は一緒に休みませんか?」


自分だけ休めと言われても、おそらく落ち着かない。それなら二人とも休んでしまえばいい。

アレクシスはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「……分かった」


それを聞いたセドリックが、わずかに口元を緩める。

結局、近くの木陰で3人揃って休憩することになった。

近くで作業していた者たちから昼食を一緒にどうかと声をかけられたため、そのまま簡単な食事を取ることになった。

パンとスープを受け取り、木陰に腰を下ろす。

動くのをやめて初めて、エレノアは足に少し疲れが溜まっていることに気づいた。朝からかなり歩いたのだから当然なのだが、作業をしている間はほとんど気にならなかった。

無意識に足首へ手をやると、隣から視線を感じた。


「何でもありませんよ」


「まだ何も言っていない」


「……そうでした」


アレクシスが小さく息を吐く。

向かいに座っていたセドリックが、パンを口に運びながら視線を逸らした。

その様子がおかしくて、エレノアは笑いそうになるのを堪えた。


食事をしながら領民たちと話しているうちに、今度は南側の村へ続く橋の話になった。

戦争の終わり頃に大きく壊れ、今も人が歩いて渡ることはできるものの、荷車は通れないままになっているらしい。


「橋が使えれば、向こうの村からこっちへ人を出すこともできるんですがね」


年配の男が言う。


「向こうも人が余ってるわけじゃありません。ただ、収穫の時期が少し違うんで、行き来しやすくなれば互いに手を貸せるかもしれません」


「最後に見たときより、崩れていますか?」


エレノアが尋ねると、男は難しい顔で頷いた。


「この前の雨で少し。すぐ落ちるってほどじゃありませんが、直すなら早い方がいいでしょうな」


アレクシスは話を聞きながら、橋の位置や向こう側にある村の数、街道へ出るまでの道について尋ねた。

領民たちも最初こそ侯爵に直接聞かれることに緊張していたが、話しているうちに少しずつ言葉が増えていく。


「明日、見に行こう」


一通り話を聞いたあと、アレクシスがエレノアへ言った。


「はい。私もその方がいいと思います」


「子爵にも話を聞きたい。屋敷へ戻ったら地図を見せてもらえるか?」


「もちろんです」


そこまで話したところで、エレノアは少しだけ嬉しくなった。


アレクシスは、侯爵家から人を出せばいいとも、金を出せばいいとも言わなかった。

まずここにいる人たちの話を聞き、何が必要なのかを自分の目で見ようとしている。

昨日言っていた言葉を、エレノアは思い出した。

君が大事にしているものを、俺まで他人事にする必要はないだろう。

あれは、ただエレノアを安心させるために言った言葉ではなかったらしい。


午後は予定を少し減らし、西側の農地を一か所だけ見て屋敷へ戻ることにした。

それでも帰り道では何人もの領民に声をかけられた。

収穫の話をする者もいれば、家族の近況を話す者もいる。小さな子どもに呼び止められればエレノアはしゃがんで話を聞き、少し離れた家から手を振られれば笑って振り返す。

そのたびにアレクシスは足を止め、急かすことなく待っていた。


「お待たせしました」


何度目かの会話を終えて戻ると、アレクシスは歩き出しながら尋ねた。


「さっきの子どもは?」


「水路の近くに住んでいる子です。お父様が畑で働いていて、私も何度か会っています」


「その前の女性は?」


「小さい頃から知っています。お菓子作りがとても上手なんですよ」



そう答えながら、エレノアは少し不思議に思った。

アレクシスがこんなことを聞くとは思っていなかった。

けれど彼は、領民の名前を覚えたいわけでも、何かを調べたいわけでもないらしい。ただ、エレノアが誰とどんなふうに関わってきたのかを知ろうとしている。


「ここにいると、よく分かるな」


不意にアレクシスが言った。


「何がですか?」


「君が5年間、ここで何をしていたのか」


エレノアは少しだけ目を見開いた。

アレクシスは前を向いたままだった。


「昨日だけでは分からなかった。水路に入っていたのも、たまたまじゃなかったんだな」


「水路に入ることは、そんなに多くありませんよ」


「そういう意味じゃない」


今度はエレノアにも分かった。

困っている人がいれば話を聞き、人手が足りなければ手伝う。それはエレノアにとって、特別に意識してきたことではなかった。

戦争で荒れたリーヴェに戻ってきた人たちが、少しずつ暮らしを取り戻していく。その中で自分にできることをしていただけだ。


「私にできることは、それほど多くありません」


「十分だろう」


アレクシスの返事は早かった。

エレノアが隣を見ると、彼もこちらを見ていた。


「だから余計に、自分のことも少しは気にしろ」


結局そこへ戻るのかと思い、エレノアは小さく笑った。


「アレクシス様もですよ」


「……ああ」


今度は否定しなかった。

少し後ろを歩くセドリックが、何も言わずにいるのがかえっておかしくて、エレノアはまた笑いそうになった。


屋敷が見えてきたところで、アレクシスは一度だけ後ろを振り返った。

今日歩いた道の先には畑があり、水路があり、そのさらに向こうにはまだ壊れた橋が残っている。


「戻ったら、橋の地図を見よう」


「はい」


「明日はそこからだ」


頼まれたわけでもないのに、もう明日のことを考えている。

エレノアは少しだけ歩幅を速め、アレクシスの隣へ並んだ。


「橋を見たあとは、どうしましょうか」


「君はどこへ行くつもりだった?」


「明日はまだ決めていません。でも、お見せしたいところならたくさんあります」


「なら、そこへ行こう」


「全部回るのは、一日では無理ですよ?」


アレクシスは少しだけエレノアを見た。


「まだ帰らない」


それだけ言って、また前を向く。

エレノアは返事をせず、その隣を歩いた。

昨日までと変わらないリーヴェの景色なのに、今日は少しだけ違って見えた。

自分が5年間見てきたものを、今はアレクシスも一緒に見ている。

屋敷へ続く道を歩きながら、エレノアは明日どこへ連れて行こうかと、もう次のことを考え始めていた。







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