↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/37

34

屋敷が見えてくる頃には、エレノアもようやく自分たちの姿がひどいことに気づき始めていた。


水路に入っていたのだから当然だが、靴にも裾にも泥がついている。アレクシスの白いシャツも袖口を中心にすっかり汚れ、王都から3日かけてやって来た侯爵を迎える姿としては、どう考えても予定していたものとは違っていた。


そして屋敷へ戻れば、この姿を見て黙っていない人がいる。

玄関前まで来たところで、出迎えに出てきたマルタが足を止めた。

最初にエレノアを見る。次に、その隣にいるアレクシスを見る。

もう一度エレノアへ戻った視線が、今度は頭から足元までゆっくりと下がっていった。


「……エレノア様」


「ただいま、マルタ」


「またそんなことをなさって!」


予想通りだった。


「今日は見るだけのつもりだったのよ」


「見るだけの方が、どうしてそんなに泥だらけになるのですか。あなたはご令嬢なのですよ!」


「分かっているわ」


「分かっている方は、そのお姿ではお帰りになりません!」


これまでにも何度となく繰り返されたやり取りに、エレノアは肩をすくめた。

マルタも、エレノアが領地の仕事を手伝うことそのものを本気で止めているわけではない。ただ、出ていけば服を汚し、気づけば荷物を運び、ときには今日のように水路へまで入るため、そのたびに同じように叱られている。


「でも、今日はアレクシス様も手伝ってくださったのよ」


言ってから、エレノアは余計なことを言ったと気づいた。

マルタの視線がアレクシスへ移る。

侯爵に向かって同じ調子で叱るわけにもいかないのだろう。さすがのマルタも一瞬言葉を失っていた。


「……侯爵様まで、どうしてそのようなお姿に」


「俺が勝手に手伝った」


アレクシスは少しも気にした様子なく答えた。


「エレノアに頼まれたわけではない」


「アレクシス様」


庇ってくれているのだと分かったが、マルタは納得しなかった。


「侯爵様まで巻き込んで、何をなさっているのですか」


「……はい」


結局、エレノアが叱られることに変わりはなかった。

隣を見ると、アレクシスと目が合った。笑っているわけではないのに、ほんの少しだけ目元が柔らかい。


「笑っていらっしゃいます?」


「笑っていない」


「今、少し笑いました」


「気のせいだ」


絶対に気のせいではない。

言い返そうとしたところで、マルタから「まずはお着替えを」と促され、エレノアは大人しく従うことにした。




◇




着替えを済ませて食堂へ向かうと、アレクシスもすでに身なりを整えていた。

父も加わって遅めの昼食を取りながら、話題は自然と午前中の水路のことへ移った。


「到着早々、娘に付き合わせてしまったようで申し訳ありません」


父がそう言うと、アレクシスは首を横に振った。


「私が自分で手を出したことだ。それに、実際に見られてよかった」


「水路を、ですか?」


「ああ。王都で話を聞くだけでは分からないこともある」


アレクシスは、エレノアが王都で相談した専門家の話についても覚えていた。

水路だけではなく、道路や畑の状況、人手がどの程度戻っているのか。父が答えられることは答え、エレノアも途中で何度か言葉を添える。

けれど、アレクシスは何かを決めるようなことは言わなかった。

必要なことを尋ね、父の話を聞き、ときどき確認する。それだけだった。


「午後、少し領内を見ても構わないだろうか」


話が一段落したところで、アレクシスが父へ尋ねた。


「もちろんです。ご案内いたします」


「いや」


アレクシスの視線がエレノアへ向いた。


「エレノアに頼みたい」


「私ですか?」


「君の方が、普段どこを見ているのか分かる」


父が小さく笑った。


「それならエレノアに任せるのが一番でしょう。私よりあちこち歩いていますから」


「お父様まで」


「事実だろう?」


否定できず、エレノアは黙った。



午後からは、午前中とは反対側の地域を見て回ることになった。

屋敷を出たところで、エレノアは当然のように馬車へ向かおうとした。

しかし、アレクシスは馬のそばに立っている。

午前中に乗ってきた馬は休ませているため別の馬だったが、どうやら馬車を使うつもりはないらしい。


「馬で行かれるんですか?」


「ああ。その方が動きやすい」


「では、私は馬車で――」


そこまで言ったところで、アレクシスがエレノアを見た。


「君は今もまだ、馬には乗れないのか?」


突然聞かれ、エレノアは目を瞬いた。


「……はい。結局、一度も」


5年前にも、同じような話をしたことがある。


馬に乗ってみたいと言えば、父にも母にもマルタにも危ないからと止められてきた。あの頃から状況はずいぶん変わったのに、乗馬については結局そのままだった。

アレクシスは「そうか」と答え、目の前の馬へ視線を戻した。


「乗ってみるか」


エレノアは一瞬、聞き間違えたのかと思った。


「今ですか?」


「乗りたかったんだろう」


そう聞かれれば、答えは決まっていた。


「乗りたいです!」


ほとんど間を置かずに答えると、アレクシスがこちらを見る。


「ずいぶん返事が早いな」


「ずっと乗ってみたかったんです」


「そうだったな」


アレクシスは馬の首筋を撫でてから、エレノアへ向き直った。


「ただし、今日は一人では乗せない」


「やっぱり危ないですか?」


「初めてなら当然だ。まずは馬に慣れろ」


そう言われてしまえば反論はできない。

それでも、乗れることに変わりはなかった。

エレノアが馬のそばへ近づくと、思っていた以上の大きさに少しだけ足が止まった。遠くから見慣れてはいるが、自分がこれから乗ると思うとまるで違って見える。

アレクシスが馬の首に触れながら声をかけた。


「急に後ろへ回るな。まず触ってみろ」


言われた通り、エレノアは恐る恐る手を伸ばした。

指先が毛に触れる。

馬は少し顔を動かしたものの、嫌がる様子はない。


「思っていたより、温かいです」


「生きているからな」


「そうですよね」


思わず返すと、アレクシスの口元がわずかに動いた。


しばらく撫でているうちに緊張も薄れ、エレノアは少しずつ馬へ近づいていった。

アレクシスは急かさなかった。

馬のそばで気をつけることや、急に大きな動きをしないことを簡単に教えてくれる。エレノアが聞けば答えるが、一度に多くを言うこともない。


「今日は横向きで乗れ。一人で乗るのは次からだ」


「分かりました」


馬に乗るとは思っておらず、服が乗馬用ではないので素直に返事をした。直後、アレクシスの腕がエレノアの背と膝の下へ回った。


「えっ――」


身体がふわりと浮き、反射的にアレクシスの肩へ手を置く。何が起きたのか理解するより先に、そのまま軽々と抱き上げられていた。


「ア、アレクシス様?」


「動くな。危ない」


そう言われれば動けるはずもない。

アレクシスは何でもないことのようにエレノアを馬のそばまで運ぶと、そのまま鞍へ横向きに座らせた。

地面へ足をつけていたときとは高さがまるで違う。思わず鞍へ手をついたエレノアを確認してから、アレクシスも鐙へ足をかけ、その後ろへ乗った。

すぐ背後に身体の気配があり、エレノアの両脇から伸びた腕が手綱を取る。

そこでようやく、自分がどういう状態で馬に乗っているのか分かった。


「……近いですね」


「落ちるよりいいだろう」


それはそうなのだけれど、そういう問題ではない気もする。

けれどアレクシスはまるで気にしていないらしく、手綱を軽く引いた。

馬がまだ一歩も動いていないのに、見慣れた屋敷の庭がいつもと違って見える。


「怖いか?」


すぐ後ろから聞かれ、エレノアは少し考えた。


「少しだけ。でも、それより楽しいです」


「まだ動いていないぞ」


「それでもです」


今度こそ、背後でアレクシスが小さく笑ったのが分かった。

馬がゆっくり歩き始める。

最初の数歩は身体が揺れるたびに緊張した。思わず身体へ力が入ると、アレクシスの腕がエレノアを支える。


「力を入れすぎるな」


「そう言われても、初めてなので難しいです」


「すぐ慣れる」


その言葉通り、しばらく進むうちに少しずつ揺れにも慣れてきた。

屋敷の門を出る。

馬車の窓から何度も見てきた道なのに、視界の高さも、風の感じ方も違う。


「すごい……」


思わず声が漏れた。

アレクシスは何も言わなかった。

ただ、エレノアが景色を見るのを邪魔しないように、馬をゆっくり進ませている。


領地の中へ入ると、エレノアはいつものように周囲を説明した。


「あちらは今年ようやく作付けを増やせた畑です。その先は、まだ人手が足りなくて半分ほどしか使えていません」


アレクシスはエレノアが指した方を見る。


「水は?」


「午前中に見ていただいた水路とは別ですが、こちらも十分ではありません。雨が少ない年は特に困るそうです」


「そうか」


それ以上は言わず、景色を見ている。

途中で何度か馬を止め、道の状態や畑を確かめた。

エレノアが知っていることは話し、分からないことは分からないと答える。アレクシスも、その場で何かを解決しようとはしなかった。

しばらく進んだところで、エレノアは一つ先の分かれ道を指した。


「少し遠回りしてもいいですか?」


「どこへ行く?」


「見ていただきたい場所があります」


道を外れ、緩やかな坂を上っていく。

馬車では通りにくい細い道だったため、これまでは歩いて来ることが多かった場所だ。

坂を上りきったところで、エレノアは振り返った。

眼下にリーヴェの土地が広がっている。

遠くには屋敷が見え、その周囲には畑と集落が続く。まだ荒れた場所も残っているが、修復された道や新しく耕された土地も、ここからならよく分かった。


「ここが好きなんです」


アレクシスが馬を止める。


「昔から?」


「はい。子どもの頃から、ときどき来ていました。戦争のあと初めてここへ来たときは、見るのが少しつらかったですけれど」


以前はもっと畑が広がり、人の行き来も多かった。

今はまだ、その頃には戻っていない。


「でも、少しずつ変わってきました」


エレノアは遠くの畑を指した。


「あそこは去年まで使えなかったんです。でも今年はまた作物を植えられるようになりました。向こうの道も、前は荷車が通れないほど崩れていたんですよ」


一つずつなら小さな変化かもしれない。

それでも、5年前にはなかったものが少しずつ戻っている。

アレクシスは長いあいだ何も言わず、エレノアが指す先を見ていた。

やがて視線を近くへ戻し、静かに言った。


「君がここを大事にしている理由が、少し分かった気がする」


エレノアは振り返った。

午前中、泥だらけになりながら一緒に水路へ入った人が、今は自分の好きな場所から同じ景色を見ている。

それが嬉しかった。


「連れてきてよかったです」


「ああ」


帰り道も、馬はゆっくり進んだ。

最初は揺れるたびに身体へ力を入れていたエレノアも、今ではずいぶん慣れていた。

道の窪みを越えたとき、馬の身体が少し大きく揺れる。

エレノアの身体も傾いたが、すぐにアレクシスの腕が支えた。

行きなら驚いていたかもしれない。

けれど今は、支えられたことを確認すると、そのまま再び前の景色へ目を向けることができた。


「少し慣れてきた気がします」


「だからといって、一人で乗れると思うな」


すぐに釘を刺される。


「そこまでは思っていません」


「ならいい」


けれど、いつか一人でも乗ってみたい。

そう思っていると、アレクシスが続けた。


「次は一人で乗る練習をする」


エレノアは思わず振り返りかけ、すぐ後ろにアレクシスがいることを思い出して慌てて前を向いた。


「教えてくださるんですか?」


「そのつもりだ」


嬉しくなったエレノアは、思わず笑った。


「では、それまで勝手に練習しないようにします」


「言う前に分かっているなら助かる」


「さすがに今日の今日で一人では乗りません」


「今日でなければ乗るつもりだったのか?」


「そういう意味ではありません」


背後から返事はなかったが、アレクシスが少し笑ったような気がした。


5年前、乗ってみたいと思っていた馬に、今こうして乗っている。

あの頃は、こんな日が来るとは思ってもいなかった。

馬車の窓越しではない景色を眺めながら、エレノアは吹き抜ける風に目を細めた。


「アレクシス様」


「何だ」


「次にいらっしゃるときも、馬で来てくださいね」


少し間を置いて、すぐ後ろから「ああ」と返ってくる。

今度は今日とは違う乗り方で、この景色を見られるかもしれない。

屋敷へ続く道を、馬はゆっくりと下っていった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。