33
翌朝、エレノアはいつもより少し早く目を覚ました。
アレクシスが到着するのは午後の予定だった。道中で大きな遅れがなければ昼を過ぎた頃になると聞いているから、それまでには屋敷へ戻るつもりでいる。
だからといって、朝から何もせずに待っている気にはなれなかった。
数日前から始めた水路の土砂を取り除く作業は順調に進み、昨日までに上流の一か所がほぼ片づいている。今日はもう一か所へ取りかかる予定だと聞いていたため、エレノアも午前中だけ様子を見に行くことにした。
朝食の席でその話をすると、父は予想していたような顔をした。
「侯爵が来る日にまで行かなくてもいいんじゃないかい?」
「午後には戻ります。ずっと屋敷で待っているわけにもいかないでしょう?」
「それはそうだけれど、せめて今日は見るだけにしておきなさい」
「そのつもりです」
返事をしたエレノアを、父はしばらく疑わしそうに見ていた。
「本当に?」
「……できるだけ」
「もう変わっているじゃないか」
呆れたように言われ、エレノアは笑って誤魔化した。
屋敷を出る頃には朝の涼しさも薄れ、空はよく晴れていた。
水路へ着くと、すでに何人かが作業を始めている。先日より水の流れは良くなっているものの、少し先にはまだ土砂が溜まり、流れてきた枝に草の根が絡んでいる場所があった。
「おはようございます。どうですか?」
エレノアが声をかけると、作業を見ていた担当者が振り返った。
「おはようございます、お嬢様。昨日のところは問題なさそうです。今日はこっちを少し広げようと思っているんですが、これがなかなか動かなくて」
示された先では、一人の男が泥の中から太い枝を引き上げようとしていた。途中で何かに引っかかっているらしく、二人がかりでも簡単には抜けそうにない。
エレノアは水路の縁にしゃがみ込み、しばらく様子を見た。
「枝の周りの土を先に退けた方がよくないですか?」
「私たちもそう思って、今からやろうかと」
「それなら、私も手伝います」
「お嬢様、今日は侯爵様がお見えになるんでしょう?」
すぐに返され、エレノアは立ち上がった。
「午後ですから、それまでには戻ります。それに、少しくらいなら大丈夫です」
見るだけにしておきなさい、と言った父の顔が頭をよぎったが、ここまで来て眺めているだけというのも落ち着かない。
邪魔にならないようスカートの裾をまとめると、担当者が諦めたように息をついた。
「せめて足元には気をつけてくださいよ」
「分かっています」
水路へ降りるのは初めてではなかった。復興が本格的に始まってからは、こうして人手が足りない場所を手伝うことも増えている。最初の頃こそ周囲も慌てて止めていたが、今ではエレノアが簡単には引き下がらないことを皆が知っていた。
浅い場所へ足を入れ、道具を受け取る。
枝の周囲に溜まった泥を少しずつ掻き出していくと、埋もれていた部分が見え始めた。思った以上に深く入り込んでいるようで、作業を始めてしばらくすると、見るだけのつもりだったことなどすっかり忘れていた。
「お嬢様、そちらはもういいですよ。こっちでやりますから」
「あと少しです。ここまで出せば動きそうでしょう?」
「だから皆さん、お嬢様を止めるのを諦めるんですよ」
「何か言いました?」
「いいえ、何も」
笑い声が上がる。
エレノアも笑いながら、再び道具を動かした。
泥を運び、邪魔になっている草の根を取り除いているうちに、袖口にも頬にも汚れがついた。途中で足を置いた場所が沈み、近くの石へ手をついたものの、転ばなかったのでそのまま作業を続ける。
そうして枝の根元がようやく見え始めた頃、少し離れたところで聞こえていた話し声が途切れた。
何かあったのかと思って顔を上げると、水路の上にいる男たちが皆、街道の方を見ている。
エレノアもつられて振り返ると、二頭の馬が止まっているのが目に入った。
一人が先に降り、もう一人もすぐに地面へ降り立つ。後ろの男が二頭分の手綱を取ったところで、エレノアはようやくその顔が見えた。
「……アレクシス様?」
思わず声が弾んだ。
午後まで会えないと思っていた人がそこにいる。
王都で別れてからまだ2週間ほどしか経っていないのに、姿を見つけただけで嬉しくなり、エレノアは水路の中にいることも忘れて笑った。
アレクシスもすぐにエレノアを見つけたが、目が合った瞬間その表情がわずかに緩む。
けれど、それはほんの一瞬だった。
彼の視線がエレノアの顔から下へ移る。
まとめた裾、泥のついた服、手に持った道具、そして水路の中に立っている足元。
再び顔へ戻ってきたときには、眉間に深い皺が寄っていた。
「……何をしている」
2週間ぶりに会って最初に言われたのがそれだった。
エレノアは自分の姿を見下ろし、ようやく今の状態を思い出した。
「水路の土砂を取り除いているんです。昨日からこちらの流れを――」
「それは見れば分かる」
アレクシスは水路のすぐそばまで来ると、先ほどエレノアが足を滑らせた辺りへ目を向けた。
「なぜ君まで中にいるんだ」
「人手が足りないので、少しだけお手伝いをしていました」
少し、と言いながら自分の袖を見ると、説得力がないことはエレノアにも分かった。
アレクシスも同じことを思ったらしく、何も言わずにその汚れを見ている。
「これくらい、いつもやっていますから大丈夫です」
安心させるつもりで言ったのに、アレクシスの視線がすぐに戻ってきた。
「いつもやっているのか?」
「必要なときだけです。人手が足りないことも多いので、私にできることなら手伝っています」
「この5年、ずっと?」
戦争の最中はできることも限られていたが、終戦後、本格的に復興が始まってからはこうして外へ出ることも増えた。水路だけではなく、畑へ行くこともあれば、物資を運ぶ手伝いをしたこともある。
「ずっとではありませんけれど、必要なときは」
エレノアにとっては、特別に話すほどのことでもなかった。
けれど、アレクシスはそうではないらしい。
「お嬢様は昔からこうなんですよ」
近くにいた男が笑いながら口を挟んだ。
「止めても聞いてくださらないことが多くて。気づけば私たちと一緒に作業しておられます」
周囲からも苦笑交じりの同意が返ってくる。
アレクシスは彼らを見たあと、もう一度エレノアへ視線を戻した。
誰も、エレノアが水路に入っていること自体には驚いていない。
そのことに気づいたのか、アレクシスはしばらく黙っていた。
「それより、午後ではなかったんですか? こんなに早く着くと思っていませんでした」
「馬で来た。馬車より早い」
そこでようやく、エレノアはセドリックも一緒にいることに気づいた。
「セドリックも。お久しぶりね」
「ご無沙汰しております、エレノア様」
「3日間ずっと馬で移動を? お疲れでしょう」
自分のことより二人の道中が気になって尋ねると、アレクシスの眉間の皺がさらに深くなった。
「今は俺たちより、君の方が心配だ」
「私は平気です。さっきも言いましたけれど、慣れていますから」
「慣れていることが一番心配なんだが」
本気で言われ、エレノアは返事に困った。
危険なことをしているつもりはないし、これまでも大きな怪我をしたことはない。けれど、5年間のことを何も知らなかったアレクシスからすれば、突然こんな姿を見せられて心配になるのかもしれない。
「もう少しで終わります。あの枝を取れば、今日やる予定だったところまでは片づくんです」
エレノアが指すと、アレクシスは絡まった枝と、その周囲に溜まった泥を見た。
「それを取れば終わるのか?」
「今日は、ですけれど」
しばらく水路を見ていたアレクシスが、着ていた上着を脱いだ。
何をするのかと思っているうちに、上着はセドリックへ渡される。さらに袖を捲り始めたところで、エレノアは慌てて水路から上がった。
「アレクシス様、何をしているんですか?」
「手伝う」
あまりにも当然のように返され、エレノアは目を見開いた。
「いえ、結構です。3日も馬で移動してきたばかりでしょう? それに、こんなことをしていただくために来ていただいたわけではありません」
「君は手伝うんだろう」
「それは……ここは私の故郷ですから」
「なら、俺が手伝ってもいいだろう」
アレクシスは水路へ降りられそうな場所を確かめながら、ごく普通のことを話すように続けた。
「もうすぐ、君の家族になるんだ」
エレノアは何も言えなくなった。
家族。
半年後には結婚するのだから、何もおかしなことは言っていない。
王都では、侯爵邸がいずれ自分の家になるのだと聞いた。アレクシスの母とも会い、これから自分が彼の家族の中へ入っていくことを少しずつ考えるようになった。
けれど、反対のことは考えていなかった。
自分が彼の家族になるなら、彼もまた自分の家族になる。
そして、リーヴェはエレノアが大切にしてきた場所だからという、それだけの理由で彼は今、水路へ入ろうとしている。
「……そうですけれど」
ようやく返せたのは、それだけだった。
アレクシスはエレノアが使っていた道具を手に取り、水路の縁へ向かった。
少し離れたところでは、作業をしていた人たちが完全に手を止めている。
無理もない。
国中に名を知られるヴァルツェン侯爵が突然現れただけでも驚くのに、その本人が上着を脱ぎ、袖を捲って自分たちの水路へ入ろうとしているのだ。
「侯爵様、さすがにこれは私どもがいたします」
担当者が慌てて止めたが、アレクシスは気にした様子もなかった。
「どこを動かせばいい?」
戸惑いながらも説明を始めた担当者の話を、アレクシスは遮らずに聞いている。
その様子を見ていたエレノアは、もう止めても無駄だと諦め、再び水路へ降りた。
作業が再開すると、アレクシスは余計な口を挟まなかった。
どこを掘ればいいのか、何を動かせばいいのかをその場にいる者へ確認し、言われた通りに手を動かす。戦場に長くいた人だからなのか、服が汚れることも泥に触れることも気にしていない。
エレノアも先ほどまでと同じように作業へ戻った。
「そちらは、もう少し土を退けた方がいいと思います」
エレノアが言うと、近くの男が頷いた。
「そうですね。お嬢様、昨日と同じようにこちらを見てもらえますか?」
「分かりました。水が流れ始めたら教えますね」
そんなやり取りをしながら動いていると、ふとアレクシスと目が合った。
彼は何も言わなかったが、少し離れたところからエレノアを見ていた。
その後も何度か視線を感じた。
作業をしているところだけではない。
エレノアが領民に声をかけ、向こうからも当たり前のように返事をされるところや、担当者と相談しながら次に手をつける場所を決めているところまで、アレクシスは静かに見ていた。
ここにいる者たちは、エレノアを必要以上に特別扱いしない。
危ないことをすれば止めるし、分からないことを言えば教えてくれる。エレノアもまた、自分に知識がないことまで分かったふりをせず、彼らの話を聞いてきた。
やがて土が十分に取り除かれ、数人で枝を動かすことになった。
アレクシスが加わると、途中で引っかかりながらも、太い枝が少しずつ持ち上がる。最後に絡んでいた根が外れると、一気に水が流れ込んだ。
「流れました!」
声が上がり、皆が水路を覗き込む。
塞がれていた場所を水が抜けていき、下流へ向かう流れが少しずつ強くなっていく。
エレノアも嬉しくなり、その場にしゃがんで水の流れを確かめた。
「昨日よりずっといいですね。これなら下の畑にも――」
立ち上がろうとしたところで、アレクシスに手を取られた。
何事かと思って見ると、彼はエレノアの手のひらを見ている。
先ほど石へ手をついたときにできたらしい、小さな擦り傷があった。
「これですか? 大丈夫です。これくらい怪我に入りません」
アレクシスはすぐには手を離さなかった。
「君にとっては、そうなんだろうな」
呆れているようにも聞こえたが、責める声ではなかった。
そのまま傷を確かめたあと、ようやく手が離れる。
エレノアが顔を上げると、アレクシスは水路の周りにいる人々へ視線を向けていた。
「ずっと、こうしていたのか」
「こうして?」
「ここで暮らして、ここの人間と一緒に働いていたんだな」
その言葉に、エレノアは少し驚いた。
「はい。私にできることだけですけれど」
アレクシスはそれ以上何も言わなかった。
けれど、先ほどまでの心配だけが浮かんでいた顔とは、少し違って見えた。
作業が一段落した頃には、昼が近くなっていた。
エレノアたちは屋敷へ戻ることになり、馬はセドリックが連れて歩いている。アレクシスも乗らずにエレノアの隣を歩いた。
せっかく馬で来たのだから乗ればいいと言ったが、屋敷までそれほど遠くないから構わないと断られた。
「本当に、お疲れではありませんか?」
「問題ない」
「3日も馬に乗ってきたのに?」
「慣れている」
その言葉を聞き、エレノアは思わず隣を見た。
「さっき、私が同じことを言ったら心配だと仰ったでしょう」
アレクシスもこちらを見る。
少し間があってから、
「……そうだったな」
と返され、エレノアは思わず笑った。
自分にとって水路へ入ることが珍しくないように、アレクシスにとっても長時間馬に乗ることや、多少の無理をすることは珍しくないのだろう。
そう考えると、少しだけ似ているのかもしれない。
歩きながら、アレクシスは周囲を見ていた。
道の向こうには畑があり、その先にはまだ手を入れられていない土地も残っている。修復を終えた場所もあれば、戦争の痕跡がそのまま残っているところもあった。
「俺は知らなかった」
不意に言われ、エレノアは隣を見る。
「何をですか?」
「君がこの5年をどう過ごしていたのか」
エレノアは少し考えた。
「私も知りません。アレクシス様が、どんな5年を過ごしていたのか」
「知らなくていいことも多い」
「それでも、同じです」
戦場にいた彼と、リーヴェにいた自分では、過ごしてきた時間はまるで違う。
5年前のアレンを知っているからといって、その後のアレクシスをすべて知っているわけではない。きっと彼にとっても同じなのだろう。
「私も、これから知っていきたいです」
エレノアがそう言うと、アレクシスは少しだけ目を細めた。
「ああ。俺もだ」
それだけの返事だった。
けれど、エレノアには十分だった。
しばらく歩いたところで、ふとアレクシスの袖が目に入った。
白かったはずのシャツには泥がつき、手もすっかり汚れている。
「せっかく3日もかけて来てくださったのに、到着してすぐ水路の作業をさせてしまいましたね」
「俺が勝手にやったことだ」
「でも、こんなことになるとは思っていなかったでしょう?」
「そうだな」
それはそうだろう。
エレノアが笑うと、アレクシスは少し前を向いたまま続けた。
「だが、君が大事にしているものを、俺まで他人事にする必要はないだろう」
エレノアは何も返せなかった。
先ほど水路で言われた言葉が、もう一度頭に浮かぶ。
――もうすぐ、君の家族になるんだ。
王都で婚約してから、自分がアレクシスの隣へ行くことばかりを考えていた。
侯爵邸で暮らすことも、彼の母と家族になることも、これから覚えなければならないことも。
けれど、それだけではなかった。
アレクシスもまた、エレノアの隣へ来ようとしている。
自分が大切にしてきた土地も、そこで過ごした時間も、そこにいる人たちも、知らないままにしておくつもりはないのだろう。
エレノアは少し先へ出ていたアレクシスへ追いつき、その隣へ並んだ。
屋敷までは、もうそれほど遠くない。
二人の袖には、同じように泥がついていた。




