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エレノアが王都から戻って一週間ほど経つ頃には、ヴァルツェン侯爵との婚約について、屋敷の外でも知る者が増え始めていた。
父が領地の運営に関わる者たちへ正式に知らせたこともあり、屋敷を訪れる人から祝いの言葉をかけられることも珍しくない。王都では、ほとんど知らない人々から「侯爵の婚約者」として見られることに戸惑っていたが、リーヴェでは少し事情が違った。
「ご婚約、おめでとうございます」
その日も、水路の状態を確認するために町の外れまで出たところで、顔見知りの男に声をかけられた。
以前から領地の整備に携わっている者で、エレノアも何度か話をしたことがある。突然の祝いに一瞬驚いたものの、すぐに礼を返した。
「ありがとうございます」
「ヴァルツェン侯爵様と伺いました。大変なご縁ですね」
少し離れたところでは、同行してきた領地の担当者たちが水路を確認している。エレノアもそちらへ向かおうとしたが、男は何か言いたそうにしたまま立っていた。
「どうかしましたか?」
尋ねると、男は少し迷ってから口を開いた。
「お嬢様は、ご結婚されたら王都へ行かれるんですよね」
祝いの言葉を向けられることには少しずつ慣れてきたが、その問いを向けられたのは初めてだった。
「ええ。侯爵家へ嫁ぐことになりますから、暮らすのは王都になります」
「そうですか」
男は頷いたものの、その顔には祝いだけではないものが浮かんでいた。
「寂しくなりますね。お嬢様には、ここへ何度も来ていただきましたから」
その言葉に、エレノアはすぐに返事ができなかった。
自分が復興のために大きなことをしてきたとは思っていない。専門的な知識があるわけでもなく、実際に道や水路を直すのは職人や領民たちで、自分にできたのは話を聞き、父へ伝え、ときには必要なものを一緒に考えることくらいだった。
それでも、ここにいたことを覚えてくれている人がいる。
「王都へ行っても、リーヴェと関わらなくなるつもりはありません」
エレノアがそう答えると、男は少し驚いたように顔を上げた。
「今とまったく同じようにはできないと思います。でも、ここは私の故郷ですから」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
男は今度こそ嬉しそうに笑い、仕事へ戻っていった。
その背中を見送ってから、エレノアも水路へ向かう。
以前から問題になっていた場所で、流れが悪くなった原因を確認するため、上流から順に調べてもらっていた。王都から戻ったあとに改めて見たことで、土砂が溜まっている場所が一か所ではないことも分かっている。
「やはり、こちらがひどいですね」
担当者が示した先を見ると、水路の一部が土砂と草で狭くなっていた。本来ならもう少し幅があるはずなのに、水が通れる場所は半分ほどしか残っていない。
「全部を一度に取り除くのは難しいですか?」
「人さえ集められればできます。ただ、今は畑の方にも人手が必要ですから、こちらへ何人も回すのは厳しいですね」
エレノアは持ってきた覚え書きを開いた。
王都で聞いた話の中には、大規模な水路の補修だけでなく、限られた人数で維持する場合の優先順位についても触れられていた。ただし、そこで聞いた方法をそのまま使えばいいわけではない。
「水路全部ではなく、特に流れを塞いでいるところから少しずつ取り除くのはどうでしょう。ここが流れるようになるだけでも、下流へ届く水は増えませんか?」
担当者はすぐには答えず、水路を見ながら少し考えた。
「そうですね。完全に元へ戻すには足りませんが、今の人数ならその方が現実的です。まず上の二か所を片づけて、どれくらい流れが変わるか見てみましょう」
「それで変わらなければ、別のところも考える?」
「はい。それなら畑の作業を大きく止めずに済みます」
自分の考えだけで決めるのではなく、実際にこの土地で働いている人に確かめながら進める。その方がいいと、王都から戻ってきて改めて感じていた。
話を聞けば、自分が知らなかった事情がいくつも出てくる。人手が足りないと言っても、ただ人数が少ないだけではなく、畑仕事が忙しい時期と重なればさらに動ける者は減るし、資材を運ぶにも傷んだ道が邪魔をする。
一つ直せばすべてが解決するほど、復興は単純ではなかった。
それでも、何もできないわけでもない。
「では、まずそこからお願いします。必要な人数や日数が分かったら、お父様にも伝えます」
「承知しました」
話を終え、エレノアはもう一度水路を見た。
すぐ近くには畑が広がっているが、まだ使われていない土地も残っている。戦争前には作物が育っていたと聞く場所にも草が生え、以前の姿へ戻るにはまだ時間がかかりそうだった。
王都にいたとき、この土地のことを話すと驚かれることが何度かあった。
戦争が終わったのなら、少しずつ元へ戻っているのだろうと思われていたのかもしれない。実際には、壊れた道や橋を直し、人が暮らせる状態を取り戻したその先にも、やるべきことはいくらでも残っている。
屋敷へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
父は執務室にいると聞き、そのまま向かう。扉を叩いて中へ入ると、父は机いっぱいに広げた書類を前にしていた。
「お帰り。どうだった?」
「上流の二か所から土砂を取り除いてみることになりました。全部を一度に直すのは難しいので、まず流れがどのくらい変わるか見てみます」
エレノアが説明すると、父は手を止めて話を聞いてくれた。
必要になりそうな人数や、畑の作業に支障が出ないよう日程を調整することまで話し終えると、父は書類の一枚へ簡単に書き留めた。
「それなら無理はなさそうだね。担当の者から詳しい話が来たら、こちらでも確認しよう」
「お願いします」
用件を伝え終えて部屋を出ようとしたところで、午前中に言われた言葉を思い出した。
エレノアは扉へ向けていた足を止める。
「お父様」
「うん?」
「私が結婚したあとも、リーヴェのことに関わってもいいですよね?」
父は少し意外そうな顔をした。
「急にどうしたんだい?」
「今日、ご結婚されたら王都へ行ってしまうんですね、と言われたんです。それで、考えてしまって」
エレノアは父の机の前へ戻った。
「侯爵家へ嫁ぐのだから、今までと同じようにはできないことは分かっています。王都で暮らすことになりますし、私にも向こうでしなければならないことが増えるでしょう。でも、それでリーヴェのことを何もしなくなるのは嫌なんです」
父はすぐには答えず、しばらくエレノアを見ていた。
「もちろん、関わってはいけないなんて言うつもりはないよ。ここは結婚したからといって、君と関係のない土地になるわけじゃない」
「よかった」
「ただ、今と同じではいられないだろうね」
それはエレノアも分かっていた。
今なら思い立てば水路を見に行くこともできるし、担当者に直接話を聞くこともできる。王都で侯爵夫人として暮らすようになれば、同じことをするのは難しい。
「それでも、できることを探したいです」
「それでいいんじゃないかな」
父は穏やかに笑った。
「今から全部決めてしまう必要はないよ。半年あるんだから、アレクシス殿とも話しながら考えればいい」
その名前を聞き、エレノアは頷いた。
アレクシスなら、リーヴェに関わりたいと言って反対することはないだろう。むしろ、エレノアがそう望むことまで分かったうえで、以前からこの土地のことを考えてくれている。
けれど、彼に任せてしまいたいわけではなかった。
「侯爵家から支援してもらえばいい、とは思っていません」
「分かっているよ」
「私がアレクシス様と結婚することと、リーヴェの復興は別ですもの」
父はその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「私もそう思っている。もちろん、必要なときに助けてもらうことまで拒む必要はないけれど、彼と結婚するからリーヴェの問題がすべて解決する、という話にはしたくない」
「はい」
それを聞けただけで安心した。
アレクシスは、必要なら力を貸してくれるだろう。けれど、それを当然のこととして頼るのは違う。
できることは自分たちでやり、それでも足りないときには相談する。そのくらいの距離が、エレノアには一番自然に思えた。
「それにしても」
父が少し笑う。
「王都から帰ってきて、もう少し浮かれているかと思ったんだけれどね」
「浮かれていないわけではありません」
「そうなのかい?」
「もちろんです」
初めての王都へ行き、5年前に別れた人と再会して、その人と結婚することになったのだ。浮かれていないと言えば嘘になる。
ただ、それとリーヴェのことは別だった。
「それなら安心したよ」
何に安心したのかは分からなかったが、父が楽しそうなので、エレノアはそれ以上聞かずに執務室を出た。
それから数日、水路では予定していた作業が始まった。
畑の仕事を終えた者たちにも少しずつ手を借り、まず流れを大きく塞いでいた場所から土砂を取り除いていく。すぐに以前と同じ水量へ戻ったわけではないが、下流へ流れる水は目に見えて増えた。
「これなら、もう一か所やる価値はありそうですね」
担当者の言葉に、エレノアも頷いた。
王都で聞いてきたことが、ほんの少しだけリーヴェで形になった。
それだけで十分だった。
最初から大きな成果を出せるとは思っていない。こうして一つずつ確かめながら進めていけばいい。
その日の夕方、屋敷へ戻ると、玄関でマルタに呼び止められた。
「お嬢様、少しよろしいですか?」
「どうしたの?」
「明日のことなのですが、侯爵様は午後に到着される予定でよろしいでしょうか」
一瞬、何のことか分からなかった。
すぐに思い当たり、エレノアは目を瞬く。
「……もう明日なのね」
「もう、というより、ようやくではございませんか?」
マルタが笑う。
アレクシスから手紙を受け取ったときには、2週間はまだ先だと思っていた。それなのに、領地のことをして、何度か手紙を交わしているうちに、いつの間にか前日になっていた。
「午後には到着すると聞いているわ。道中で何もなければだけれど」
「では、そのつもりで準備いたしますね」
「お願い」
マルタが去ったあと、エレノアは自室へ戻った。
机の上には、数日前に届いたアレクシスからの手紙が置いてある。仕事について書かれた部分は相変わらず短く、エレノアが送った手紙への返事も必要なことから順に書かれていた。
ただ、その最後には明日の出発予定が記されていた。
3日かけて、彼はここまで来る。
王都で別れてから、まだ2週間ほどしか経っていない。それなのに、明日会えると思うだけで落ち着かない自分が少しおかしかった。
5年前は、次に会える日も知らないまま別れた。
今は手紙が届き、会う約束ができる。離れていても、相手がどこで何をしているのかを少しは知ることができる。それだけで、同じ距離でもまるで違った。
エレノアは机の上の手紙を一度手に取り、読み返すことはせずに元の場所へ戻した。
明日になれば、文字ではなく本人に会える。
そのことを考えながら窓の外を見ると、リーヴェの空はもう夕暮れに染まり始めていた。




