31
王都を発って3日目の午後、馬車の窓から見える景色が少しずつ見慣れたものへ変わっていった。
広い街道を外れ、緩やかな丘を越えると、その先にはまだ整備の途中にある道が続いている。ところどころ新しく敷き直された場所もあれば、雨が降ればすぐにぬかるみそうな場所も残っていた。
「もうすぐですね」
隣に座るリナの声に、エレノアは窓の外を見たまま頷いた。
「ええ。やっぱり、この辺りまで来ると分かるわね」
向かいに座っていた父も、読んでいた書類から顔を上げて窓の外を見る。
「もう少しかかると思っていたけれど、今日は順調だったね」
「行きより早く感じます」
「帰りは違って感じるよね」
そうかもしれない。
王都へ向かったときにも通った道なのに、帰りはずいぶん違って見える。初めての王都に浮き足立っていた行きとは違い、今は道の状態や周囲の畑に自然と目が向いた。
王宮で聞いた話を思い出しながら、エレノアは水路の位置や畑の様子を眺める。王都で得た知識だけですぐに何かが変わるわけではないし、土地が違えば同じ方法が使えるとも限らない。それでも、以前ならただ眺めていた場所に、今は気になるところがいくつも見つかった。
「あの辺りの水路、前より水が少なくなっていませんか?」
エレノアが窓の外を指すと、父もそちらへ目を向けた。
「夏の終わりに一度見てもらったんだけれどね。上流の方にも問題があるらしい」
「帰ったら、もう一度見に行ってもいいですか?」
「もちろん。ただし今日は行かないように」
先回りして言われ、エレノアは父を見る。
「さすがに今日は行きませんよ」
「ならいいんだけれど」
どうやら信用されていないらしい。
リナが隣で小さく笑ったので、エレノアは何も言わずに窓の外へ視線を戻した。
やがて遠くにリーヴェの町並みが見えてくると、それまで静かに座っていたエレノアは少しだけ身を乗り出した。
王都で過ごした時間は楽しかった。初めて見るものばかりで、帰るまでにもう一度行きたいと思った場所もいくつもある。それでも、見慣れた景色を目にした瞬間に肩の力が抜けたことで、自分が思っていた以上に故郷を恋しく感じていたのだと気づいた。
「帰ってきたわね」
「はい。やはり落ち着きますね」
リナも嬉しそうに笑った。
馬車が町へ入ると、通りにはいつもの光景があった。荷を運ぶ人や店先で話す人、道端を走っていく子どもたち。修復を終えた建物の隣には、まだ戦争の傷を残した壁もあり、町のすべてが元通りになったわけではない。
それでも、人の声がする。
店が開き、荷車が行き交い、畑へ向かう人がいる。
戦争が終わってから少しずつ戻ってきた日常を眺めているうちに、王都での出来事が急に遠くなったような気がした。
舞踏会も、王宮も、侯爵邸も、今見ている景色とは何もかもが違う。
けれど、あそこで起きたことまでなくなったわけではない。
半年後には、自分はこの土地を離れて王都で暮らすことになる。
そのことを考えると、見慣れた町並みまで少し違って見えた。
屋敷へ到着すると、玄関の前には使用人たちが集まっていた。
馬車が止まり、先に父が降りる。そのあとに続いてエレノアが外へ出ると、前に立っていたマルタがすぐに歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マルタ」
久しぶりに見る顔に、エレノアも自然と笑った。
マルタはエレノアの顔を確かめるようにしばらく見つめ、ほっとしたように表情を緩めた。
「お元気そうで何よりです。初めての王都はいかがでしたか?」
「話したいことが多すぎて、どこから話せばいいか分からないくらいよ」
「それは楽しみです」
そこでマルタは一度言葉を切った。
何かを言いたそうにしているのが分かり、エレノアが首を傾げると、マルタは少し迷ったあとで笑った。
「……いえ。まずは、おめでとうございますと申し上げるべきでしょうか」
何のことかは聞かなくても分かった。
婚約については、帰郷に先立って父から屋敷へ知らせが送られている。
それでも、改めて面と向かって言われると照れくさい。
「ありがとう」
「お知らせをいただいたときは、本当に驚きました」
後ろから降りてきたリナが、それを聞いて笑う。
「私も王都で知ったときは驚きました」
「そうでしょうとも。しかも、お相手がヴァルツェン侯爵様だなんて」
そこまで言ったマルタが、まだ信じられないとでもいうように息をついた。
「それだけでも驚きましたのに、あのアレン様だったと聞いたときには、もう何が何だか……」
懐かしい名前が出て、エレノアも思わず笑ってしまった。
5年前、アレクシスはこの屋敷でアレンと呼ばれていた。
怪我をして療養に来た、身元を詳しく明かさない青年。マルタも何度も顔を合わせているし、エレノアが彼のもとへよく足を運んでいたことも知っている。
「私も王宮で知ったときは驚いたわ」
「お嬢様には、何もお知らせになっていなかったのですね」
「ええ。少し普通の人ではないとは思っていたけれど、まさか侯爵家の方だなんて考えもしなかったもの」
ましてや、5年後に国中に名を知られるようになった人物と同じ人だとは思いもしなかった。
「詳しい話はあとで聞かせてくださいませ。まずはお休みにならないと」
「そうね」
返事をすると、父が満足そうに頷いた。
「マルタからも言ってもらえて助かったよ」
「お父様まで」
「3日も馬車に揺られてきたんだから、今日はゆっくりした方がいい」
否定できず、エレノアは素直に屋敷へ入った。
長旅の荷物を片づけ、ようやく自室へ戻った頃には、外は夕暮れに近づいていた。
懐かしい部屋には、王都へ出発した日のままのものが残っている。机の上に置いた本も、窓辺の小物も何一つ変わっていない。
たった数週間留守にしていただけなのだから当然なのに、エレノア自身がその間にあまりにも多くのことを経験したせいか、少し不思議な気分だった。
ここを出たとき、自分はただ初めての王都を楽しみにしていた。
まさか戻ってくる頃には、結婚する相手まで決まっているとは思わずに。
荷ほどきを手伝っていたリナが衣装をしまうために部屋を出たあと、入れ替わるようにマルタが茶を持ってきた。
「少し休まれてはいかがですか。3日の道中でお疲れでしょう」
「ありがとう。そうするわ」
マルタが茶を注いでくれるのを眺めながら、エレノアはようやく一息ついた。
王都の宿でも毎日茶を飲んでいたのに、自室で飲むだけでなぜか味まで違うように感じる。
「それにしても、本当に驚きました」
「まだ言ってるの?」
「言いますとも。5年前にこの屋敷にいらした方が、ヴァルツェン侯爵様で、しかもお嬢様と婚約なさるなんて、誰が想像できますか」
言われてみれば、その通りだった。
エレノア自身、王宮でアレンの正体を知ったときには言葉を失ったのだから、マルタが簡単に受け入れられないのも無理はない。
「マルタは、アレンのことをよく覚えているのね」
「もちろんです。あれほど目立つ方を忘れる方が難しいですよ」
「目立っていた?」
「目立っておりましたよ。あまりお話しにはならないのに、いらっしゃるだけで何となく気になる方でした。それに――」
そこでマルタが言葉を止めた。
「何?」
「お嬢様が、よく会いに行っておられましたから」
エレノアはカップへ伸ばしかけていた手を止めた。
「……そんなに?」
「かなり」
即答され、思わず目を逸らす。
自分ではそれほど意識していなかったが、思い返せば散歩に誘い、本を持っていき、何かにつけて顔を見に行っていた気がする。
「でも、あの頃は怪我をしていたでしょう。退屈していると思って」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
「マルタ」
咎めるように名前を呼ぶと、マルタは楽しそうに笑った。
それから少しだけ懐かしむような顔になる。
「でも、今になって思えば、アレン様もお嬢様がいらっしゃるときは少し違いましたね」
「そうだった?」
「ええ。私も当時は特に気にしておりませんでしたけれど、お嬢様のお話はよく聞いていらっしゃいました。あまりお話しにならない方でしたから、余計に覚えています」
昨日まで王都で一緒にいたアレクシスの姿と、5年前、この屋敷で過ごしていたアレンの姿が重なる。
自分が話す横で、黙って本を閉じてこちらを見ていた人。話の途中で口を挟むことはほとんどなかったのに、ずっとあとになってから、何気なく話したことまで覚えていたと分かることがあった。
王都の大きな書店へ連れていってくれたのもそうだった。
あの頃から何も変わっていないところもあるのだと思うと、エレノアは少しだけ嬉しくなった。
「半年後には、ご結婚なさるのですね」
マルタの声に、エレノアは顔を上げた。
「ええ。その予定よ」
口に出すたびに、少しずつ現実になっていく。
半年後には、この部屋を出て王都の侯爵邸で暮らすことになる。つい数日前まで訪れていたあの屋敷が、今度は自分の家になる。
「寂しくなりますね」
マルタが穏やかに言った。
エレノアが顔を上げると、彼女はすぐに笑った。
「もちろん、嬉しいことです。でも、それとこれとは別ですから」
「……私も寂しいわ」
王都で侯爵邸を訪れたときには、これから始まる生活のことを考えた。
けれど、新しい家へ行くということは、今まで暮らしてきたこの家を出るということでもある。
分かっていたはずなのに、自分の部屋に戻ってきて初めて、そのことにも実感が湧いた。
「まだ半年あります」
「そうね」
「それまでは、今まで通りです」
その言葉にエレノアも笑った。
♢
翌朝、エレノアはいつもの時間に目を覚ました。
長旅の疲れは少し残っていたが、窓を開けて朝の空気を吸うと、ようやく本当に帰ってきたのだという実感が湧いてくる。
朝食を終えると、王都から持ち帰った書類や自分で取った覚え書きを抱え、父の執務室へ向かった。
「もう動くのかい? 今日は休んでもいいんだよ」
机の向こうから父が言う。
「3日も馬車に座っていたんですもの。もう十分休みました」
「馬車に乗っているのは休養とは言わないと思うけれどね」
そう言いながらも、父はエレノアが持ってきた紙を受け取った。
王宮で話を聞いた専門家から教えられたことを、自分なりにまとめてある。水路の補修をどこから進めるべきか、農地を戻すために何が必要なのか。もちろん、そのままリーヴェに当てはめられるわけではない。
「まずは実際に見て回りたいの。王都で聞いたことと、こちらの状況を比べてみたいわ」
「分かった。では、担当の者にも声をかけておこう」
「お願いします」
「ただ、全部を一度にやろうとはしないようにね。王都で聞いた方法が正しくても、リーヴェで同じようにできるとは限らない」
「分かっています。人手も足りませんし、使えるお金にも限りがありますから」
父は頷き、エレノアのまとめた紙へもう一度目を落とした。
「それでも、こうして別の方法を知る機会ができたのはありがたいね」
「はい。せっかく教えていただいたんですもの。使えるものは試してみたいです」
王都へ行ったことで、リーヴェに足りないものばかりが見えたわけではなかった。
土地の状態も、人の数も、使える資金も違う。それなら、自分たちにできる形へ変えればいい。
話がまとまると、エレノアは少し安心した。
王都でどれほど多くのものを見ても、自分が戻ってくる場所はここだ。
そして、ここにはまだやるべきことが残っている。
それから数日は、以前と変わらない生活が続いた。
エレノアは父や領地の担当者と話し、近くの水路や農地へも足を運んだ。王都で聞いてきた話を伝えては、実際に使えそうなものと難しいものを分けていく。
ある場所では水路そのものより、土砂が溜まって水の流れが悪くなっていることが問題だった。別の場所では人手が足りず、補修したくても作業に回せる者がいない。
紙の上で考えていたときより、実際に歩いてみると問題は複雑だった。
それでも、エレノアは担当者たちの話を聞きながら覚え書きを増やしていった。自分が指示を出せるほど詳しいわけではないからこそ、分からないことはその場で尋ねる。
すぐに成果が出るようなものではない。
けれど、以前よりも話の意味が分かるようになったことだけでも、王都へ行った意味はあったと思えた。
屋敷へ戻ればリナやマルタがいて、食卓では父と話をする。
王都へ行く前と同じ毎日だった。
ただ、ときどき無意識にアレクシスのことを考えてしまう。
仕事は忙しいだろうか。
きちんと食事を取っているだろうか。
王都を発つ朝には、このあと仕事へ戻ると言っていた。あれだけ忙しい人なのだから、自分がいなくなった途端に以前のような生活へ戻っているのではないかと少し気になる。
王都を発つ朝に言われた通り、リーヴェへ到着した翌日には無事に着いたことを知らせる手紙を出していた。
片道だけでも3日かかる。
返事がすぐに届くはずがないことは分かっている。
それでも数日後、侯爵家の紋章が入った封書が届いたと聞いたときには、思っていた以上に急いで玄関へ向かってしまった。
「お嬢様、逃げませんよ」
後ろから来たリナに言われ、エレノアは足を緩める。
「分かっているわ」
「でしたら、もう少しゆっくり歩かれても」
「普通に歩いているでしょう?」
受け取った封書を自室へ持ち帰り、椅子に座ってから封を切った。
アレクシスの文字は、手紙でも変わらず整っていた。
『無事に到着したと知り、安心した
こちらは変わりない。
仕事の調整がついた。
2週間後、リーヴェへ向かう。
必要なものがあれば知らせてほしい』
長い手紙ではなかった。
いかにもアレクシスらしいと思いながら、エレノアはもう一度最初から目を通した。
王都を発つ朝、彼は確かに言っていた。
――そう長くは空けない。
本当に、そのつもりだったらしい。
「2週間後……」
声に出すと、急にその日が近く感じられた。
往復だけでも6日はかかる。
王都での仕事を考えれば、簡単に空けられる日数ではないはずだ。それでも彼は、本当に時間を作ったのだ。
嬉しいと思うのと同時に、無理をしていないだろうかという心配も浮かぶ。
返事には、来るのを楽しみにしていることと一緒に、無理だけはしないでほしいと書こう。
きっと「分かっている」と返されるのだろうけれど。
そう考えると、少しだけ笑ってしまった。
5年前、アレンがこの屋敷を去ったあと、次に会える日など分からなかった。
今度は違う。
会える日が、最初から決まっている。
エレノアは手紙を丁寧に畳み直した。
2週間後。
今度はアレンではなく、アレクシス・フォン・ヴァルツェンとして。そして、自分の婚約者として。
彼がもう一度、リーヴェへやって来る。




