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侯爵邸を訪れた翌日、エレノアはクラリスと約束していた店を訪れていた。
王宮の近くにあるその店は、通りから少し奥まった場所にあり、夜会で顔を合わせたときとは違って人の目を気にせず話せる落ち着いた雰囲気だった。
「ようやくゆっくりお話しできますね」
向かいに座ったクラリスが嬉しそうに言う。
「本当に。王宮では、誰かしらいらっしゃいましたから」
「婚約が広まってからは、どうしても皆さん気になるみたいですから」
「まだ、そんなふうに見られることに慣れません」
苦笑すると、クラリスも笑った。
数日前までは、王都でエレノアの名を知る者などほとんどいなかった。それが今では、ヴァルツェン侯爵の婚約者として知られている。
自分自身は何も変わっていないのに、周囲から向けられる視線だけが急に変わった。
「慣れませんか?」
「まだ少し。でも、ずっと王都にいるわけではありませんから」
「もうすぐお戻りになるんですよね」
クラリスの声が少し残念そうになる。
「明後日です」
「本当に早いですね」
エレノアも同じことを思っていた。
王都へ来たばかりの頃は、初めて見るものばかりで、一日一日が長く感じていた。それなのにアレクシスと再会してからは、驚くほど早く時間が過ぎていった。
舞踏会で再会し、求婚され、父からも認めてもらい、気づけば婚約者として侯爵邸にまで足を運んでいた。
数週間前の自分に話しても、きっと信じないだろう。
「寂しくなります」
クラリスが素直に言った。
エレノアは少し驚いたあと、笑う。
「私もです」
王都へ来る前は、ここで友人ができることなど考えてもいなかった。
クラリスとはまだ知り合って間もない。それでも、話しているうちに昔から知っていたような気楽さを感じるようになっていた。
「手紙、本当に書いてくださいね」
「もちろんです。クラリス様も」
「私の方が先に書くかもしれません」
「では、負けないようにします」
そう言うと、クラリスが楽しそうに笑った。
注文していた菓子が運ばれ、二人でそれを分けながら、王都で見た店や本の話をする。
話題は自然と夜会のことにも移った。
「あの夜、皆さん本当にエレノア様のことを見ていましたね」
「やっぱりそうだったんですね」
「気づいていなかったんですか?」
「気づいてはいました。でも、なるべく見ないようにしていました」
その答えに、クラリスが吹き出す。
「それでいいと思います」
「いいんですか?」
「全部気にしていたら疲れてしまいますもの。それに、ああいう場では本人に直接言わず、遠回しに探る方も多いですから」
エレノアは少し考えた。
「私、気づかないこともありそうです」
「あると思います」
あっさり言われ、エレノアは思わず笑った。
「否定してくださらないんですね」
「その方が楽なこともありますよ」
クラリスは悪びれずに紅茶を飲む。
「でも、本当に困ったときは聞いてください。少しくらいお役にたてるはずです」
「頼りにします」
「ぜひ」
その返事がとても心強かった。
侯爵夫人になるということについて、エレノアにはまだ分からないことが多い。けれど、分からないことをすべて一人で抱える必要はないのだと、昨日セシリアからも言われたばかりだった。
クラリスと話していると、その意味が少し分かる気がする。
「そういえば、侯爵のお母様にはお会いしたんですか?」
「昨日、お会いしました」
「どうでした?」
「とても明るい方でした」
思い出すだけで自然と笑みがこぼれる。
「最初は少し緊張していたんですけれど、すぐに忘れてしまいました」
「それならよかったです」
クラリスは安心したように微笑んだ。
「ヴァルツェン侯爵があまりお話しにならない分、お母様はよくお話しになるんですね」
「本当にそうなんです」
昨日の二人を思い出し、エレノアはまた笑った。
アレクシスが父親似だと聞いた話や、セシリアが一人でよく話していたという昔の家の様子。書庫まで案内してもらったことも話すと、クラリスは楽しそうに聞いてくれた。
「では、次に王都へ来る頃には侯爵邸にもかなり慣れていそうですね」
その言葉に、エレノアは昨日アレクシスから言われたことを思い出した。
――いずれ、ここは君の家にもなる。
思い出すと、今でも少し不思議な気持ちになる。
「……そうなるといいです」
エレノアが答えると、クラリスはそれ以上何も言わず、ただ柔らかく笑った。
その日の茶会は、思っていた以上に長く続いた。
別れ際には、二人とも名残惜しくなって何度も次の約束を確認した。
「手紙、忘れないでくださいね」
「クラリス様もです」
「もちろん。次に王都へいらしたら、今度はもっと色々なところへ行きましょう」
「楽しみにしています」
そうして別れたあと、エレノアは宿へ戻った。
王都で過ごす残りの日々は、それまでよりもさらに早く過ぎていった。
父は帰郷前に済ませておきたい仕事があり、何度か王宮へ足を運んだ。エレノアも持ち帰る本や荷物を整理し、リナと一緒に買い忘れたものがないか確認して回った。
アレクシスとも会った。
長く出かける時間は取れなかったものの、仕事の合間に宿へ立ち寄り、父と今後のことを話したあと、エレノアとも少しだけ時間を過ごした。
婚姻については半年ほど先を目安に進めることで父も納得し、細かなことはこれから両家で相談することになった。
それ以上のことは、今すぐ決めなかった。
半年ある。そう思えば長いようにも感じるのに、アレクシスの言葉を思い出すと少し違って聞こえる。
――5年待った。
その5年に比べれば、半年は確かに短いのかもしれない。
そして、王都を発つ朝が来た。
宿の前には、リーヴェへ戻るための馬車が準備されていた。
荷物はすでに積み込まれ、リナが最後の確認をしており、父も御者と何かを話していた。
エレノアは宿の入口に立ちながら、何となく王都の街並みを眺めた。
初めて来たときとは、まるで違って見える。
来たときには知らなかった人がいる。また会いたいと思う人がいる。
そして、ここにはアレクシスがいる。
馬車の音がして、エレノアが顔を上げた。
見慣れた侯爵家の馬車がこちらへ近づいてくる。
停まると、先にセドリックが降り、そのあとからアレクシスが姿を見せた。
「来てくださったんですか?」
思わずそう言うと、アレクシスは当然のように答えた。
「見送りくらいはする」
「お仕事は?」
「このあと戻る」
やはり完全に休んできたわけではないらしい。
エレノアは少しだけ眉を下げる。
「忙しいのに」
「それでも来たかった」
短い言葉だったが、それだけで何も言えなくなってしまう。
少し離れたところでは、父とセドリックが話していた。
リナも荷物の確認を終えたらしく、馬車のそばへ移動して待ってくれている。
二人きりではない。
それでも、エレノアには周囲の音が少し遠くなったように感じた。
「次にお会いできるのは、いつになりますか?」
「そう長くは空けずにそちらに行く」
「王都を離れられるんですか?」
「調整する」
即答だった。
エレノアは思わず笑ってしまった。
「無理はしないでくださいね」
「分かっている」
その返事をどこまで信じていいのか少し怪しかったが、今はそれ以上言わなかった。
アレクシスはリーヴェへ向かう馬車を一度見てから、エレノアへ視線を戻した。
「道中、無理はするな」
「はい」
「着いたら知らせてくれ」
「もちろんです」
そこまで言ったところで、父から声がかかった。
「エレノア、そろそろ出ようか」
「はい」
返事をしながら、エレノアはもう一度アレクシスを見る。
王都へ来たときには、帰る日にこんなふうに別れを惜しむ人ができているとは思わなかった。
「では、行ってきます」
言ってから、少しだけ可笑しくなった。
帰るのは自分の家なのに、「帰ります」ではなく「行ってきます」と言ってしまった。
けれど、アレクシスは何も訂正しなかった。
「ああ。気をつけて」
一度そう答えたあと、アレクシスはわずかに目を細めた。
「5年前は、俺が見送られる側だったな」
エレノアは目を瞬いた。
あの日、リーヴェの屋敷の前で、遠ざかっていく彼の背中をいつまでも見ていたことを思い出す。
アレクシスも同じことを思い出していたのだろう。
「今度は、俺が見送る番だ」
「……はい」
でも、5年前とは何もかもが違っていた。
あのときは、次に会える日さえ分からなかった。
けれど今は違う。
エレノアは小さく笑ってから、馬車へ向かった。
乗り込む直前に振り返ると、アレクシスはまだ同じ場所に立っていた。
セドリックも少し後ろにいる。
エレノアが小さく手を振ると、アレクシスもほんのわずかに手を上げ返してくれた。
馬車がゆっくりと動き始め、窓の向こうの姿が少しずつ遠ざかっていく。
エレノアはしばらくそのまま後ろを見ていた。
「寂しい?」
向かいから父に尋ねられ、エレノアは一瞬だけ迷った。
けれど、今さら誤魔化す必要もない。
「少しだけ」
父は何も言わず、柔らかく笑った。
やがて王都の門が近づいてくる。
初めて来た王都で、エレノアは思っていた以上に多くのものを得た。
友人ができた。
そして、5年前に別れた人と再び出会い、今度は婚約者として離れることになった。
けれど、5年前とは違う。
次に会えるか分からない別れではない。
また会うことが決まっている。
エレノアは前を向いた。
馬車はそのまま、リーヴェへ向かって走り始めた。




