28
約束していた日の午後、エレノアはヴァルツェン侯爵家の馬車に揺られていた。
迎えに来たのは侯爵家の御者だけで、馬車の中にはエレノア一人だった。
王都の宿から侯爵邸までは、決して遠い距離ではない。それでも、窓の外を流れていく街並みを眺めながら、エレノアは何度か膝の上で指を組み直した。
今日会うのは、アレクシスの母親だ。
婚約した以上、きちんと挨拶をしたいと思ったのは自分なのに、いざその日になると少し緊張する。
どんな人なのだろう。
アレクシスは怖い人ではないと言っていた。
だから心配しているわけではない。
けれど、5年前から自分の知らないアレクシスを知っている人に会うのだと思うと、妙に落ち着かなかった。
やがて馬車の速度が落ち、大きな門をくぐった。
窓の向こうに見えた侯爵邸に、エレノアは思わず姿勢を正す。
広い前庭の奥に建つ屋敷は、王都で見てきたどの邸宅よりも大きく見えた。華美すぎるわけではないのに、建物の規模も、整えられた庭も、そこが長く続く名家であることを十分に伝えている。
馬車が正面玄関の前で止まる。
扉が開き、御者の手を借りて降りたエレノアは、玄関前に並ぶ使用人たちを見て少しだけ息を呑んだ。
その奥に、アレクシスがいた。
「待っていた」
王宮で仕事をしているときの硬い表情ではない。
アレクシスはエレノアの前まで来ると、まず顔を見るようにして尋ねた。
「道中は大丈夫だったか?」
「はい。何事もありませんでした」
「そうか」
それだけ聞くと、アレクシスは僅かに表情を緩めた。
ほんの短い距離なのに、そこまで気にするのだろうかと思ったものの、エレノアは何も言わなかった。
代わりに周囲を見てみると、並んでいる使用人たちは皆きちんと礼を取っている。ただ、思っていたほど張り詰めた雰囲気ではなく、どこか温かく迎えられているように感じた。
「こんなに大勢の方に迎えていただくとは思っていませんでした」
小声で言うと、アレクシスも一度だけ後ろを振り返る。
「俺が並ばせたわけではない」
すぐ近くにいた年配の執事は、何も聞こえなかったような顔をしていた。
けれど、その表情はわずかに柔らかい。
エレノアは思わず笑った。
屋敷へ足を踏み入れると、外から見た以上に広く感じた。
高い天井に長く続く廊下、磨き上げられた床。すれ違う使用人たちはアレクシスへ静かに頭を下げ、そのあとエレノアにも丁寧に礼を取る。
ここでは、これがアレクシスの日常なのだ。
そう思うと、今まで知っていた彼とはまた別の一面を見ているような気がした。
「何か気になるか?」
隣から声をかけられ、エレノアはアレクシスを見る。
「いえ。ただ、アレクシス様はここで暮らしているんだなと思って」
「そうか」
短く答えたあと、アレクシスはエレノアの歩調に合わせるように少し速度を落とした。
案内されたのは、庭に面した明るい客間だった。
すでに茶の用意が整えられている。
執事がアレクシスへ一礼した。
「大奥様は間もなくこちらへお見えになります」
「分かった」
その言葉を聞いた途端、さっきまで少し落ち着いていた緊張が戻ってくる。
それを見抜いたのか、アレクシスがエレノアを見る。
「そんなに緊張しなくていい」
「分かっています。でも、初めてお会いするんですから、少しくらいは緊張します」
「母上は君に会うのを楽しみにしている」
その一言で、少しだけ気持ちが軽くなった。
二人で席に着き、茶が注がれる。
アレクシスは向かいではなく、自然にエレノアの隣へ座った。
もう驚くほどではない。
それでも、侯爵邸の客間でこうして並んで座っていると、これまでより少しだけ婚約という言葉が現実味を持つ気がした。
「王都を発つのは4日後だったな」
「はい。その予定です」
「婚姻のことだが」
アレクシスが静かに切り出した。
エレノアもカップから手を離す。
「半年ほど先でどうだ」
「半年……」
思っていたより具体的な数字だった。
エレノアは少し考えてから、正直に言う。
「思っていたより短いのですね」
アレクシスは一度だけエレノアを見る。
「5年待った」
あまりにも真っ直ぐに言われて、エレノアは言葉を失った。
アレクシスは特に照れた様子もなく続ける。
「俺には、半年でも長いくらいだ」
そんなことを、どうしてこの人は何でもない顔で言えるのだろう。
エレノアは急に熱くなった頬を隠すように、目の前の紅茶へ視線を落とした。
「……半年で、私は大丈夫だと思います」
ようやくそう答えると、アレクシスは小さく頷いた。
「なら、子爵にも改めて話そう」
「はい」
それ以上アレクシスは何も言わなかったけれど、エレノアはしばらく紅茶に手をつけられなかった。
少しして、廊下から明るい女性の声が聞こえてきた。
「もういらしているのでしょう?」
誰かが答える声に続いて、足音が近づいてくる。
エレノアの背筋が自然と伸びた。
アレクシスも立ち上がり、エレノアもそれに続く。
扉が開き入ってきたのは、エレノアが想像していたよりずっと華やかな女性だった。
年齢を重ねていても分かる整った顔立ちに、明るい色の髪。表情は柔らかく、目元には人懐こい笑みが浮かんでいる。
アレクシスとは、雰囲気がまるで違った。
一目見ただけなら、親子だとは気づかないかもしれない。
けれど、この人がアレクシスの母親なのだ。
女性は部屋へ入るなりエレノアを見て、その顔をぱっと明るくした。
「まあ。あなたがエレノアさんね」
思っていた以上に弾んだ声だった。
エレノアは少し驚きながらも、きちんと礼を取る。
「初めまして。エレノア・リーヴェルトと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていいのよ。こちらこそ、会えて嬉しいわ」
母親は本当に嬉しそうだった。
そのまま近くまで来ると、エレノアを上から下まで値踏みするように見るのではなく、ただ顔を見て笑う。
「ずっとお会いしたかったの」
「私に、ですか?」
「もちろんよ」
即答だった。
そのあとで、母親はアレクシスへ視線を移した。
「それで、アレクシス」
「はい、母上」
「あなた、私にお話ししたときは『結婚を考えている方がいる』としか言っていませんでしたよね?」
「はい」
「それが、こちらへ来てみればもう婚約したと聞いたのだけれど」
エレノアは思わずアレクシスを見る。
アレクシスはいつもと変わらない顔をしている。
「返事をいただきましたので」
「そういう話ではないのよ」
母親が呆れたように笑った。
エレノアもつられて笑いそうになる。
すると、母親がすぐにこちらを見る。
「いいのよ。笑ってちょうだい」
「え?」
「私、この子が女性の話をしただけでも驚いたのに、次に聞いたらもう婚約しているんですもの」
「母上」
アレクシスが静かに呼ぶ。
けれど、止める効果はあまりなかった。
「だって本当でしょう? あなたがあまりにも女性に興味を示さないものだから、私はもう一生独身でいるつもりなのかと思っていたのよ」
「そこまでではありません」
「では、今まで誰かのお話をしたことがあった?」
アレクシスは黙った。
その沈黙だけで十分だったらしい。
母親は満足そうにエレノアを見る。
「ね?」
エレノアはどう答えればいいのか分からず、小さく笑った。
けれど、胸の奥が少しだけ温かくなる。
自分が初めてだった。
それを本人からではなく、母親から聞いたことが、何だか嬉しかった。
「この子は父親に似たのよ」
母親が今度は少し懐かしそうに言う。
「顔もそうだけれど、性格まで。必要なことしか話さないところも、決めたら動くのが早いところも」
「母上」
「私は全然違うでしょう?」
そう言って笑う姿を見れば、その言葉には納得できた。
アレクシスは表情も言葉も控えめなのに、母親はよく笑い、よく話す。
それでも二人の間に冷たいものは感じない。
むしろ、アレクシスが母親に対してきちんと敬意を持って接していることがよく分かった。
「さあ、座りましょう。今日はエレノアさんとお話ししたいことがたくさんあるの」
母親が楽しそうに言う。
「アレクシスからはほとんど何も聞けないんですもの」
「必要なことは話しています」
「あなたの『必要なこと』は少なすぎるのよ」
エレノアはとうとう堪えきれず、小さく笑った。
アレクシスは何も言わなかったが、怒っている様子もない。
その顔を見ていると、このやり取りはきっと昔から変わらないのだろうと思う。
緊張して侯爵邸へ向かっていたことが、少し前のことなのに遠く感じた。
アレクシスの母親は、想像していたよりずっと明るく、温かい人だった。




