26
夜会の招待状が届いたのは、その翌日の午後だった。
王都に滞在している間に、もう一度大きな夜会が開かれるらしい。封を開いて内容を確認していたエレノアの横で、リナが「あ」と小さな声を上げた。
「どうしたの?」
「お嬢様、ドレスです。夜会用は一着しかお持ちしていません」
言われて、エレノアもようやく気づいた。
今回の王都滞在は、もともと父の仕事に同行するだけの短い予定だった。夜会があるかもしれないからと、リナが念のため一着だけ持ってきてくれていたものの、短い滞在中に二度も夜会へ出ることまでは想定していなかった。
「同じものでは駄目かしら」
「駄目というわけではありませんけれど……今のお嬢様でしたら、前回と同じドレスというだけでも余計なことを言われるかもしれません」
「そんなところまで見られるの?」
「見ている方は見ています」
エレノアは招待状を手にしたまま、思わずため息をついた。
先日の夜会に出たとき、自分は王都ではほとんど誰にも知られていない子爵令嬢だった。けれど今は違う。アレクシスとの婚約が決まったことで、自分の名前まで一気に知られるようになってしまったらしい。
王宮でクラリスと話したときにも、そのことは十分感じていた。
「では、明日にでも見に行きましょうか。既製のものなら間に合うでしょう?」
「そうですね。少し手を入れるくらいなら――」
そこまで話していたところで、扉が叩かれた。
宿の者が告げた名前を聞いて、エレノアは少し驚いた。
「セドリック様?」
部屋へ入ってきたセドリックは、大きな箱を抱えていた。
「こんにちは、エレノア様。今日は侯爵の代わりに参りました」
「アレクシス様の?」
「ええ。どうしても外せない仕事がありまして。本人が来たがっていたのですが、さすがに抜けるわけにもいかず」
そう言って、セドリックは箱を卓の上へ置いた。
「次の夜会用に、と。すでにご用意があるなら無理にお召しになる必要はないそうですが、もしまだでしたら、ぜひ使ってほしいとのことです」
エレノアとリナは顔を見合わせた。
「……ちょうど、今どうしようかと話していたところなんです」
「それはよかった」
箱を開けると、中には丁寧に畳まれた一着のドレスが入っていた。
華やかではあるものの、必要以上に飾り立てたものではない。細かな刺繍と光沢のある生地が夜の灯りによく映えそうで、色合いもエレノアの髪や瞳に馴染みそうなものが選ばれている。既製品らしく、そのままでは少し調整が必要だったが、丈も肩幅も大きく外れてはいなかった。
「……素敵」
思わず零した声に、リナも頷いた。
箱の中には、短い手紙も添えられている。
『すでに用意があるなら、無理にこれを着る必要はない。
気に入ったなら使ってほしい。
当日は仕事のため、最初からエスコートできそうにない。
申し訳ない。」
簡潔な文章を読み終えて、エレノアは少しだけ眉を下げた。
「謝らなくてもいいのに」
侯爵なのだから、仕事があるのは当然だ。婚約したからといって、いつでも自分を優先してほしいなどとは思っていない。
むしろ、忙しい中でドレスまで用意してくれたことの方が嬉しかった。
「お礼をお伝えください。とても嬉しいです、と」
「承知しました」
セドリックがそう答えたところで、エレノアはふと思い出す。
「ありがとうございます、セドリック様。わざわざ届けてくださって」
すると、セドリックが少し困ったように笑った。
「その『様』は、そろそろ外していただけませんか?」
「え?」
「以前はともかく、今は正式に侯爵の婚約者でいらっしゃいます。近い将来、私の主の奥方になられる方に『セドリック様』と呼ばれるのは、どうにも落ち着きません」
エレノアは目を瞬いた。
「でも、急に呼び捨てにするのも……」
「セドリックで結構です」
即答されてしまった。
エレノアは少し迷ってから、確かめるように口にする。
「……セドリック」
「はい。その方が自然です」
満足そうに頷くので、エレノアは思わず笑った。
「では、これからはそう呼びますね」
「ぜひそうしてください。ついでといってはなんですが、話し方も変えてくださると嬉しいのですが」
ウィンクでもつきそうなくらいの軽い感じで言われた。敬語も無しにしてほしいらしく、そちらも変えることになった。
セドリックを見送って部屋へ戻ると、卓の上には先ほどのドレスがまだ広げられたままだった。
「せっかくですから、一度合わせてみましょうか」
リナに促され、エレノアはドレスを手に取った。
実際に身につけてみると、腰回りには少し余裕があり、裾もわずかに長い。それでも大きく直す必要はなさそうで、リナはエレノアの周りを一周しながら、直す箇所を一つずつ確認していった。
「これなら間に合います。今夜のうちに少し手を入れておきますね」
「ありがとう、リナ」
鏡の前に立つと、箱の中で見たときよりもずっと華やかに見えた。
エレノアは袖口に触れながら、先ほど読んだ手紙を思い出す。忙しい最中に、こうして自分のことまで考えてくれていたらしい。
嬉しいと思う一方で、やはり最後の一文だけは気になった。
「本当に、謝らなくてもいいのに」
小さく呟くと、後ろで裾を確認していたリナが笑った。
「侯爵様は、お嬢様のことになると色々気になってしまうのでしょうね」
「私はお父様と行けるし、アレクシス様はお仕事をしてくださった方がいいのに」
「それでも、気になるものなのでは?」
エレノアにはまだよく分からなかったが、鏡に映るドレスを見ると、自然と頬が緩んだ。
少なくとも今度会ったときには、よく似合っていたと伝えてもらえるくらいには綺麗に着たいと思った。
◇
夜会当日。
支度を終えたエレノアは、鏡の前で一度だけ身体を返した。リナが調整してくれたおかげで、ドレスは既製品とは思えないほど身体に馴染んでいる。
「どう?」
「とてもよくお似合いです。侯爵様にも、きっと喜んでいただけますね」
「そうかしら」
エレノアは鏡の中の自分を見ながら、少しだけ笑った。
その日の夜会に、アレクシスは最初から間に合わないことになっていた。王宮でどうしても外せない仕事があるらしく、終わり次第向かうと聞いている。
けれど、それを残念に思っているわけではなかった。侯爵である以上、仕事があるのは当然だし、婚約したからといって、いつでも必ずアレクシスに付き添ってもらわなければならないとも思っていない。
今夜はもともと、父にエスコートしてもらうつもりだった。
馬車へ乗り込むと、向かいに座った父がエレノアを見て微笑んだ。
「よく似合っているね」
「ありがとうございます」
「侯爵からだそうだね」
「お父様まで知っているんですか?」
「さっきリナから聞いたよ」
「皆さん、話が早いんですね」
少し頬を膨らませると、父は楽しそうに笑った。
王宮へ着き、父に手を取られて会場へ入った瞬間、いくつもの視線がこちらへ向いた。
一斉に、というほど露骨ではない。けれど、誰かがこちらを見て、その隣にいる人へ何かを囁き、また別の人が振り返る。そんな連鎖が、会場のあちこちで起こっているのが分かった。
「あの方でしょう?」
「リーヴェルト子爵令嬢?」
聞こえてくる声に、エレノアは何も気づいていないふりをして歩いた。
「今日はお父様とご一緒なのね」
「ヴァルツェン侯爵は?」
「婚約なさったと聞いたけれど……」
その先ははっきりとは聞こえなかったが、何を言いたいのかは何となく分かる。
婚約したのに、なぜ侯爵がエスコートしていないのか。
そんなことを気にする人がいるらしい。
エレノアは少し不思議に思った。アレクシスには仕事がある。ただそれだけのことなのに、周囲から見れば別の意味にもなるらしい。
「大丈夫かい?」
父が小さな声で尋ねた。
「はい。少し驚いただけです。アレクシス様がお忙しいのは分かっていますし、今日は最初からお父様と来るつもりでしたから」
「ならいい」
父が安心したように笑ったので、エレノアも微笑み返した。
会場へ入ってしばらくすると、父は知人たちとの挨拶に呼ばれることが増えた。エレノアも一緒に紹介されることはあったものの、以前より相手から向けられる関心が明らかに強い。
名前を告げただけで、相手が「ああ」と納得したような顔をする。数日前までは誰も自分を知らなかったはずなのに、今では先に名前を知っている人までいるらしい。
その変化には、まだ少し慣れなかった。
「少し向こうで話してくるよ」
父が声をかけてきた。相手は年配の男性二人で、どうやらリーヴェの復興に関わる話らしい。
「私は大丈夫です。行ってきてください」
「すぐ戻るからね」
父が離れて間もなく、三人ほどの令嬢がこちらへ近づいてきた。
「リーヴェルト子爵令嬢でいらっしゃいますよね?」
「はい。エレノア・リーヴェルトと申します」
「先日はご挨拶できませんでしたので。ヴァルツェン侯爵とは、以前からお知り合いだったそうですね」
「リーヴェでお会いになったのですか?」
やはり、その話になる。
エレノアは少しだけ考えてから答えた。
「はい。5年前にリーヴェでお会いしました。一度離れてからはお会いしていなくて、王都へ来てから再会したんです」
「では、侯爵だとはそのときに?」
「そうです。私も再会するまで知りませんでした」
令嬢たちが顔を見合わせた。
「それでは、婚約のお話も突然だったのですね」
「求婚されることはご存じなかったんですか?」
質問が次々に続き、エレノアはどこまで答えるべきか迷った。
悪意があるわけではない。むしろ皆、純粋に興味があるのだろう。だからこそ断るきっかけも掴みにくい。
「そのあたりは――」
言葉を選ぼうとしたところで、背後から声がした。
「皆さま、一度に聞いたら、エレノア様が困ってしまいますよ」
振り向くと、クラリスが立っていた。その隣には、同じ年頃の青年もいる。
エレノアはすぐに、王宮で話していた婚約者なのだと気づいた。
「クラリス様」
思わず顔が緩む。
「またお会いしましたね。こちら、私の婚約者のユリウス・ローデンです」
紹介された青年は穏やかな表情で一礼した。
「ユリウス・ローデンと申します。ローデン伯爵家の者です」
「エレノア・リーヴェルトです。お会いできて嬉しいです」
「クラリスから、王宮で話しやすい方に出会ったと聞いています」
「ちょっと、ユリウス。何でも話さないでください」
「悪い事ではないじゃないか」
幼い頃からこういうやり取りをしてきたのだろう。クラリスも本気で怒っている様子はなく、ユリウスも慣れたように笑っている。
「二度しかお会いしていないのに、随分楽しそうに話していたじゃないか。もう友人ということでいいんじゃないか?」
「勝手に決めないでください」
そう言いながら、クラリスはエレノアを見る。
「……でも、私はそうだと嬉しいですけれど」
不意に向けられた言葉に、エレノアは少し驚いてから笑った。
「私もです」
「では決まりですね」
結局クラリス自身が一番早く決めてしまい、ユリウスが小さく笑った。
その後、彼は知人に呼ばれると、クラリスへ「すぐ戻る」と告げて少し離れたところへ向かった。
「私も人のことは言えませんけれど、皆さん本当に気になっているんですね」
クラリスが小さく肩をすくめる。
「今日なんて、会場へ入る前からエレノア様のお名前を何度か聞きましたよ」
「そんなにですか?」
「今までほとんど王都にいらっしゃらなかった方が、急にヴァルツェン侯爵の婚約者になったんですもの。仕方ない部分もあると思います」
言い方がさっぱりしていて、嫌味がない。
「私自身はまだ慣れませんけれど」
「周りは待ってくれませんからね」
そこへ、先ほどの令嬢の一人が会場の入口を見ながら呟いた。
「それにしても、侯爵はまだお見えにならないのですね。今日はお父様とご一緒でしたし……本当に正式な婚約なのかしらと思ってしまって」
「先日のことだけが先に広まってしまったのではなくて?」
エレノアが答えようとしたそのとき、会場の入口付近がざわついた。
人の流れが少し変わり、自然に道が空いていく。
エレノアもそちらへ顔を向けると、アレクシスが入ってきているところだった。
数人の男性とともに歩いてくる姿には、まだ仕事の空気が残っている。表情は硬く、声をかけてきた者にも簡潔に返すだけで、立ち止まる時間も短い。
王宮で見た姿と同じだった。
今の彼を見れば、なぜ冷血侯爵などと呼ばれているのかも少し分かる気がする。
クラリスが隣で小さく言った。
「今日も怖いお顔ですね」
「聞こえたらどうするんですか」
「聞こえない距離だから言っています」
エレノアが笑いそうになったところで、アレクシスがこちらを見た。
視線が合った途端、一瞬前まで張りつめていた目元がわずかに緩む。
その変化に気づいたクラリスが、小さく「あ」と声を漏らした。
アレクシスは近くの者へ一言二言告げると、そのままこちらへ向かってきた。
「待たせた」
「お仕事、お疲れさまでした。ちゃんと休めていますか?」
朝からずっと忙しかったと聞いていたせいか、顔を見れば無事に仕事を終えられたことの方が気になった。
「大丈夫だ。君こそ、随分囲まれていたな」
アレクシスはそう言って、エレノアの周囲へ視線を向けた。
「皆さん、少し気になっていたみたいです」
クラリスが横から答える。
「侯爵とエレノア様の婚約が、本当に正式に決まっているのかどうか」
数人の令嬢が少し気まずそうに姿勢を正したが、アレクシスは特に気にした様子もない。
「決まっている。今日は仕事で遅れただけだ」
短く言い切ると、当然のようにエレノアの隣へ立った。
それだけで、先ほどまで聞こえていた囁き声はすっかり消えてしまった。
エレノアは少し気恥ずかしくなりながらも、ふと彼が自分の姿を見ていることに気づいた。
「ドレス、合ったみたいだな」
「あ、ありがとうございました。ちょうど困っていたところだったんです」
「ならよかった」
「とても気に入りました。セドリックが届けてくださったとき、本当に驚きましたけれど」
それを聞いたアレクシスが、ほんの少しだけ眉を上げた。
「セドリック?」
「もう『様』はつけなくていいと言われたんです。近い将来、主の奥方になる人間に敬称をつけられるのは落ち着かない、と」
「そうか」
短い返事だったが、どこか満足そうに見えた。
「手紙もありがとうございました。忙しいのに、私のことまで気にかけてくださって嬉しかったです」
「俺がしたかっただけだ」
あっさりと返され、エレノアは少し笑った。
その頃には、先ほどまでエレノアを囲んでいた令嬢たちも少しずつ別の場所へ移っていた。ユリウスも戻ってきて、アレクシスへ挨拶をしている。
ようやく肩の力を抜いたエレノアを見て、アレクシスが近くを通った給仕を呼び止めた。
「何か飲むか?」
「では、お水をいただきます」
アレクシスは給仕の盆からグラスを一つ取り、そのままエレノアへ差し出した。
「わざわざ取っていただいて、ありがとうございます。」
「俺がやりたいだけだ」
あまりにも自然に言われて、エレノアは一瞬返事に困った。
隣を見ると、クラリスが何でもない顔で自分のグラスへ口をつけている。けれど、明らかに少し面白がっているのが分かる。
エレノアは気づかないふりをして水を飲んだ。
そこで、アレクシスの手には何もないことに気づいた。
「アレクシス様も、何か飲んでください。朝からお仕事だったのでしょう?」
「俺は――」
「今度は私が言う番です」
そう言って、エレノアは近くの給仕から飲み物を一つ取って差し出した。
アレクシスは一瞬だけ黙ったあと、素直に受け取る。
「……分かった」
それだけ言ってグラスへ口をつけたので、エレノアも満足して自分の水をもう一口飲んだ。
「なるほど」
突然、クラリスが呟いた。
二人そろってそちらを見る。
「何が?」
アレクシスが聞くと、クラリスは平然と首を横に振った。
「いいえ。何でもありません」
そう言いながらクラリスの口元は少しだけ上がっている。
少しして、アレクシスは仕事関係らしい人物から声をかけられた。
すぐにそちらへ行くのかと思ったが、彼はまずエレノアへ顔を向ける。
「少し話してくる」
「はい。行ってきてください。私はクラリス様とおりますから」
「分かった」
アレクシスはそれだけ言うと、クラリスとユリウスへ軽く会釈してから離れていった。
数歩進んだところで、呼び止めた相手へ向ける表情はもう先ほどまでのものに戻っている。声も低く、必要なことしか話していない。
エレノアはその横顔を眺めてた。
「本当に違いますね」
クラリスがぽつりと言った。
「何がですか?」
「侯爵です。エレノア様と話しているときと、今と」
王宮で初めて仕事中の彼を見たときにも思った。けれど今夜は、それをもっとはっきり感じる。
「5年前は、私の方がずっと話していたんです。アレクシス様は今よりもっと口数が少なくて」
「そうなんですね。少し想像できます」
「でも最近は、よく話してくださるようになりました」
クラリスは少し意外そうにアレクシスの方を見る。
「先ほどまでの侯爵を見ていると、今もそれほどお話しになる方には見えませんけれど」
言われてみれば、そうかもしれない。
エレノアは少し離れたところにいるアレクシスを見た。
仕事の話をしている彼は必要なことだけを簡潔に告げ、それ以上の言葉をほとんど重ねていない。
「……そうですね」
何となく不思議に思いながら答えると、クラリスはそれ以上何も言わず、少しだけ笑った。
話が終われば、きっとまたこちらへ戻ってくる。
そう思うと、先ほどまで自分へ向けられていた好奇の視線も、もうそれほど気にならなかった。




