25
翌朝、エレノアは父とともに王宮へ向かっていた。
王都へ来てから、父が王宮へ出向くのはこれが初めてではない。リーヴェの復興について報告し、必要な支援や今後の整備について話し合うため、何度か足を運んでいる。
けれど、エレノアが同行するのは初めてだった。
「本当に一緒に来るとは思わなかったよ」
向かいに座る父が、少しだけ可笑しそうに言った。
「だって、聞いてみたいことがあったんですもの」
リーヴェでは、街道や橋の修復が優先されてきた。そのおかげで以前より人や物は動きやすくなったものの、農地や水路の整備にはまだ手が回っていないところも多い。
これまでエレノアも父や領民たちと一緒にできることをしてきたが、分からないことも多かった。
王宮には各地の領地運営や農地整備に詳しい者も出入りしていると聞き、父が話を聞く予定だと知って、自分も同行したいと頼んだのだ。
「邪魔はしませんから」
「それは心配していないよ。むしろ、私より細かいところまで質問しそうだと思っている」
「そのつもりです」
迷いなく答えると、父は笑った。
王宮へ着くと、父とともに案内された部屋で、リーヴェの現状についていくつか話を聞いた。
特にエレノアが気になっていたのは、水路の修復だった。
雨の少ない時期には水が十分に届かない畑もあり、今年だけではなく、この先も安定して作物を育てていくにはどうすればいいのか。
専門の官吏に尋ねると、土地の傾斜や水源の位置によって方法が変わるらしく、過去に似た状況だった領地の例まで教えてくれた。
エレノアは持ってきた紙に何度も書き込みながら話を聞いていた。
「そこまで熱心に聞いてくださるとは思いませんでした」
そう言われ、エレノアは顔を上げた。
「戻ったら、お父様だけでなく実際に農地を見ている方たちにも話したいんです。私が全部理解できるわけではありませんけれど、知らないままよりはいいですから」
官吏は少し驚いたように目を瞬かせたあと、穏やかに笑った。
話が終わる頃には、父は別の担当者との面会を控えていた。
今度はエレノアが同席する必要のない内容らしく、しばらく待っていてほしいと言われ,案内されたのは、来客が休憩に使う小さな談話室だった。
窓際には椅子と丸い卓がいくつか並び、そのうちの一つには、すでに若い令嬢が座っていた。
淡い青のドレスを着たその女性は、手元の本から顔を上げると、エレノアと目が合った。
「こちら、空いていますよ」
自然な調子で声をかけられ、エレノアは少し驚きながらも微笑んだ。
「ありがとうございます」
向かいの席に腰を下ろすと、女性は閉じた本を卓の端に置いた。
「どなたかをお待ちですか?」
「父を待っています。王宮で少し用事がありまして」
「私も似たようなものです。婚約者が呼ばれていて、終わるまで待っているところなんです」
そう言ってから、彼女は思い出したように姿勢を正した。
「申し遅れました。クラリス・アルベールと申します」
アルベール伯爵家の名には、エレノアも聞き覚えがあった。
「エレノア・リーヴェルトです」
「リーヴェルト……リーヴェの?」
「はい」
クラリスは目を少し大きくしたものの、それ以上大げさな反応はしなかった。
「戦争の影響が大きかったところですよね。今は復興を?」
「まだ途中です。でも、少しずつ」
「それで王宮へ?」
「父についてきました。農地や水路について、少し聞いてみたいことがあって」
「それは随分まじめな用事ですね」
からかうような口調ではなかった。ただ率直にそう思ったらしい。
エレノアが笑うと、クラリスもつられるように笑った。
話し始めてみると、クラリスは想像していた伯爵令嬢とは少し違った。
言葉遣いはきちんとしているのに、妙に飾ったところがない。こちらが気を遣いすぎる前に、さらりと話題を変えてくれるので話しやすかった。
王都の店の話から、最近読んだ本の話になり、エレノアが大きな書店へ行ったことを話すと、クラリスも何度か足を運んだことがあるらしい。
「奥の方、気を抜くと時間を忘れません?」
「分かります。私も気づいたらずいぶん長くいてしまって」
「婚約者と行くと、途中から完全に諦めた顔をされます」
「お待ちになるんですか?」
「待ってはくれます。でも、だいたい入口近くにいます」
その言い方がおかしくて、エレノアは思わず笑ってしまった。
しばらく話しているうちに、廊下の向こうが少し騒がしくなり、何人かの官吏らしい男性たちが歩いてくるのが見えた。
その中央にいた人物を見て、エレノアはすぐに気づいた。
アレクシスだ。
けれど、いつもエレノアと話しているときとは雰囲気が違う。
隣を歩く男が何かを説明すると、アレクシスは書類に視線を落としたまま足を止めた。
「これで報告を上げるつもりか」
低い声に、男の表情が強張る。
「申し訳ございません。ですが、現時点では西側からの報告が――」
「言い訳は聞いていない」
アレクシスは書類を閉じ、そのまま男へ返した。
「届いている情報だけでも判断できることはある。足りないなら取りに行け。報告が来るまで待っていたでは遅い」
「……承知いたしました」
「今日中にやり直せ。次も同じものを持ってくるなら、担当を替える」
周囲にいた者たちの空気が一気に張り詰める。
声を荒らげているわけではない。それでも反論を許さない冷たさがあり、誰も余計な口を挟もうとはしなかった。
表情もほとんど動かない。
エレノアが知っているアレクシスとは、やはり少し違う。
隣にいたクラリスも同じ方向を見ていた。
「あの方がヴァルツェン侯爵ですよ」
小さな声で言われ、エレノアは思わずクラリスを見た。
「ご存じですか?」
「もちろんです。王都で知らない人の方が少ないと思いますよ」
クラリスはそう言ってから、再びアレクシスの方へ目を向けた。
「やっぱり少し近寄りがたいですね」
エレノアは返事に困った。
自分といるときの彼を思えば、まったく同じ感想にはならない。
「そういえば、侯爵はご婚約が決まったそうですね」
突然続いた言葉に、今度こそエレノアは固まった。
クラリスはその反応に気づかず話を続ける。
「私、あの夜会は風邪を引いて欠席していたんです。翌日になったら皆その話ばかりで、何があったのかと思いました」
「……そうだったんですね」
「人前で膝をついて求婚なさったとか。あのヴァルツェン侯爵が、ですよ」
エレノアは何とも言えない気持ちで膝の上の手を重ねた。
まさか本人を目の前にしているとは思っていないらしい。
「お相手は確か、子爵家のご令嬢だと聞きましたけれど」
「ええ……」
「どんな方なんでしょうね」
どう答えるべきか迷った、そのときだった。
廊下を歩いていたアレクシスが、ふとこちらを向いた。
視線が合う。
それまでほとんど表情を変えていなかった彼の目元が、わずかに緩んだ。
「エレノア?」
隣にいた官吏たちが一斉にこちらに視線を向けた。
クラリスもアレクシスを見て、それからエレノアへ視線を戻した。
「……え?」
アレクシスは部下たちへ短く何かを告げると、こちらへ歩いてきた。数人の官吏はその場に残り、先ほど書類を返された男も緊張した顔のまま少し離れたところで待っている。
仕事の途中なのだろう。
それでも、エレノアの前まで来たアレクシスの声からは、先ほどまでの冷たさが消えていた。
「どうしてここに?」
「お父様についてきたんです。リーヴェのことで、少し伺いたいことがあって」
「もう終わったのか?」
「私は終わりました。今は父を待っています」
「そうか」
アレクシスは一度、エレノアの手元にある書き込みだらけの紙へ目を落とした。
「随分聞いてきたみたいだな」
「気になることが多くて。戻ったら皆さんにも話したいと思っています」
「君らしいな」
ほんの少しだけ表情を緩めてそう言うアレクシスを見て、エレノアは先ほどまでの姿を思い返した。
同じ人なのに、やはり随分と違う。
そのとき、隣から戸惑った声がした。
「……エレノア様」
振り向くと、クラリスがアレクシスとエレノアを交互に見ている。
「ヴァルツェン侯爵と、お知り合いだったんですか?」
「ええ、その……」
どこから説明すればいいのか迷い、エレノアは一瞬言葉に詰まった。
アレクシスもクラリスへ目を向ける。
「知り合いか?」
「はい。先ほどこちらでお会いして、少しお話をしていたんです。クラリス・アルベール様です」
「アルベール伯爵家の」
アレクシスが短く答えると、クラリスは立ち上がり、きちんと礼を取った。
「クラリス・アルベールと申します。お目にかかれて光栄です、侯爵閣下」
「ああ」
先ほどエレノアへ向けていた柔らかさが薄れ、返事も簡潔なものへ戻る。
その変化を目の前で見たクラリスが、わずかに目を瞬いた。
そして再びエレノアを見ると、視線が二人の間を往復した。
「……もしかして」
その一言で、何を聞かれようとしているのか分かった。
エレノアはさっきまでクラリスと交わしていた会話を思い出し、急に落ち着かない気持ちになった。
人前で膝をついて求婚したらしい。
相手はどんな令嬢なのだろう。
目の前でそう聞かれながら、結局何も言えずにいたのだ。
今さら自分がその相手だと告げるのは、なんだか妙に気恥ずかしい。
「……はい。その、先ほどお話しされていた相手は、私です」
少しだけ声を小さくして答えると、クラリスは目を見開いたまま動かなかった。
数秒たってから、ようやく納得したように頷く。
「なるほど。そういうことでしたか」
「最初にお伝えすればよかったんですけれど……どう言えばいいのか分からなくなってしまって」
「いえ、こちらこそ。まさかご本人に向かって、どんな方なんでしょうね、なんて聞いていたとは思わなくて」
クラリスが少し困ったように笑う。
「……ちょっと恥ずかしいですね」
「私もです」
エレノアも笑ってしまった。
その様子を見ていたアレクシスが、わずかに眉を寄せる。
「何の話だ?」
「アレクシス様の婚約者がどんな方なのか、というお話です」
エレノアが答えると、アレクシスは一瞬黙ったあと、クラリスを見る。
「それで?」
「まさか目の前にいらっしゃるとは思いませんでした」
「そうか」
それだけだった。
あまりにも気にしていない返事に、今度はクラリスが少し笑った。
それから改めてアレクシスを見て、ほんの少し首を傾げる。
「でも、今のお顔は初めて見ました」
エレノアもつられてアレクシスを見る。
「顔?」
「ええ。さっきまで、ずいぶん近寄りがたいお顔をなさっていましたから」
あまりにさらりと言うので、エレノアは思わず笑ってしまった。
アレクシスはクラリスを見たものの、特に気を悪くした様子はない。
ただ、そのあとエレノアへ戻した視線だけは、やはり先ほどまでとは違っていた。
そのことに気づいたのは、どうやらエレノアだけではなかったらしい。
隣でクラリスが、少し面白そうに二人を見比べていた。




