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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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正式な話し合いを終えたあとも、アレクシスたちはしばらく応接室に残っていた。


先ほどまで結婚やリーヴェルト家の後継について話していたとは思えないほど、部屋の空気はすっかり穏やかなものに戻っている。

父が紅茶へ手を伸ばしながら、ふとアレクシスへ視線を向けた。


「このあと、何かご予定はございますか?」


「今日はもう特にない」


「それでしたら、せっかくですしエレノアと少し出かけてはいかがですか。王都へ来てから、まだゆっくりお話しする時間もなかったでしょう」


突然話を振られ、エレノアは父を見る。


「お父様?」


「何だい?」


「そんなに急に……」


「嫌なのかい?」


「嫌ではありませんけど…」


嫌なはずがない。

ただ、昨日までは夜会という大勢の人がいる場所で会い、その前は5年もの間離れていた相手だ。正式に婚約を認めてもらった直後に、いきなり2人で出かけることになるとは思っていなかった。

父はエレノアの表情を見て楽しそうに笑った。


「では、決まりだね」


「お父様が決めるんですか?」


「侯爵も嫌ではありませんよね?」


「もちろん」


アレクシスが迷いなく答える。

その早さに、エレノアは思わず隣を見た。


「どこか行きたいところはあるか?」


そう尋ねられ、エレノアは少し考えた。


王都へ来てからすでにいくつかの通りを歩き、気になった店にも入った。まだ見たい場所はたくさんあるけれど、改めて一つだけと言われるとすぐには思いつかない。


すると、アレクシスの方から尋ねた。


「書店にはもう行ったのか?」


エレノアは目を瞬いた。


「はい。王都に着いた翌日に行きました」


アレクシスがわずかに黙る。

その反応が妙で、エレノアは首を傾げた。


「どうしました?」


「……先に行ったのか」


少しだけ残念そうに聞こえ、エレノアは思わず笑ってしまった。


「だって、アレクシス様がアレン様だなんて知らなかったんですもの」


「それはそうだが」


「それに、ずっと行ってみたかったんです。聞いていた通り、とても大きな書店でした」


楽しそうに話すエレノアを見て、アレクシスの表情が少し和らぐ。


「気に入ったか?」


「もちろんです。見たことのない本がたくさんありましたし、リーヴェで役に立ちそうな本も見つけました。物語の本もたくさんあって、一日では全然見きれなかったくらいです」


そこまで話してから、エレノアはふと5年前のことを思い出した。

あの頃、王都へ行ったことのない自分に、アレンが街の話をしてくれた。

大きな書店があることも、そのとき初めて知った。そして、いつか王都へ来ることがあれば、自分が案内すると言ってくれたのだ。

エレノアが黙ったことに気づいたのか、アレクシスが顔を覗き込む。


「どうした?」


「いえ……」


エレノアは少し迷ってから、ゆっくり笑った。


「王都を案内してくださるっていう約束、覚えていてくださったんですね」


アレクシスは一瞬だけ目を細めた。


「忘れるわけがない」


あまりにも自然に返され、胸の奥がじんわりと温かくなる。

エレノアにとっては、5年間ずっと覚えていた約束だった。

けれど、アレクシスにとっても同じだったのだと思うと、それだけで嬉しかった。


「では、もう一度行こう」


「書店へですか?」


「ああ。今度は俺が案内する」


エレノアは少し笑った。


「もう場所は知っていますよ?」


「知っていても構わない」


「そういうものですか?」


「約束だからな」


その言い方が可笑しくて、エレノアはまた笑った。


「それなら、お願いします」


父は2人のやり取りを眺めながら、満足そうに頷いた。


「行っておいで。夕食までに戻れば十分だよ」


「ありがとうございます、お父様」


アレクシスも父へ一礼し、そのまま立ち上がった。

後ろに控えていたセドリックも静かに動く。





少しして、宿の前にはヴァルツェン侯爵家の馬車が用意された。


前回はリナと一緒に王都の街並みそのものを楽しみながら歩いたが、今日は目的地が決まっている。わざわざ遠回りをする必要もなく、エレノアはアレクシスとともに馬車へ乗り込んだ。


先に腰を下ろしたエレノアは、当然のようにアレクシスが向かいへ座るものだと思っていた。

5年前、一緒に馬車へ乗ったときもそうだった。


けれど、あとから乗り込んできたアレクシスは迷う様子もなく、そのままエレノアの隣へ腰を下ろしたので思わず隣を見てしまった。


「……こちらに座るんですね」


「嫌か?」


「いいえ。少し驚いただけです」


…嫌ではない。

ただ、向かい合っていた頃よりもずっと近い。少し馬車が揺れれば肩が触れそうな距離にアレクシスがいるだけで、昨日までとは何かが変わったのだと改めて感じる。

正式に婚約したのだから、これくらいの距離を気にする方がおかしいのかもしれない。

それでも、まだ慣れないものは慣れない。

馬車が動き始めると、エレノアは落ち着かない気持ちをごまかすように窓の外へ視線を向けた。


「前に来たときは歩いたので、随分遠く感じました」


「街を見ながら歩けば時間もかかるだろう」


「本当に何度も立ち止まってしまって。珍しいものばかりだったんです」


「想像できる」


「どういう意味です?」


「君は昔から、気になるものを見つけるとすぐにそちらへ行くだろう」


エレノアは少し考えた。

否定しようと思ったものの、5年前にも散歩へ出るたびに何かを見つけては足を止めていた気がする。


「……そんなに変わっていませんか?」


「変わっていないところも多い」


「アレクシス様は変わりました」


「どこが?」


「前よりずっとよく話します」


アレクシスは少しだけ目を細めた。


「そうか?」


「はい。少なくとも、5年前よりは」


昔のアレンは、必要以上のことを口にしない人だった。エレノアが一人で話し続けても嫌な顔はしなかったけれど、自分から長く話すことはほとんどなかった。

今も多弁というほどではない。

それでも、こうして2人でいると、以前よりずっと自然に言葉が返ってくる。


「昔は私ばかり話していましたよね」


「話すのが嫌だったわけではない」


「それは分かっています。でも、今の方が少し楽しいです」


そう言うと、アレクシスがこちらを見る。


「少し?」


「……かなり」


言い直すと、彼の口元がわずかに緩んだ。

その程度の変化なのに、今では何となく分かる。

機嫌がいいのだろう。

エレノアもつられて笑った。


こうしていると、侯爵家や社交界のことを考えていたときの緊張が少し遠ざかる。

目の前にいるのは、王都中で名を知られているヴァルツェン侯爵でありながら、やはりエレノアが5年前に知った人でもあった。


やがて馬車が停まり、外から扉が開かれた。

降りた先には、数日前に訪れたばかりの大きな書店がある。


「やっぱりここだったのね」


「他にも書店はあるが、君に話したのはここだ」


「そうだったんですね」


あのときは、もしかすると別の店なのかもしれないと思っていた。

本当に5年前に聞いた場所へ来ていたのだと分かり、エレノアは改めて建物を見上げると、アレクシスが先に扉を開けてくれた。


「行こう」


「はい」


中へ入ると、数日前と変わらず多くの本が並んでいた。

一度来たばかりなのに、それでも本棚を見ると自然に気持ちが弾む。


「この前は、農業や街道についての本を何冊か買ったんです」


「君らしいな」


「物語も買いましたよ」


「それも君らしい」


「何でもそう言えばいいと思っていません?」


「事実だ」


エレノアは少しだけ頬を膨らませた。

そんな様子を見ながら、アレクシスは店の奥へ進んでいく。


「こっちだ」


「何があるんです?」


「昔、君に話した棚」


ついていくと、奥には物語や紀行文を中心に集めた一角があった。

前回来たときにも近くまでは見たものの、すべてを見る時間はなかった場所だ。

エレノアはすぐに棚へ近づいた。


「こんなところまで覚えていたんですか?」


「君が好きそうだと思ったからな」


アレクシスは平然と言う。

それなのに、エレノアだけが少し照れてしまう。


「5年前から、そんなことを考えていたんですね」


「悪いか?」


「いいえ。嬉しいです」


素直に答えると、アレクシスは一瞬だけ黙った。

その反応が少し珍しくて、エレノアは笑う。


「昨日から私ばかり驚かされていましたけど、アレクシス様も意外と驚くんですね」


「何の話だ」


「秘密です」


「昨日のことなら覚えているぞ」


何を指しているのか分かった瞬間、エレノアの頬が熱くなった。


「それは忘れてくださいと言ったでしょう」


「無理だと言ったはずだ」


「もう、その話はしません」


エレノアは逃げるように隣の本棚へ移った。

背後から、小さく笑う気配がするのが振り返らなくても分かった。


きっと、また少し楽しそうな顔をしている。

それが悔しいような、嬉しいような気持ちになりながら、エレノアは目の前の本へ手を伸ばした。


数日前に一人で来たときとは、同じ書店なのに不思議なくらい違って見えた。

あのときは叶わなかったと思っていた約束が、5年遅れてようやく本当になったのだ。

今度は隣に、約束をした本人がいる。


エレノアは手にした本を開きながら、自然と笑みをこぼした。










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