23
翌日の午後、宿の応接室には朝から少し落ち着かない空気が漂っていた。
昨夜の夜会から戻ったあと、エレノアは寝付けないかと思ったが、思ったより疲れていたようでぐっすりと眠れてしまった。朝になればいつも通り支度をし、父と朝食を取り、昼前には少しだけ本を読んで過ごしたのだが、午後になるにつれてどうしても時計が気になってしまう。
アレクシスが正式に訪ねてくると聞いていたからだ。
夜会ではあれほど大胆に求婚されたというのに、今日は改めて父へ結婚の許しを求めるために来るらしい。
その事実を考えるだけで、昨夜の出来事が急に現実味を帯びてくる。
「お嬢様、少し緊張していらっしゃいます?」
隣で茶器を整えていたリナに尋ねられ、エレノアは視線を上げた。
「少しだけ。でも、昨日の夜よりは落ち着いているわ」
「それならよかったです」
リナは柔らかく笑いながら、テーブルの上をもう一度確認する。
昨夜の話を聞いたあとも、リナは驚きながら喜んでくれた。今朝になってからはいつも通りだったが、エレノアを見るたびにどこか嬉しそうなのが分かる。
「そんなに笑わないで」
「笑っていました?」
「ずっと口元が笑ってるわ」
「お嬢様が嬉しそうなので、つられてしまうんです」
そう言われると何も返せず、エレノアも結局笑ってしまった。
そのとき、廊下から足音が聞こえ、ほどなくして父が部屋へ入ってきた。
「もうすぐ着くそうだよ」
「そうですか」
エレノアが答えると、父は向かいへ腰を下ろしながら、どこか楽しそうに娘を見る。
「昨日はあれだけ堂々と返事をしたのに、今日は緊張するんだね」
「堂々とはしていません」
「そうだったかな」
「お父様」
父は笑いながらも、それ以上からかうことはしなかった。
少しして、宿の者が来客を告げる。
エレノアは無意識に背筋を伸ばした。
扉が開き、先に入ってきたのはアレクシスだった。その後ろには、昨夜挨拶をしたばかりのセドリックも控えている。
扉が開き、先に入ってきたのはアレクシスだった。その後ろには、昨夜挨拶をしたばかりのセドリックも控えている。
「本日はお時間をいただき、感謝する」
アレクシスが父へ挨拶すると、父も立ち上がって応じた。
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。どうぞ、お掛けください」
父に続いてエレノアも挨拶をすると、アレクシスは彼女へ視線を向けた。
「昨日はよく眠れたか?」
「はい、ゆっくり休めました」
「そうか」
その目元がわずかに緩んだのを見て、エレノアは昨夜のことを思い出し、頬が熱くなるのを感じた。
そこで、アレクシスの後ろに控えていたセドリックが一歩進み出た。
「子爵閣下、改めまして、セドリックと申します。本日は侯爵に同行させていただきました」
父が挨拶を返すと、セドリックはエレノアにも丁寧に頭を下げた。
「エレノア様も、昨日ぶりでございます」
「はい。昨日はご挨拶ありがとうございました」
「実は今朝から、侯爵はずいぶん早くお動きになっておりまして」
「セドリック」
すぐに制する声が飛ぶ。
エレノアは思わずアレクシスを見る。
「早い時間から?」
「少し用事があっただけだ」
あまりにも普通に答えるので、余計に気になった。
父も何か察したのか、アレクシスへ席を勧めながら尋ねる。
「陛下には、もうお話を?」
「ああ。今朝、報告してきた」
エレノアは思わず顔を上げた。
「……もうですか?」
アレクシスがこちらを見る。
「昨日、返事をもらったからな」
「昨日の今日ですよ?」
「だから今日行った」
当然のように返され、エレノアはしばらく言葉を失った。
セドリックはそのままアレクシスの後ろへ控えたが、どこか「やはり驚きますよね」とでも言いたげな表情をしていた。
父も少し笑っていた。
「では、陛下もご存じということですね」
「ああ。婚姻を進めることについては問題ないと言っていただいた」
「それなら安心いたしました」
父はそこで一度言葉を切り、改めてアレクシスを見る。
先ほどまでの穏やかな表情は変わらないが、今度は父親として話すつもりなのだとエレノアにも分かった。
「それで、本日は改めてお話をしに来てくださったということですね」
アレクシスも姿勢を整える。
「昨日はああいう形になってしまったが、本来なら先に正式に伺うべきだった。改めて、エレノアとの結婚を認めていただきたい」
父はすぐには答えず、隣に座るエレノアへ視線を向けた。
「エレノア」
「はい」
「昨日の返事は、今も変わっていないね?」
突然改めて確認され、エレノアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
けれど、答えに迷いはなかった。
「はい。変わっていません」
父はその返事を聞くと、安心したように微笑んだ。
「それなら、私から反対する理由はございません」
「お父様……」
「お前が自分で選んだ相手なら、それが一番だよ」
その言葉はいつもの父らしく、静かで優しかった。
「もちろん、親として心配がないわけではありませんが」
父はそう言ってから、今度はアレクシスへ目を向ける。
「ただ、娘が望んでいるのであれば、私はその気持ちを尊重したいと思っています。どうかよろしくお願いいたします」
「必ず大切にする」
アレクシスは迷わず答えた。
それを聞いていたエレノアは、少しだけ視線を落とした。
昨日から何度も聞いているはずなのに、こうして父の前で改めて言われると、また胸が落ち着かなくなる。
話がひと段落したところで、父が紅茶へ手を伸ばした。
「ただ、一つだけ考えておかなければならないことがございます」
「リーヴェルト家のことだな」
アレクシスがすぐに答える。
父は頷いた。
「エレノアは一人娘です。このまま侯爵家へ嫁げば、いずれリーヴェルト家の後継について考えなければなりません」
それはエレノアも分かっていた。
父が元気なうちは問題ない。それでも、いつかは爵位も領地も誰かが継がなければならない。昨夜から自分の結婚のことばかり考えていたせいで、そこまで現実的な話にはまだ頭が回っていなかった。
アレクシスは少し考えてから口を開いた。
「そのことは俺も考えている」
父が静かに続きを待つ。
「だが、それを理由にエレノアとの婚姻を諦めるつもりはない」
エレノアは思わずアレクシスを見た。
彼はいつものように落ち着いた表情をしていたが、その言葉には迷いがなかった。
「リーヴェルト家をなくす必要もない。方法はいくつか考えられるはずだし、それについては今後、子爵とエレノアの意向も聞きながら決めたいと思っている」
父の表情が少し和らいだ。
「そう仰っていただけるのであれば、私も安心いたしました」
「エレノアにとって大切な家だということは分かっている。俺の都合だけで決めるつもりはない」
その言葉を聞いて、エレノアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
ヴァルツェン侯爵家へ嫁ぐということばかりを考えていたけれど、アレクシスはその先にあるリーヴェルト家のことまで、最初から切り離して考えてはいなかったのだ。
父もゆっくりと頷く。
「ありがとうございます。リーヴェはまだ復興の途中でもありますし、私としても簡単に手放したいとは思っておりません。後継については、いずれきちんと考えなければならないでしょう」
「ああ。その時に改めて話せばいい」
「はい。今すぐ結論を出す必要はないと、私も思っております」
そこでようやく、エレノアも少し肩の力を抜いた。
「私、まだそこまで考えられていませんでした」
素直に言うと、父が穏やかに笑った。
「昨日結婚を決めたばかりなんだから、当然だよ」
「お父様は考えていらしたんですか?」
「一人娘だからね。いつかは考えなければならないことだとは思っていたよ」
エレノアは今度はアレクシスを見る。
「アレクシス様も?」
「考えていた」
「やっぱり早いです」
思わずそう言うと、アレクシスの目元がわずかに緩む。
「必要なことだからな」
「私は昨日のことを考えるだけで精いっぱいだったんですけど」
「それは俺も考えていた」
「同時にですか?」
「ああ」
エレノアは思わずため息をついた。
どうやら、この人についていくには自分も少しずつ慣れていかなければならないらしい。
その後は、婚姻について今後必要になる手続きや、両家で改めて話し合う機会を設けることなどが簡単に確認された。
急いで式の日取りまで決める必要はない。
エレノア自身もまだ王都へ来たばかりで、侯爵家について知らないことが多い。父も、焦らず進めればいいと言ってくれた。
一通り話が終わると、先ほどまでの少し堅い空気も自然に和らいでいった。
それまで静かにアレクシスの後ろへ控えていたセドリックも、話が無事にまとまったことに少し安心したような表情を見せている。
昨日までなら、こんなふうにアレクシスと父と同じ部屋で結婚について話している自分など想像もしなかった。
それなのに今は、不思議なくらいその光景が自然に感じられる。
まだ何もかもが始まったばかりだった。
知らないことも多く、これから決めなければならないこともきっとたくさんある。
それでも、エレノアは隣に座るアレクシスを見て、昨日より少しだけ先のことを楽しみに思えるようになっていた。




