22
広間へ戻った途端、それまで散らばっていた視線が一斉にこちらへ集まった。
分かっていたつもりだったのに、実際にこれだけ多くの人から見られると落ち着かない。エレノアはアレクシスに手を取られたまま、なるべく周囲を気にしないよう前を向いた。
けれど、少し歩くだけでも囁き声が聞こえてくる。
先ほどまで一人で立っていたときとは明らかに違った。
ヴァルツェン侯爵が求婚した相手。
そして、その求婚を受けたらしい令嬢。
今の自分は、そういう目で見られているのだろう。
「……やっぱり、皆さん見ています」
エレノアが声を落として言うと、アレクシスは前を向いたまま答えた。
「そうだな」
「少しは気にならないんですか?」
「別に」
先ほどとまったく同じ返事だった。
エレノアは思わず隣を見上げる。
「私はかなり気になります」
「そのうち慣れる」
「簡単に言いますね」
「慣れてもらわないと困る」
「どうしてです?」
そこでようやく、アレクシスがエレノアへ視線を向けた。
「これから俺の隣にいるんだから」
また、こういうことを平然と言う。
エレノアは一瞬言葉に詰まり、すぐに視線を逸らした。
「……そういうことを、急に言わないでください」
「事実だろう」
「…そうですけど」
先ほどから何度胸を騒がされればいいのだろう。
それなのに本人は少しも動じていない。
アレクシスはエレノアの反応を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そして、広間の中央へ視線を向ける。
踊れるか?」
「一応は習っています。でも、夜会で踊るのは初めてです」
「なら問題ない」
「アレクシス様は?」
「踊れる」
「そういう意味ではなくて……よく踊られるんですか?」
「いや」
予想通りの答えだった。
エレノアは少し笑う。
「やっぱり」
「何だ?」
「夜会にもあまりいらっしゃらないと聞きましたから」
「好きではないからな」
「では、どうして今日は?」
そう尋ねたところで、答えはほとんど分かっていた。
アレクシスは少しも誤魔化さずに言った。
「君が来ると知っていたからだ」
エレノアは黙った。
どうしてこの人は、今日はこんなにも迷いなく言葉を投げてくるのだろう。
5年前は、自分から気持ちを口にすることなどほとんどなかったのに。
「……アレクシス様、5年前よりよくお話しになるようになりましたね」
「そうか?」
「はい。少なくとも、こんなことを次々に仰る方ではありませんでした」
「言わなかっただけだ」
「では、昔から考えてはいたんですか?」
「それを今ここで全部聞くつもりか?」
思いがけずそう返されて、エレノアは目を瞬いた。
よく見ると、アレクシスの目元にはわずかに笑いが浮かんでおり、からかわれたのだと気づくまで少しかかった。
「……意地悪ですね」
「今さら気づいたのか」
「5年前はもっと優しかった気がします」
「今も優しいつもりだが」
それには答えず、エレノアは笑った。
こうして話していると、不思議なくらい昔と同じだった。
名前も身分も、背負っているものも、想像していたよりずっと大きかった。それでも、目の前にいる人まで別人になったわけではない。
そのことが分かるだけで、先ほどまで感じていた緊張が少しずつほどけていった。
曲が変わり、広間の中央へ新たに何組もの男女が進み出る。
アレクシスも改めて手を差し出した。
「行こう」
エレノアはその手を見てから、周囲へ目を向けた。
まだ見ている。
おそらく今ここで踊れば、さらに注目されるのだろう。
「……本当に踊るんですね」
「嫌か?」
「嫌ではありませんけど」
少し迷ってから、エレノアはその手へ自分の手を重ねた。
「失敗しても笑わないでくださいね」
「笑わない」
「本当に?」
「ああ。俺が合わせる」
その言葉に背中を押されるように、エレノアはアレクシスとともに広間の中央へ進んだ。
楽団の演奏に合わせ、ゆっくりと動き始める。
最初の数歩こそ足元が気になったが、アレクシスの動きは思っていた以上に分かりやすかった。少し遅れても自然に合わせてくれるので、気づけば周囲を見る余裕まで出てくる。
「アレクシス様、お上手ですね」
「普通だ」
「普通ではないと思います」
言いながら、エレノアは小さく笑った。
アレクシスはほとんど表情を変えなかったが、どこか機嫌が良さそうに見える。
そのまま何度か動きを繰り返しているうちに、エレノアは周囲の視線も少しだけ気にならなくなっていた。
「不思議です」
「何がだ?」
昨日まで、ヴァルツェン侯爵様がどんな方なのかも知らなかったのに」
「今は?」
エレノアは少し考えた。
「知っているような、知らないような……」
「どっちだ」
「アレン様のことは知っていたつもりです。でも、ヴァルツェン侯爵としてのアレクシス様のことは、まだ何も知らないでしょう?」
口にしてから、昔の呼び名を出したことに気づく。
けれどアレクシスは気にした様子もなく、むしろ静かに頷いた。
「なら、これから知ればいい」
その言葉は、先ほど休憩室で聞いたものとよく似ていた。
エレノアも素直に頷く。
「はい。そうします」
曲が終わると、2人は広間の端へ戻った。
すぐに何人かの貴族がアレクシスへ声をかけてきたが、彼は必要な挨拶だけを交わしながらも、エレノアを一人にしようとはしなかった。
これまで遠くからしか見たことがなかったらしい令嬢たちも、ちらちらとこちらを窺っている。
エレノアはどう振る舞えばいいのか分からず、とりあえず微笑んで会釈を返した。
やがて人の輪が少し途切れたところで、一人の男性が近づいてきた。
年齢はアレクシスと同じくらいだろうか。整った身なりをしているものの、どこか肩の力の抜けた雰囲気がある。
「侯爵」
呼びかけ方こそ丁寧だったが、声には遠慮がなかった。
アレクシスがそちらを見る。
「セドリック」
「今夜は随分と派手なことをなさいましたね」
その言い方に、エレノアは思わず男性を見る。
セドリックと呼ばれた男は、アレクシスへ呆れたような視線を向けていた。
「そうか?」
「そうか、ではありません。明日の王都はこの話で持ちきりですよ」
「別に構わない」
「でしょうね」
どうやら相当親しいらしい。
セドリックは小さく息をついたあと、エレノアへ向き直った。
先ほどまでとは違い、きちんと姿勢を正す。
「ご挨拶が遅れました。セドリックと申します。長く侯爵のそばにおります」
「エレノア・リーヴェルトです」
エレノアも挨拶を返すと、セドリックは少しだけ表情を和らげた。
「5年前、侯爵をリーヴェへお連れしたときにも、一度お姿を拝見しています」
「え?」
「もっとも、あの頃は事情をお話しできる立場ではありませんでしたが」
そこまで言ってから、セドリックはどこか可笑しそうにアレクシスへ視線を向けた。
「その節は、侯爵が大変お世話になりました」
「セドリック」
すぐさま低い声が飛ぶ。
「事実でしょう?」
「言い方がある」
「では、もう少し丁寧に申し上げましょうか?」
アレクシスの目がわずかに細くなる。
セドリックは何事もなかったようにエレノアへ向き直った。
「……このような方ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
エレノアは堪えきれず、思わず笑ってしまった。
どうやら自分の知らない5年間にも、アレクシスにはこうして気を許して話せる人がいたらしい。
それが少し嬉しかった。
その後も夜会は続いたが、エレノアにとっては何もかもが初めてで、時間が過ぎるのはあっという間だった。
帰る頃には、最初に感じていた緊張よりも、一晩のうちに起きた出来事への疲れの方が大きくなっていた。
馬車へ乗り込む前、アレクシスがエレノアの手を取った。
「今日はゆっくり休め」
「はい」
「明日、子爵のところへ正式に伺う」
求婚はすでに受けたとはいえ、家同士の話はこれからなのだと改めて実感する。
「分かりました」
少し後ろで待っていてくれた父がそう答えてから、エレノアは少し迷いながら挨拶を口にした。
「……おやすみなさい、アレクシス様」
アレクシスの表情がわずかに柔らかくなる。
「おやすみ、エレノア」
父とともに馬車へ乗り込み、扉が閉まる。
馬車が動き始めると、エレノアは座席へ背を預けて大きく息を吐くと、父が向かい側から笑った。
「疲れたかい?」
「……少し」
「初めての夜会にしては、随分いろいろあったからね」
「お父様」
エレノアは恨めしそうに父を見たものの、本当に色々あったので自分でも少し笑ってしまった。
宿へ戻ると、リナが部屋で待っていた。
エレノアの姿を見るなり立ち上がり、いつものように柔らかく笑う。
「おかえりなさいませ。夜会はいかがでした?」
「ただいま、リナ」
答えながら、エレノアは少し考えた。
何から話せばいいのだろう。
夜会が思っていたより華やかだったこと。
たくさんの貴族に会ったこと。
初めて踊ったこと。
けれど、どう考えても最初に話すべきなのはそこではない。
「リナ、驚かないで聞いてね」
「はい?」
「ヴァルツェン侯爵様なんだけど……」
リナが続きを待つ。
エレノアは一度息を吸った。
「アレン様だったの」
数秒、沈黙が落ちた。
「……え?」
リナが珍しく目を丸くした。
「私も同じ顔をしたと思うわ」
「アレン様が、ヴァルツェン侯爵様……?」
「そうなの」
リナはしばらく言葉を失っていた。
5年前、アレンを知っていたのだから無理もない。
「それで……侯爵様とは、お話しできたんですか?」
「ええ。それどころか……」
そこまで言って、また頬が熱くなってきた。
「求婚されたわ」
リナの目がさらに大きくなる。
「夜会で、ですか?」
「皆さんの前で」
「まあ……」
リナは目を輝かせて口元に手を当てた。
「それで、お嬢様は?」
エレノアは少しだけ視線を落とし、それから小さく笑った。
「お受けしたわ」
リナは一瞬驚いた顔をしたあと、すぐに優しい笑顔になった。
「そうでしたか」
それだけ言うと、エレノアの手をそっと握る。
「よかったですね、お嬢様」
その言葉に、エレノアは素直に頷いた。
「……うん」
嬉しい。
まだ分からないことも、不安なこともある。それでも、その気持ちだけは今の自分の中ではっきりしていた。
リナに手伝ってもらって着替えを済ませ、ベッドへ入る頃にはすっかり夜も更けていた。
けれど、目を閉じてもなかなか眠れない。
今日の出来事が次々と頭に浮かんでくる。
広間へ入ってきたアレクシスを見つけた瞬間。
彼が侯爵だと知ったとき。
自分の前に膝をついた姿。
休憩室で言われた言葉。
そして――。
エレノアは布団の中で、そっと両手で顔を覆った。
「……私、好きですって言った……」
今さら思い出して、顔が一気に熱くなる。
あのときは混乱していたとはいえ、どうしてあんなに素直に口から出てしまったのだろう。
しかも、もう一度言ってほしいとまで言われた。
エレノアは布団を少しだけ頭まで引き上げた。
しばらく眠れそうになかった。




