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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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広間へ戻った途端、それまで散らばっていた視線が一斉にこちらへ集まった。


分かっていたつもりだったのに、実際にこれだけ多くの人から見られると落ち着かない。エレノアはアレクシスに手を取られたまま、なるべく周囲を気にしないよう前を向いた。

けれど、少し歩くだけでも囁き声が聞こえてくる。


先ほどまで一人で立っていたときとは明らかに違った。


ヴァルツェン侯爵が求婚した相手。

そして、その求婚を受けたらしい令嬢。

今の自分は、そういう目で見られているのだろう。


「……やっぱり、皆さん見ています」


エレノアが声を落として言うと、アレクシスは前を向いたまま答えた。


「そうだな」


「少しは気にならないんですか?」


「別に」


先ほどとまったく同じ返事だった。

エレノアは思わず隣を見上げる。


「私はかなり気になります」


「そのうち慣れる」


「簡単に言いますね」


「慣れてもらわないと困る」


「どうしてです?」


そこでようやく、アレクシスがエレノアへ視線を向けた。


「これから俺の隣にいるんだから」


また、こういうことを平然と言う。

エレノアは一瞬言葉に詰まり、すぐに視線を逸らした。


「……そういうことを、急に言わないでください」


「事実だろう」


「…そうですけど」


先ほどから何度胸を騒がされればいいのだろう。

それなのに本人は少しも動じていない。

アレクシスはエレノアの反応を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

そして、広間の中央へ視線を向ける。


踊れるか?」


「一応は習っています。でも、夜会で踊るのは初めてです」


「なら問題ない」


「アレクシス様は?」


「踊れる」


「そういう意味ではなくて……よく踊られるんですか?」


「いや」


予想通りの答えだった。

エレノアは少し笑う。


「やっぱり」


「何だ?」


「夜会にもあまりいらっしゃらないと聞きましたから」


「好きではないからな」


「では、どうして今日は?」


そう尋ねたところで、答えはほとんど分かっていた。

アレクシスは少しも誤魔化さずに言った。


「君が来ると知っていたからだ」


エレノアは黙った。

どうしてこの人は、今日はこんなにも迷いなく言葉を投げてくるのだろう。

5年前は、自分から気持ちを口にすることなどほとんどなかったのに。


「……アレクシス様、5年前よりよくお話しになるようになりましたね」


「そうか?」


「はい。少なくとも、こんなことを次々に仰る方ではありませんでした」


「言わなかっただけだ」


「では、昔から考えてはいたんですか?」


「それを今ここで全部聞くつもりか?」


思いがけずそう返されて、エレノアは目を瞬いた。

よく見ると、アレクシスの目元にはわずかに笑いが浮かんでおり、からかわれたのだと気づくまで少しかかった。


「……意地悪ですね」


「今さら気づいたのか」


「5年前はもっと優しかった気がします」


「今も優しいつもりだが」


それには答えず、エレノアは笑った。

こうして話していると、不思議なくらい昔と同じだった。


名前も身分も、背負っているものも、想像していたよりずっと大きかった。それでも、目の前にいる人まで別人になったわけではない。

そのことが分かるだけで、先ほどまで感じていた緊張が少しずつほどけていった。


曲が変わり、広間の中央へ新たに何組もの男女が進み出る。

アレクシスも改めて手を差し出した。


「行こう」


エレノアはその手を見てから、周囲へ目を向けた。


まだ見ている。

おそらく今ここで踊れば、さらに注目されるのだろう。


「……本当に踊るんですね」


「嫌か?」


「嫌ではありませんけど」


少し迷ってから、エレノアはその手へ自分の手を重ねた。


「失敗しても笑わないでくださいね」


「笑わない」


「本当に?」


「ああ。俺が合わせる」


その言葉に背中を押されるように、エレノアはアレクシスとともに広間の中央へ進んだ。

楽団の演奏に合わせ、ゆっくりと動き始める。

最初の数歩こそ足元が気になったが、アレクシスの動きは思っていた以上に分かりやすかった。少し遅れても自然に合わせてくれるので、気づけば周囲を見る余裕まで出てくる。


「アレクシス様、お上手ですね」


「普通だ」


「普通ではないと思います」


言いながら、エレノアは小さく笑った。

アレクシスはほとんど表情を変えなかったが、どこか機嫌が良さそうに見える。

そのまま何度か動きを繰り返しているうちに、エレノアは周囲の視線も少しだけ気にならなくなっていた。


「不思議です」


「何がだ?」


昨日まで、ヴァルツェン侯爵様がどんな方なのかも知らなかったのに」


「今は?」


エレノアは少し考えた。


「知っているような、知らないような……」


「どっちだ」


「アレン様のことは知っていたつもりです。でも、ヴァルツェン侯爵としてのアレクシス様のことは、まだ何も知らないでしょう?」


口にしてから、昔の呼び名を出したことに気づく。

けれどアレクシスは気にした様子もなく、むしろ静かに頷いた。


「なら、これから知ればいい」


その言葉は、先ほど休憩室で聞いたものとよく似ていた。

エレノアも素直に頷く。


「はい。そうします」


曲が終わると、2人は広間の端へ戻った。


すぐに何人かの貴族がアレクシスへ声をかけてきたが、彼は必要な挨拶だけを交わしながらも、エレノアを一人にしようとはしなかった。


これまで遠くからしか見たことがなかったらしい令嬢たちも、ちらちらとこちらを窺っている。

エレノアはどう振る舞えばいいのか分からず、とりあえず微笑んで会釈を返した。


やがて人の輪が少し途切れたところで、一人の男性が近づいてきた。

年齢はアレクシスと同じくらいだろうか。整った身なりをしているものの、どこか肩の力の抜けた雰囲気がある。


「侯爵」


呼びかけ方こそ丁寧だったが、声には遠慮がなかった。


アレクシスがそちらを見る。


「セドリック」


「今夜は随分と派手なことをなさいましたね」


その言い方に、エレノアは思わず男性を見る。


セドリックと呼ばれた男は、アレクシスへ呆れたような視線を向けていた。


「そうか?」


「そうか、ではありません。明日の王都はこの話で持ちきりですよ」


「別に構わない」


「でしょうね」


どうやら相当親しいらしい。

セドリックは小さく息をついたあと、エレノアへ向き直った。

先ほどまでとは違い、きちんと姿勢を正す。


「ご挨拶が遅れました。セドリックと申します。長く侯爵のそばにおります」


「エレノア・リーヴェルトです」


エレノアも挨拶を返すと、セドリックは少しだけ表情を和らげた。


「5年前、侯爵をリーヴェへお連れしたときにも、一度お姿を拝見しています」


「え?」


「もっとも、あの頃は事情をお話しできる立場ではありませんでしたが」


そこまで言ってから、セドリックはどこか可笑しそうにアレクシスへ視線を向けた。


「その節は、侯爵が大変お世話になりました」


「セドリック」


すぐさま低い声が飛ぶ。


「事実でしょう?」


「言い方がある」


「では、もう少し丁寧に申し上げましょうか?」


アレクシスの目がわずかに細くなる。

セドリックは何事もなかったようにエレノアへ向き直った。


「……このような方ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


エレノアは堪えきれず、思わず笑ってしまった。


どうやら自分の知らない5年間にも、アレクシスにはこうして気を許して話せる人がいたらしい。

それが少し嬉しかった。


その後も夜会は続いたが、エレノアにとっては何もかもが初めてで、時間が過ぎるのはあっという間だった。


帰る頃には、最初に感じていた緊張よりも、一晩のうちに起きた出来事への疲れの方が大きくなっていた。

馬車へ乗り込む前、アレクシスがエレノアの手を取った。


「今日はゆっくり休め」


「はい」


「明日、子爵のところへ正式に伺う」


求婚はすでに受けたとはいえ、家同士の話はこれからなのだと改めて実感する。


「分かりました」


少し後ろで待っていてくれた父がそう答えてから、エレノアは少し迷いながら挨拶を口にした。


「……おやすみなさい、アレクシス様」


アレクシスの表情がわずかに柔らかくなる。


「おやすみ、エレノア」


父とともに馬車へ乗り込み、扉が閉まる。

馬車が動き始めると、エレノアは座席へ背を預けて大きく息を吐くと、父が向かい側から笑った。


「疲れたかい?」


「……少し」


「初めての夜会にしては、随分いろいろあったからね」


「お父様」


エレノアは恨めしそうに父を見たものの、本当に色々あったので自分でも少し笑ってしまった。


宿へ戻ると、リナが部屋で待っていた。

エレノアの姿を見るなり立ち上がり、いつものように柔らかく笑う。


「おかえりなさいませ。夜会はいかがでした?」


「ただいま、リナ」


答えながら、エレノアは少し考えた。


何から話せばいいのだろう。

夜会が思っていたより華やかだったこと。

たくさんの貴族に会ったこと。

初めて踊ったこと。


けれど、どう考えても最初に話すべきなのはそこではない。


「リナ、驚かないで聞いてね」


「はい?」


「ヴァルツェン侯爵様なんだけど……」


リナが続きを待つ。

エレノアは一度息を吸った。


「アレン様だったの」


数秒、沈黙が落ちた。


「……え?」


リナが珍しく目を丸くした。


「私も同じ顔をしたと思うわ」


「アレン様が、ヴァルツェン侯爵様……?」


「そうなの」


リナはしばらく言葉を失っていた。

5年前、アレンを知っていたのだから無理もない。


「それで……侯爵様とは、お話しできたんですか?」


「ええ。それどころか……」


そこまで言って、また頬が熱くなってきた。


「求婚されたわ」


リナの目がさらに大きくなる。


「夜会で、ですか?」


「皆さんの前で」


「まあ……」


リナは目を輝かせて口元に手を当てた。


「それで、お嬢様は?」


エレノアは少しだけ視線を落とし、それから小さく笑った。


「お受けしたわ」


リナは一瞬驚いた顔をしたあと、すぐに優しい笑顔になった。


「そうでしたか」


それだけ言うと、エレノアの手をそっと握る。


「よかったですね、お嬢様」


その言葉に、エレノアは素直に頷いた。


「……うん」


嬉しい。

まだ分からないことも、不安なこともある。それでも、その気持ちだけは今の自分の中ではっきりしていた。


リナに手伝ってもらって着替えを済ませ、ベッドへ入る頃にはすっかり夜も更けていた。

けれど、目を閉じてもなかなか眠れない。

今日の出来事が次々と頭に浮かんでくる。

広間へ入ってきたアレクシスを見つけた瞬間。

彼が侯爵だと知ったとき。

自分の前に膝をついた姿。

休憩室で言われた言葉。

そして――。

エレノアは布団の中で、そっと両手で顔を覆った。


「……私、好きですって言った……」


今さら思い出して、顔が一気に熱くなる。

あのときは混乱していたとはいえ、どうしてあんなに素直に口から出てしまったのだろう。

しかも、もう一度言ってほしいとまで言われた。


エレノアは布団を少しだけ頭まで引き上げた。

しばらく眠れそうになかった。






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