21
広間は、しばらく静まり返っていた。
誰もが目の前で起きたことを理解しようとしているようだった。
普段ほとんど夜会に姿を見せないヴァルツェン侯爵が、一人の令嬢の前に膝をついた。それだけでも十分に驚くことなのに、彼はそこで、はっきりと求婚の言葉まで口にしたのだ。
やがて静けさの中から、小さなざわめきが広がり始める。
「今、求婚なさったの?」
「リーヴェルト子爵令嬢よね?」
「でも、侯爵とどこで……」
囁き声が重なり、あっという間に広間のあちこちへ伝わっていく。
けれど、エレノアにはほとんど耳に入っていなかった。
目の前で片膝をついたままのアレクシスを見つめることしかできない。
昨日まで、自分に求婚状を送ってきた理由すら分からなかったヴァルツェン侯爵。その人がアレンだった。それだけでもまだ頭が追いついていないのに、今度は大勢の前で結婚してほしいと言われたのだ。
「……アレン様」
ようやく声を出すと、アレクシスは静かに返した。
「ああ」
その返事まで、5年前と変わらない。
だから余計に混乱した。
エレノアは周囲へ目を向ける。いつの間にか、かなりの数の人がこちらを見ていた。露骨に振り返っている者もいれば、会話を続けるふりをしながら様子を窺っている者もいる。
視線を戻すと、アレクシスだけはそんな周囲をまるで気にしていなかった。
「……少し、待ってください」
「分かった」
返事は早かった。
アレクシスは立ち上がったが、エレノアから視線を逸らさない。
「断るという意味ではなくて……」
そこまで口にしてから、エレノアは自分でも何を言おうとしているのか分からなくなった。
断るつもりがないことだけは、不思議なくらいはっきりしている。
けれど、それ以外のことが何一つ整理できていない。
「少し、お話しできますか?」
「もちろんだ」
アレクシスはすぐに頷いた。
父を見ると、事情を察したように穏やかに笑う。
「行っておいで」
「お父様は……」
「私はここにいるよ。ゆっくり話してくるといい」
エレノアは父へ小さく頷いた。
アレクシスが差し出した手を見て、一瞬ためらう。
5年前なら、もっと気軽に取れた手だった。けれど今は、その手の持ち主が誰なのかを知っている。
ほんの少し迷ったあと、エレノアはそっと自分の手を重ねた。
その瞬間、また周囲がざわついた。
アレクシスは気にする様子もなく、エレノアを連れて広間を離れた。
案内されたのは、広間から少し離れた小さな休憩室だった。
扉は完全には閉じられず、少し離れた廊下には王宮の侍従の姿もある。それでも、先ほどまでの広間とは違い、周囲の視線を気にせず話せる程度には静かだった。
中へ入ると、エレノアはようやく大きく息を吐いた。
「……驚きました」
アレクシスは向かいに立ったまま答える。
「そうだろうな」
「そうだろうな、ではありません」
思わず言い返すと、アレクシスの目元がわずかに緩んだ。
その表情まで昔と同じで、エレノアはますます不思議な気持ちになる。
「私は、アレン様が普通の方ではないとは思っていました」
「気づいていたのか?」
「気づくに決まっています。身のこなしもそうですし、軍のことにも詳しかったでしょう? それに、お父様もずいぶん丁寧に接していましたから」
当時は深く考えなかった。
何か事情があって身分を隠しているのだろうとは思っていたけれど、本人が話さないことを無理に聞こうとはしなかった。
「だから、もしかしたら高い身分の方なのかもしれないとは思っていました。でも……」
エレノアは言葉を探しながら、目の前の男を見る。
「まさか、侯爵様だなんて思いません」
アレクシスは黙って聞いている。
「しかも、ただ爵位が高いというだけではないのでしょう?」
「どういう意味だ?」
「私でもお名前を知っていたくらいです。戦争では軍を率いて、王都でもこれだけ皆さんが知っていて……王家からの信頼だって、きっと厚い方なのでしょう?」
少し前まで、エレノアの中のアレンは、5年前にリーヴェで過ごした青年だった。
怪我をして、時々無茶をして、あまり多くを話さないのに、自分の話はよく聞いてくれた人。
それが今では、国の中でも大きな責任を背負う人物なのだと知った。
想像していたよりも、ずっと遠いところにいる人だった。
「私が思っていたより、ずっと遠い方だったんですね」
口にしてから、少しだけ寂しい響きになってしまったことに気づく。
アレクシスの眉がわずかに動いた。
「遠くない」
エレノアが顔を上げる。
「でも……」
「少なくとも、俺は一度もそう思ったことはない」
聞き慣れた一人称に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
目の前にいるのはヴァルツェン侯爵でありながら、確かに5年前のアレンでもある。
「爵位も、軍での立場も、今の俺には必要なものだ。投げ出すつもりもない」
アレクシスはそこまで言うと、一度言葉を切った。
「だが、それと君を妻にしたいことは別だ」
エレノアは黙って彼を見る。
俺は侯爵家に相応しい令嬢を探していたわけじゃない」
アレクシスの灰青色の瞳が、まっすぐこちらを向く。
「君だから求婚した」
胸が大きく鳴った。
「5年前から変わっていない。君と話す時間が好きだった。君が笑っているのを見るのも、楽しそうに本の話をするのを聞くのも好きだった」
普段あまり多くを語らない人だからこそ、一つ一つの言葉がそのまま胸に入ってくる。
エレノアは何も言えなくなった。
「リーヴェを離れてからも、何度も思い出した。戦争が終わったら、もう一度会いたいと思っていた」
「……5年間ずっと?」
「ああ」
少しも迷わなかった。
「俺は君に侯爵夫人になってほしいから求婚したんじゃない」
アレクシスが一歩近づく。
「君と一緒に生きたい」
息が止まりそうになった。
こんな言葉を言う人だっただろうか。
5年前も優しかった。けれど、こんなふうに気持ちを真っ直ぐ言葉にする人ではなかった。
エレノアは胸元へ手を添えた。急にそこだけ熱くなったような気がして、何か返さなければと思うのに、まともな言葉が見つからない。
侯爵夫人になることも、身分の違いも、これから背負うことになるものも、本当ならもっと考えなければならない。
それなのに、なんだか胸のあたりが熱くなって、考えるより先に口からこぼれたのはまったく別の言葉だった。
「……好きです」
アレクシスの目が見開かれた。
エレノア自身も固まった。
今、自分は何を言ったのだろう。
「……あ」
遅れて頬が熱くなる。
「今のは、その……」
珍しく、アレクシスが何も言わない。
普段ならほとんど表情を変えない男が、はっきりと驚いている。
エレノアは恥ずかしさに耐えきれず視線を逸らした。
「忘れてください」
「無理だ」
即答だった。
エレノアはさらに顔を赤くした。
「そんなにすぐ答えなくても……」
「忘れられるわけがない」
「アレン様」
名前を呼ぶと、アレクシスはしばらくエレノアを見つめていた。
やがて、その口元がほんの少し緩む。
戦場で名を上げ、王都では冷たい侯爵だと噂される男とは思えないほど、素直に嬉しそうな表情だった。
「もう一度聞きたい」
「嫌です」
「なぜ?」
「恥ずかしいからです」
「俺は嬉しかった」
「……一度で十分でしょう?」
「十分ではない」
エレノアは思わず彼を見た。
アレクシスは真顔だった。
冗談で言っているわけではないらしい。
それが可笑しくなって、エレノアは小さく笑った。
「そんな顔で言わないでください」
「本気だからな」
また胸が鳴る。
どうして今日は、こんなことばかり言うのだろう。
けれど嫌ではなかった。むしろ、嬉しかった。
しばらくして、エレノアは少しだけ息を整えた。
先ほどまでは、アレクシスが侯爵だったことへの驚きばかりが大きかった。けれど、こうして話しているうちに、ようやく一つずつ現実として考えられるようになってくる。
侯爵夫人になる。
その言葉を改めて思い浮かべるだけで、まだ落ち着かない。
ヴァルツェン侯爵家の名を背負い、王都の社交界へ出て、時には王家とも関わることになるのだろう。今までリーヴェだけを見て生きてきた自分には、知らないことの方が多い。
「……私、本当に何も知らないんです」
アレクシスが静かにエレノアを見る。
「侯爵夫人が何をするのかも、王都の社交界のことも、今日初めて夜会に出たくらいで……。アレン様が背負っているものだって、まだ全然分かっていないと思います」
自分でも、求婚を断りたいから言っているわけではないことは分かっていた。
むしろ逆だった。
アレンと一緒にいたいと思うからこそ、何も考えずに頷いてしまうことの方が怖かった。
「好きだから、それだけで何も考えなくていいとは思えなくて」
言葉に、アレクシスは急かすことなく頷いた。
「そうだな」
「怖くないと言ったら、嘘になります」
「それでいい」
エレノアは少し驚いて顔を上げる。
「いいんですか?」
「最初から何もかも分かっている必要はない。俺だって、君に今すぐ全部を理解してくれとは思っていない」
アレクシスの声は落ち着いていた。
「分からないことは、これから知ればいい。俺もいる」
その言葉に、胸の奥にあった不安が少しだけほどけていく。
「君に一人で何もかも背負わせるつもりはない」
エレノアはしばらく彼を見つめた。
父に自分の将来を考えてみたらと言われたとき、最初に思い浮かんだのはアレンだった。
5年間ずっと待ち続けていたわけではない。毎日彼のことばかり考えていたわけでもない。リーヴェでやることはたくさんあったし、楽しいこともあった。
それでも、自分の隣に誰かがいる未来を考えたとき、思い浮かんだのは彼だけだった。
「私、将来のことを考えたとき……アレン様以外の方と一緒にいるところを、うまく想像できませんでした」
アレクシスの表情がわずかに変わる。
「だから、アレン様と結婚することが嫌なのではありません。むしろ、アレン様だったことが嬉しいです」
エレノアはそこで一度言葉を止めた。
嬉しいだけでは決められないこともある。
けれど、分からないことがあるからといって、この人と一緒にいたいという気持ちまで否定する必要はないのだと思った。
「まだ怖いですし、ちゃんとできるかも分かりません。でも……それでも、アレン様…アレクシス様と一緒にいたいです」
今度は、アレクシスが何も言わなかった。
ただ、その表情がゆっくりと柔らかくなっていく。
エレノアは少しだけ緊張しながら、それでも逃げずに彼を見た。
「……だから、はい」
「それは、求婚の返事だと思っていいのか?」
「はい」
エレノアは小さく笑った。
「私でよければ」
「君がいい」
返ってきた言葉は、驚くほど早かった。
また胸が熱くなる。
少し前まで、目の前の人がヴァルツェン侯爵だと知っただけで頭がいっぱいだったのに、今はそれよりも、5年前から変わらず自分を想ってくれていたことの方がずっと大きく感じられた。
不安がなくなったわけではない。
侯爵夫人になることも、王都での暮らしも、まだ想像できないことばかりだ。
それでも、ひとつだけははっきりしていた。
これから先を一緒に歩くなら、この人がいい。
エレノアがそう思いながらアレクシスを見つめると、彼もまた、どこか安心したような表情でこちらを見ていた。




