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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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王宮へ近づくにつれ、窓の外を流れる景色は少しずつ華やかになっていった。


正門へ続く道には何台もの馬車が並び、着飾った貴族たちが次々と降りていく。夜の王宮は遠くから見ても明るかったが、門をくぐって間近にすると、その大きさにエレノアは思わず窓へ顔を寄せた。


「……すごいですね」


「昼間に見る王宮とは、また違うだろうね」


向かいに座る父が笑う。


「お父様は見慣れているんですか?」


「見慣れていると言えるほどではないよ。ただ、お前より来る機会が多いだけだ」


馬車がゆっくりと停まり、外から扉が開かれた。

先に降りた父の手を借りて地面へ足を下ろすと、エレノアは改めて王宮を見上げる。大きく開かれた扉の向こうには多くの人が行き交い、入口からすでにリーヴェとは別の世界のようだった。


「大丈夫?」


父に声をかけられ、エレノアは小さく息を吐いた。


「はい。少し緊張していますけど」


「何か困ったら私のところに居るといい。無理に誰かと話す必要もないからね」


「分かりました」


父の腕に手を添え、エレノアは王宮へ入った。


案内された広間には、すでに多くの招待客が集まっていた。

高い天井から下がる大きな燭台の明かりが広間全体を照らし、楽団の演奏が絶えず流れている。色とりどりのドレスをまとった令嬢たち、その隣で談笑する紳士たち。あちらこちらで挨拶が交わされ、少し離れた場所ではすでに踊っている者たちの姿も見えた。


エレノアは思わず辺りを見回した。


「これが、王都の夜会……」


「驚いた?」


「思っていたより、人が多いです」


「今日は王宮で開かれているからね。普段より規模も大きいよ」


父について歩いていると、何人かの貴族から声をかけられた。

そのたびに父がエレノアを紹介し、エレノアも教えられてきた通りに挨拶をする。


最初こそ緊張していたものの、何人かと言葉を交わすうちに少しずつ肩の力も抜けていった。リーヴェの様子を尋ねられることもあれば、初めて王都へ来たと知って街の話をしてくれる者もいる。


想像していたほど怖い場所ではないらしい。


もちろん、知らない人ばかりなのは変わらなかったが、父が隣にいるだけでも随分違った。

一通り挨拶を終えたところで、父が知り合いらしい男性に呼び止められた。


「少し話してくるよ。ここで待っていられる?」


「はい。大丈夫です」


「すぐ戻るからね」


父が数歩離れたところで話し始めたので、エレノアは壁際へ寄り広間を眺めながら一息ついた。

踊っている人たちを見るだけでも面白い。王都の令嬢たちは皆、歩き方も仕草も洗練されていて、身につけている衣装も様々だった。


リナが見たら喜びそうだと思いながら眺めていると、近くにいた令嬢たちの会話が耳に入った。


「今日はまだいらしていないのかしら」


「誰のこと?」


「ヴァルツェン侯爵よ」


その名前に、エレノアは何気なくそちらへ視線を向けた。

昨日の店でも聞いた名前だった。


「やっぱり来ないんじゃない? あの方、こういう場所がお好きではないもの」


「でも出席されるって聞いたわよ」


「本当に?」


「ええ。兄がそう言っていたもの」


令嬢たちの声が、少し弾む。

エレノアは手にしていた飲み物へ視線を落とした。

自分に求婚状を送ってきた人物。

会えるのなら、顔くらいは見てみたい。できれば話もして、なぜ自分だったのか聞いてみたいと思っている。


けれど、今すぐ探し回るほどでもなかった。


広間にはこれだけの人がいるのだから、もし来ていたとしても簡単には分からないだろう。

そう考えていたとき、入口の辺りが少し騒がしくなった。

何人かが同時にそちらを振り返り、先ほどまで話していた令嬢たちも声を潜める。


「……いらしたわ」


エレノアもつられるように顔を上げた。


広間の入口から、一人の男性が入ってくる。


周囲にいる者たちより背が高く、黒を基調とした正装は華美ではないのに、なぜかひどく目を引いた。歩きながら何人かに声をかけられているが、必要な挨拶だけを返し、足を止めることはない。


エレノアはその姿を見た瞬間、息を止めた。

聞こえていた音が、急に遠くなった気がした。


見間違えるはずがない。


5年という時間が流れ、以前より少し大人びている。それでも、顔立ちも、灰青色の瞳も、自分の記憶の中に残っている人と同じだった。


「……アレン様?」


小さく零れた声は、周囲のざわめきに紛れた。


どうして。

なぜ、アレンが王宮にいるのだろう。

軍に戻ったことは知っていた。けれど、今どこで何をしているのかは知らなかった。


会いたいと思ったことは何度もある。

王都へ来てからも、書店で昔のことを思い出したばかりだった。


それなのに、まさかこんな場所で会うなんて思ってもいなかった。


「本当にいらしたのね、ヴァルツェン侯爵」


すぐ近くから聞こえた声に、エレノアは一瞬意味を理解できなかった。


視線は、まだ入口にいる男性へ向いたままだった。


「やっぱり素敵……」


「今日はどうしていらしたのかしら」


――ヴァルツェン侯爵。


令嬢たちがそう呼んでいる。

エレノアはゆっくりと瞬きをした。


まさか。


もう一度男性を見ると、その頃には向こうもエレノアに気づいていた。

侯爵の足が止まり、広間へ入ってからほとんど表情を変えていなかった男の顔が、わずかに和らいだ。

そして次の瞬間には、迷うことなくこちらへ歩き始めていた。


周囲の視線が彼を追う。


当然だった。

普段ほとんど夜会へ姿を見せないヴァルツェン侯爵が、誰にも足を止めず、一人の令嬢へ向かって真っ直ぐ歩いているのだから。


けれどエレノアには、そんな周囲の様子まで気にする余裕はなかった。

近づくにつれて、ますますはっきりする。


間違いなく、アレンだ。


やがて彼が目の前で足を止めた。


「エレノア」


5年前と変わらない呼び方だった。

その声を聞いた途端、胸の奥に残っていた最後の疑いまで消えてしまった。


「……アレン様」


エレノアはようやくそれだけを口にした。


「どうして……」


言葉が続かない。

聞きたいことはいくつもあるはずなのに、どれから尋ねればいいのか分からなかった。

アレクシスは、そんなエレノアをしばらく見つめていた。


「久しぶりだ」


「……はい」


「5年ぶりだな」


その言葉に、エレノアは小さく頷いた。


本当に、アレンだ。


嬉しいはずなのに、まだ状況を理解できていない。


そのとき、すぐそばまで戻ってきていた父の姿が目に入った。

父は驚いた様子もなく、アレクシスへ軽く頭を下げる。


「ヴァルツェン侯爵」


その呼び方を聞き、エレノアは父を見た。


「お父様……?」


そして、もう一度目の前の男を見る。


「ヴァルツェン侯爵……というのは……」


アレクシスは視線を逸らさなかった。


「私だ」


あまりにも簡潔な答えだった。

エレノアはしばらく何も言えなかった。


「では……アレクシス・フォン・ヴァルツェン様が……」

自分のところへ求婚状を送ってきた人物。

それが、5年前にリーヴェで出会ったアレン。

ようやくそこまで辿り着いた瞬間、エレノアは思わず父を見たが、父は少し申し訳なさそうな顔をしているだけだ。


「お父様は、求婚のお相手がアレン様だと知っていたのですよね…?」


「……知っていたよ」


「どうして教えてくださらなかったんです?」


「私から話すことではないと思ったんだ」


困ったように答える父を見て、エレノアは何か言おうとした。

けれど、その前にアレクシスが口を開いた。


「子爵を責めないでくれ。黙っていてほしいと頼んだのは私だ」


エレノアは彼へ向き直った。


「どうして……」


「自分で話したかった」


その答えはあまりにも真っ直ぐだった。

エレノアは何も言えずに彼を見つめる。


5年前。

怪我をしてリーヴェへ来た青年。

アレンと名乗り、何度も一緒に話し、散歩をして、本の話をした人。

そして今、自分の目の前に立っているのは、王都中で名を知られているヴァルツェン侯爵だった。

昨日まで、どんな顔をしているのだろうと思っていた相手が、ずっと知っている人だった。


「求婚状も……アレン様が?」


「そうだ」


「どうして私に……」


その問いに、アレクシスは少しだけ目を細めた。


「それを言うために来た」


そう言うと、彼はエレノアの前で一歩下がった。

何をするのだろうと思った、その直後だった。

アレクシスが片膝をついた。


「……え?」


エレノアの目が大きく見開かれる。


周囲から小さなどよめきが起こった。

侯爵である彼が、子爵令嬢であるエレノアの前に膝をついている。

そんなことを気にする様子もなく、アレクシスはただエレノアだけを見上げていた。


「5年前、私は身分も名前も明かさずにリーヴェを去った」


低く落ち着いた声が、騒めきの残る広間に響く。


「それでも、君を忘れたことはない」


エレノアは息を呑んだ。


「戦争が終わるまで、君の人生を縛るようなことはしたくなかった。生きて帰れる保証もなかったからだ」


5年前、別れ際に交わした言葉が蘇る。


――生きて帰る。


あの約束を、彼も覚えている。


「だが、私は生きて帰った」


アレクシスの灰青色の瞳が、真っ直ぐエレノアを見つめる。


「だから今度は、何も隠さずに君に伝えたい」


一度言葉を切り、アレクシスははっきりと言った。


「エレノア・リーヴェルト嬢。私と結婚してほしい」


エレノアは声を失った。


昨日まで顔すら知らないと思っていた侯爵が、今、自分の前で膝をついている。

けれど、そこにいるのは知らない侯爵ではなかった。


5年前から、ずっと忘れられなかった人だった。








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