20
王宮へ近づくにつれ、窓の外を流れる景色は少しずつ華やかになっていった。
正門へ続く道には何台もの馬車が並び、着飾った貴族たちが次々と降りていく。夜の王宮は遠くから見ても明るかったが、門をくぐって間近にすると、その大きさにエレノアは思わず窓へ顔を寄せた。
「……すごいですね」
「昼間に見る王宮とは、また違うだろうね」
向かいに座る父が笑う。
「お父様は見慣れているんですか?」
「見慣れていると言えるほどではないよ。ただ、お前より来る機会が多いだけだ」
馬車がゆっくりと停まり、外から扉が開かれた。
先に降りた父の手を借りて地面へ足を下ろすと、エレノアは改めて王宮を見上げる。大きく開かれた扉の向こうには多くの人が行き交い、入口からすでにリーヴェとは別の世界のようだった。
「大丈夫?」
父に声をかけられ、エレノアは小さく息を吐いた。
「はい。少し緊張していますけど」
「何か困ったら私のところに居るといい。無理に誰かと話す必要もないからね」
「分かりました」
父の腕に手を添え、エレノアは王宮へ入った。
案内された広間には、すでに多くの招待客が集まっていた。
高い天井から下がる大きな燭台の明かりが広間全体を照らし、楽団の演奏が絶えず流れている。色とりどりのドレスをまとった令嬢たち、その隣で談笑する紳士たち。あちらこちらで挨拶が交わされ、少し離れた場所ではすでに踊っている者たちの姿も見えた。
エレノアは思わず辺りを見回した。
「これが、王都の夜会……」
「驚いた?」
「思っていたより、人が多いです」
「今日は王宮で開かれているからね。普段より規模も大きいよ」
父について歩いていると、何人かの貴族から声をかけられた。
そのたびに父がエレノアを紹介し、エレノアも教えられてきた通りに挨拶をする。
最初こそ緊張していたものの、何人かと言葉を交わすうちに少しずつ肩の力も抜けていった。リーヴェの様子を尋ねられることもあれば、初めて王都へ来たと知って街の話をしてくれる者もいる。
想像していたほど怖い場所ではないらしい。
もちろん、知らない人ばかりなのは変わらなかったが、父が隣にいるだけでも随分違った。
一通り挨拶を終えたところで、父が知り合いらしい男性に呼び止められた。
「少し話してくるよ。ここで待っていられる?」
「はい。大丈夫です」
「すぐ戻るからね」
父が数歩離れたところで話し始めたので、エレノアは壁際へ寄り広間を眺めながら一息ついた。
踊っている人たちを見るだけでも面白い。王都の令嬢たちは皆、歩き方も仕草も洗練されていて、身につけている衣装も様々だった。
リナが見たら喜びそうだと思いながら眺めていると、近くにいた令嬢たちの会話が耳に入った。
「今日はまだいらしていないのかしら」
「誰のこと?」
「ヴァルツェン侯爵よ」
その名前に、エレノアは何気なくそちらへ視線を向けた。
昨日の店でも聞いた名前だった。
「やっぱり来ないんじゃない? あの方、こういう場所がお好きではないもの」
「でも出席されるって聞いたわよ」
「本当に?」
「ええ。兄がそう言っていたもの」
令嬢たちの声が、少し弾む。
エレノアは手にしていた飲み物へ視線を落とした。
自分に求婚状を送ってきた人物。
会えるのなら、顔くらいは見てみたい。できれば話もして、なぜ自分だったのか聞いてみたいと思っている。
けれど、今すぐ探し回るほどでもなかった。
広間にはこれだけの人がいるのだから、もし来ていたとしても簡単には分からないだろう。
そう考えていたとき、入口の辺りが少し騒がしくなった。
何人かが同時にそちらを振り返り、先ほどまで話していた令嬢たちも声を潜める。
「……いらしたわ」
エレノアもつられるように顔を上げた。
広間の入口から、一人の男性が入ってくる。
周囲にいる者たちより背が高く、黒を基調とした正装は華美ではないのに、なぜかひどく目を引いた。歩きながら何人かに声をかけられているが、必要な挨拶だけを返し、足を止めることはない。
エレノアはその姿を見た瞬間、息を止めた。
聞こえていた音が、急に遠くなった気がした。
見間違えるはずがない。
5年という時間が流れ、以前より少し大人びている。それでも、顔立ちも、灰青色の瞳も、自分の記憶の中に残っている人と同じだった。
「……アレン様?」
小さく零れた声は、周囲のざわめきに紛れた。
どうして。
なぜ、アレンが王宮にいるのだろう。
軍に戻ったことは知っていた。けれど、今どこで何をしているのかは知らなかった。
会いたいと思ったことは何度もある。
王都へ来てからも、書店で昔のことを思い出したばかりだった。
それなのに、まさかこんな場所で会うなんて思ってもいなかった。
「本当にいらしたのね、ヴァルツェン侯爵」
すぐ近くから聞こえた声に、エレノアは一瞬意味を理解できなかった。
視線は、まだ入口にいる男性へ向いたままだった。
「やっぱり素敵……」
「今日はどうしていらしたのかしら」
――ヴァルツェン侯爵。
令嬢たちがそう呼んでいる。
エレノアはゆっくりと瞬きをした。
まさか。
もう一度男性を見ると、その頃には向こうもエレノアに気づいていた。
侯爵の足が止まり、広間へ入ってからほとんど表情を変えていなかった男の顔が、わずかに和らいだ。
そして次の瞬間には、迷うことなくこちらへ歩き始めていた。
周囲の視線が彼を追う。
当然だった。
普段ほとんど夜会へ姿を見せないヴァルツェン侯爵が、誰にも足を止めず、一人の令嬢へ向かって真っ直ぐ歩いているのだから。
けれどエレノアには、そんな周囲の様子まで気にする余裕はなかった。
近づくにつれて、ますますはっきりする。
間違いなく、アレンだ。
やがて彼が目の前で足を止めた。
「エレノア」
5年前と変わらない呼び方だった。
その声を聞いた途端、胸の奥に残っていた最後の疑いまで消えてしまった。
「……アレン様」
エレノアはようやくそれだけを口にした。
「どうして……」
言葉が続かない。
聞きたいことはいくつもあるはずなのに、どれから尋ねればいいのか分からなかった。
アレクシスは、そんなエレノアをしばらく見つめていた。
「久しぶりだ」
「……はい」
「5年ぶりだな」
その言葉に、エレノアは小さく頷いた。
本当に、アレンだ。
嬉しいはずなのに、まだ状況を理解できていない。
そのとき、すぐそばまで戻ってきていた父の姿が目に入った。
父は驚いた様子もなく、アレクシスへ軽く頭を下げる。
「ヴァルツェン侯爵」
その呼び方を聞き、エレノアは父を見た。
「お父様……?」
そして、もう一度目の前の男を見る。
「ヴァルツェン侯爵……というのは……」
アレクシスは視線を逸らさなかった。
「私だ」
あまりにも簡潔な答えだった。
エレノアはしばらく何も言えなかった。
「では……アレクシス・フォン・ヴァルツェン様が……」
自分のところへ求婚状を送ってきた人物。
それが、5年前にリーヴェで出会ったアレン。
ようやくそこまで辿り着いた瞬間、エレノアは思わず父を見たが、父は少し申し訳なさそうな顔をしているだけだ。
「お父様は、求婚のお相手がアレン様だと知っていたのですよね…?」
「……知っていたよ」
「どうして教えてくださらなかったんです?」
「私から話すことではないと思ったんだ」
困ったように答える父を見て、エレノアは何か言おうとした。
けれど、その前にアレクシスが口を開いた。
「子爵を責めないでくれ。黙っていてほしいと頼んだのは私だ」
エレノアは彼へ向き直った。
「どうして……」
「自分で話したかった」
その答えはあまりにも真っ直ぐだった。
エレノアは何も言えずに彼を見つめる。
5年前。
怪我をしてリーヴェへ来た青年。
アレンと名乗り、何度も一緒に話し、散歩をして、本の話をした人。
そして今、自分の目の前に立っているのは、王都中で名を知られているヴァルツェン侯爵だった。
昨日まで、どんな顔をしているのだろうと思っていた相手が、ずっと知っている人だった。
「求婚状も……アレン様が?」
「そうだ」
「どうして私に……」
その問いに、アレクシスは少しだけ目を細めた。
「それを言うために来た」
そう言うと、彼はエレノアの前で一歩下がった。
何をするのだろうと思った、その直後だった。
アレクシスが片膝をついた。
「……え?」
エレノアの目が大きく見開かれる。
周囲から小さなどよめきが起こった。
侯爵である彼が、子爵令嬢であるエレノアの前に膝をついている。
そんなことを気にする様子もなく、アレクシスはただエレノアだけを見上げていた。
「5年前、私は身分も名前も明かさずにリーヴェを去った」
低く落ち着いた声が、騒めきの残る広間に響く。
「それでも、君を忘れたことはない」
エレノアは息を呑んだ。
「戦争が終わるまで、君の人生を縛るようなことはしたくなかった。生きて帰れる保証もなかったからだ」
5年前、別れ際に交わした言葉が蘇る。
――生きて帰る。
あの約束を、彼も覚えている。
「だが、私は生きて帰った」
アレクシスの灰青色の瞳が、真っ直ぐエレノアを見つめる。
「だから今度は、何も隠さずに君に伝えたい」
一度言葉を切り、アレクシスははっきりと言った。
「エレノア・リーヴェルト嬢。私と結婚してほしい」
エレノアは声を失った。
昨日まで顔すら知らないと思っていた侯爵が、今、自分の前で膝をついている。
けれど、そこにいるのは知らない侯爵ではなかった。
5年前から、ずっと忘れられなかった人だった。




