18
翌朝、エレノアは窓から差し込む朝の光に目を覚ました。
しばらくぼんやりと天井を眺めていたが、見慣れない部屋であることに気づくと、ゆっくりと身を起こした。昨夜は王都へ到着したのが遅く、宿へ入ってから荷物を整理するだけですぐに休んでしまったため、ここが王都なのだという実感はまだあまりなかった。
けれど、窓辺へ歩み寄ってカーテンを開けた瞬間、その感覚は一気に変わった。
通りには、すでにたくさんの人が行き交っている。何台もの馬車が行き交う大通りの脇では店を開ける準備が進められ、荷物を積んだ馬車を誘導する者や、店先を掃除する者の姿も見える。少し離れたところでは、焼きたてのパンでも運んでいるのか、ふわりと甘い香りまで漂ってきた。
「……すごい」
思わず窓へ顔を寄せる。
リーヴェにも朝の街はある。けれど、これほど多くの人が、それぞれ違う目的を持って行き交っている光景を見るのは初めてだった。まだ一日の始まりだというのに、王都はすでに動き始めている。
「お嬢様、もう起きていらしたんですか?」
背後から声がして振り返ると、リナが着替えを手にして立っていた。
「ええ。見て、リナ。朝からこんなに人がいるのよ」
「昨日の夜も驚きましたけど、朝になるともっとですね」
「どんなお店があるのかしら。あそこは何のお店なのかしら……」
「ふふ。気になるのは分かりますけど、まずは着替えましょうか」
「分かっているわ」
そう答えながらも、エレノアは窓から離れようとしない。リナはそんな様子を見て小さく笑い、持ってきた着替えをベッドの上へ置いた。
「旦那様も、今日は王都でのお仕事があると仰っていましたし、街を見て回るならそのあとですね。まずは朝食をいただきましょう」
「そうね。でも、今日はたくさん歩きたいわ」
「ええ。せっかくですもの。ゆっくり見て回りましょう」
身支度を済ませ朝食を終える頃には、父も出かける支度を整えていた。
「今日は王宮へ行って、そのあと何人かの貴族の方々にも挨拶をする予定なんだ。復興について話しておきたいこともあるから、戻るのは夕方になるかもしれない」
「お忙しいんですね」
「ああ。戦争が終わったとはいえ、リーヴェのことがすぐに片付くわけではないからね。今のうちに話をしておきたいことも多いんだ」
父はそう言いながら窓の外へ目を向けた。
エレノアもつられて窓の外を見る。朝の通りには、昨日の夜には見えなかったほど多くの人が行き交っていた。馬車の音や店を開ける音まで聞こえてきて、眺めているだけでも、この街には一日をかけても見きれないほどたくさんのものがあるように思える。
「私はどうしようかしら」
「どうしたい?」
「せっかく王都へ来たんですから街を見てみたいです。昨日は着いたのが遅かったので、何も見られなかったでしょう?」
「そうだね。お前は昨日からずっと、それを楽しみにしていたものな」
「だって、王都に来るのは初めてなんですもの」
エレノアがそう言うと、父は楽しそうに笑った。
「それなら、今日はゆっくり見てくるといい。リナも一緒なら大丈夫だろう。気になる店があれば遠慮せずに入ってみなさい」
「よろしいのですか?」
「もちろん。ただし、夢中になりすぎて帰る時間を忘れないようにな」
「そんなことしません」
「さっきから窓の外ばかり見ているのに?」
「……それは、まだ何も見ていないからです」
エレノアが少し頬を膨らませると、父はまた笑った。
「そういうところは昔から変わらないね」
「お父様までリナみたいなことを言わないでください」
「ははは。では、今日は存分に王都を楽しんでくるといい」
父との他愛のないやり取りに、エレノアの気持ちも自然と弾んでいく。こうして仕事のことを考えずに街を歩くのは、いつ以来だろう。リーヴェがまだ復興の途中にあることを忘れるつもりはないけれど、少しくらい自分のために時間を使ってもいいのかもしれないと思えた。
父はそんなエレノアをしばらく眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、もう一つ話しておきたいことがある」
「何でしょう?」
「明後日の夜、王宮で夜会があるんだ。今回の王都滞在を考えれば、お前も出席しておいた方がいいと思っている」
エレノアは目を瞬いた。
「私が、夜会に?」
「ああ。お前も貴族の娘なのだから、いつまでも社交の場から離れているわけにもいかないだろう。リーヴェの復興が最優先だったのは分かっているし、今までそういう機会がなかったことを責めるつもりもない。ただ、せっかく王都へ来たんだ。これから領地のことを考えていくうえでも、顔を出しておいて損はないと思うよ」
エレノアは少し考えた。
社交界に出た経験はない。18歳になった頃には戦争が激しくなっていて、舞踏会どころではなかったし、その後も領地のことで手いっぱいだった。気づけば23歳になり、社交界デビューの機会を逃したまま今に至っている。
「……そうですね。私も、いつまでもリーヴェにこもっているわけにはいきませんものね」
「そういうことだよ」
「今からでも、私が出ていいものなのかしら」
「もちろん。お前が何か悪いことをして機会を逃したわけじゃないだろう? それに、これから先もリーヴェのために王都へ来ることはあるかもしれない。知っている顔が増えておくに越したことはないよ」
「それなら……」
エレノアは少し考えてから、窓の外へ目を向けた。
「出てみようかしら。王都の夜会というのも、どんな雰囲気なのか少し楽しみです」
「やっぱり、そこも気になるんだね」
父が笑う。
「せっかくの機会ですもの」
「そうか。では、出席するといい」
夜会へ出ることが決まると、エレノアはふと自分の服装を思い浮かべた。
「でも、夜会用のドレスなんて持ってきていませんよ?」
すると、それまで黙っていたリナが口を挟んだ。
「持ってきていますよ」
「え?」
「念のため、一着だけ。王都へ行くことになったとき、もしかしたら必要になるかもしれないと思って」
「リナ……」
エレノアが目を丸くすると、リナは少し嬉しそうに笑った。
「こういうときに役に立てればと思って、準備しておいたんです」
「私よりずっと用意がいいわね」
「お嬢様が王都へ行かれると聞いたときから、きっと何か必要になるだろうと思っていましたから」
「ありがとう、リナ」
父が2人のやり取りを聞きながら笑っている。
「では、決まりだね。夜会についてはまた帰ってから話そう。今日はせっかくだから、ゆっくり街を見てくるといい」
「はい。いってらっしゃいませ、お父様」
「お前も、気をつけて行ってくるんだよ」
父を見送ると、エレノアはすぐにリナへ振り返った。
「それじゃあ、行きましょう」
「ええ。どこから行きましょうか?」
「まずは大通りを歩いてみたいわ。それから、気になる店を見て回りましょう」
「ふふ。今日はゆっくり楽しめそうですね」
宿を出て大通りへ向かうと、エレノアはさっそく忙しそうに辺りを見回した。
昨日の夜には暗くてよく見えなかった街並みが、朝の光の中ではまったく違って見える。大きな建物が並び、その合間には衣服や装飾品を扱う店、食材を並べる店、見たことのない道具を扱う店まで軒を連ねている。店先に並べられた商品もリーヴェとは種類が違い、少し歩くだけで気になるものが次々と目に入ってくる。
「リナ、あれは何かしら?」
「何でしょうね。気になりますね」
「じゃあ、見てみましょう」
「ええ。ゆっくり見ていきましょうか」
エレノアは嬉しそうに店先へ近づいていく。
リナもその後を追いながら、楽しそうなエレノアの様子を微笑ましく見つめていた。
少し歩いただけでも、珍しいものを見つけるたびに足が止まってしまう。リーヴェにも商店はあるけれど、王都では扱われている品の数も種類もずっと多く、同じような品物でも王都では少し違って見えた。
やがて、甘い香りに誘われるようにエレノアが立ち止まった。
目の前にあったのは、色鮮やかな菓子が並べられた店だった。小さな焼き菓子に果物を使った菓子、砂糖で美しく飾られたものまで、見ているだけでも楽しくなるようなものばかりが並んでいる。
「まあ……綺麗」
「本当に綺麗ですね。どれも美味しそうです」
「だって、こんなに種類があるんですもの。リーヴェでは見たことがないわ」
「せっかくですし、いくつか選びましょうか」
「ええ。どれにしようかしら……」
エレノアはしばらく真剣な顔でショーケースを眺めていたが、ようやくいくつかを選んだ。包みを受け取ると、今度はそれを大切そうに抱えながら歩き始める。
「それにしても、王都って本当にいろいろあるのね」
「まだ大通りを少し歩いただけですよ。これからもっと見つかりそうですね」
「そうなの?」
「ええ。今日は時間を気にしながら、ゆっくり見て回りましょう」
「分かっているわ」
そう答えながらも、エレノアは次の店へ視線を向けていた。
そんな調子で歩いているうちに、気づけば昼が近づいていた。
そして、通りの向こうに大きな看板を見つけたエレノアが、また足を止める。
「……あれ」
「今度は何です?」
「書店よ」
エレノアの声が、先ほどまでとは明らかに違って弾んだ。
店の入口から中を覗くと、天井近くまで届く本棚が何列も並んでいるのが見える。奥にもまだ棚が続いているようで、外から見ただけでもかなり大きな店だと分かった。
「入ってみましょう!」
「ええ、行ってみましょうか」
扉を開けたエレノアは、店内へ一歩足を踏み入れたところで立ち止まった。
「……すごい」
思わず漏れた声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
壁一面に並んだ本棚には、ぎっしりと本が収められている。歴史や地理に関するものだけではなく、農業、建築、商業、薬草、料理など、実用的な本まで幅広く揃っていた。もちろん物語や詩集も数え切れないほどあり、どこを見てもエレノアの興味を引くものばかりだった。
「こんなに……」
エレノアは一冊を手に取って表紙を眺めると、すぐ隣の棚へ目を移した。
「リナ、これを見て。農地の改良について書かれているわ」
「本当ですね」
「こっちは街道の整備についてよ。こっちは商業の話かしら。リーヴェの復興にも使えそうなものがたくさんあるわね」
目についた本を次々に手に取っては、目次や内容を確かめていく。
復興に役立ちそうな本を見つけるたびに嬉しそうにページをめくり、少し先へ進めば今度は歴史書が目に入り、その隣には見慣れない国の物語まで並んでいる。
「こんな本まで置いてあるのね」
「本当にたくさんありますね。これなら一日いても見終わらなさそうです」
エレノアはそう言って、本棚を見上げた。
本が好きなのは昔からだった。けれど、これほど多くの本を一度に見られる場所は初めてで、どれだけ見ていても飽きる気がしない。
「お嬢様、今日は本を買いに来たんですか?」
「もちろん、それもあるけれど……」
エレノアは物語の棚へ移ると、今度は違う意味で目を輝かせた。
「こっちも見たいわ」
「復興の本だけでなく、物語まで買うんですね」
「だって、こんなにあるのよ? 一冊だけなんて選べないわ」
「ええ。せっかくですから、ゆっくり選びましょう。ただ、帰るときに持てるくらいにはしてくださいね」
「分かっているわ。だからちゃんと選ぶもの」
そう言ったものの、エレノアが一冊を選び終えるまでにはかなりの時間がかかった。
実用書の中からリーヴェで役立ちそうなものを選び、次に物語の棚へ行っては、気になる題名を見つけて手に取る。ようやく数冊に絞り込んだ頃には、最初に店へ入ったときからかなりの時間が経っていた。
そのとき、エレノアは手にした本を眺めながら、ふと昔のことを思い出した。
「そういえば……」
「どうしました?」
「5年前、アレン様が王都の書店は大きいって話してくれたでしょう?」
リナは少し考えてから頷いた。
「そうでしたね」
「私が本が好きだからって、王都へ来たらぜひ行ってみるといいって教えてくれたの。それに……王都へ来たら、街も案内してくれるって約束してくれたわ」
エレノアは本棚を見回した。
あのときは、王都にこんなに大きな書店があるのだと聞いて、いつか行ってみたいと思った。街のことを話しているうちに、いつか自分が王都へ来たら案内すると言ってくれたことも覚えている。
けれど、その約束が叶うことはなかった。
アレンがリーヴェを去ってから5年が経ち、今ではどこで何をしているのかさえ分からない。戦争が激しくなってからは、それぞれが自分のことで精いっぱいになり、便りを交わすような余裕もなかった。
「……あの頃は、いつか本当に来られるなんて思っていなかったわ」
エレノアは小さく笑った。
寂しさがないわけではない。
けれど、思い出すのは悲しいことよりも、東屋で本の話をしたことや、庭で他愛のない話をしたこと、雨上がりの道を一緒に歩いたことばかりだった。アレンと過ごした時間は、5年が経った今も、エレノアの中では大切な思い出として残っている。
「アレン様に教えてもらっていなかったら、こんな場所があることも知らなかったでしょうね」
「それなら、教えてもらえてよかったですね」
「ええ。本当に」
エレノアは選んだ本を胸元へ抱え直した。
叶わなかった約束を思えば少しだけ胸が痛む。それでも、アレンが自分の好きなものを覚えていてくれたことや、こうして今その場所に立っていることを思うと、不思議と温かな気持ちにもなった。
「そろそろ出ましょうか」
リナに声をかけられて、エレノアは名残惜しそうに本棚を振り返った。
「まだ見ていないところがあるのだけれど……」
「また来ましょう。まだ時間はありますから」
「……そうね」
そう答えたものの、エレノアは最後まで何度も後ろを振り返った。
書店を出る頃には、昼を少し過ぎていた。
買った本の入った包みを抱えながら歩いていると、エレノアは先ほど見つけた本のことを楽しそうに話し始めた。農地について書かれた本の中には、リーヴェでも試せそうなことがいくつかあったし、物語の本も思っていた以上に種類が多かった。
「本当に、今日だけでは見きれなかったわ」
「ずいぶん気に入られたみたいですね」
「こんなにたくさんの本を見たのは初めてだもの」
「きっと、まだまだ面白い本が見つかりますね」
そんな話をしながら歩いていると、エレノアのお腹が小さく鳴った。
リナが笑いながらエレノアを見る。
「……お腹が空いたんですね」
「本に夢中になっていて忘れていたわ」
「でしょうね」
「何か食べましょう。せっかく王都に来たんだもの。こちらでしか食べられないものもあるかもしれないわ」
「そうしましょう。私も少しお腹が空きました」
2人はしばらく歩きながら店を探した。
やがて通りの角に、落ち着いた雰囲気の店が見えてきた。大きな窓から店内の様子が見え、テーブルには紅茶や菓子が並んでいる。昼を少し過ぎているせいか、店内にはゆったりと過ごしている客の姿が多かった。
「ここ、入ってみない?」
「いいですね。少し座りましょう」
店へ入ると、2人は窓際の席へ案内された。
紅茶と菓子を注文し、ようやく一息つく。エレノアは買ったばかりの本の包みを嬉しそうに眺めていたが、しばらくすると、少し離れた席から聞こえてきた会話にふと耳を傾けた。
「ねえ、明後日の夜会にはヴァルツェン侯爵もいらっしゃるのかしら?」
その名前を聞いた瞬間、エレノアの手が止まった。
「どうでしょう。侯爵が夜会に出席されることなんて、滅多にないでしょう?」
「でも、最近は少し社交の場に顔を出されるようになったって聞いたわ」
「そうなの? 一度くらいお姿を拝見してみたいわ」
「私も。ヴァルツェン侯爵って、本当にお綺麗なんでしょう?」
「ええ。私の姉が以前お見かけしたそうだけれど、とても素敵だったって。あれだけ若くて侯爵家を継いでいて、そのうえお顔までいいなんて、ずるいわよね」
令嬢たちは楽しそうに笑っている。
エレノアは聞くつもりなどなかったのに、自分に届いた求婚状の相手の話だと思うと、どうしても気になってしまった。
「でも、明後日の夜会なら、さすがに出席されるんじゃない?」
「どうかしら。あの方、いつも夜会にはいらっしゃらないもの」
「残念ね。一度くらい見てみたいのに」
そんな話を聞いているうちに、エレノアはふと妙なことに気がついた。
――そういえば、私。
侯爵の顔を知らない。
名前なら知っている。戦争中に軍を率いていたことも、王都ではかなり名の知られた人物だということも、昨日までに父から聞いている。それに、こうして街の女性たちが噂するほど有名な人物なのだということも、今初めて実感した。
けれど、顔だけは知らなかった。
昨日、ヴァルツェン侯爵家から正式な求婚状を受け取ったばかりだというのに、その相手の顔を一度も見たことがない。
そう考えると、なんだか妙な話だった。
「お嬢様?」
リナの声に、エレノアは我に返った。
「何?」
「先ほどから、侯爵の話を聞いていましたよね」
「聞くつもりはなかったんだけど……」
エレノアは少し困ったように笑った。
「私のところへ求婚状を送ってきた方だから、やっぱり気になってしまって」
「そうですよね。私も気になります」
「それに、私、侯爵のお顔も知らないのよ」
「そういえば、まだ一度もお会いしていませんものね」
「名前やお話はよく聞いていたのに、本人を見たことは一度もないわ」
エレノアはそう言って、紅茶へ口をつけた。
女性たちの話を聞いていると、ますます不思議な気分になる。自分の知らないところでこれほど有名な人物が、自分へ正式な求婚状を送ってきたのだ。
どうして自分なのか。
その疑問は、やはり消えない。
「明後日の夜会で、もしかしたらお会いできるかもしれませんね」
「そうね。侯爵が出席されるなら、だけど」
「出席されなかったら?」
「……そのときは、どうしましょうね」
エレノアは少し考え、ふっと笑った。
「せっかく王都まで来たんだもの。夜会は夜会で楽しめばいいわ」
リナも笑う。
「ええ。きっと楽しい夜になりますよ」
「侯爵様のことばかり考えていたら、せっかくの王都を楽しめないでしょう?」
「そうですね。せっかくの王都ですもの」
そう言ったものの、店を出てからもしばらく、エレノアの頭の片隅には侯爵のことが残っていた。
どんな顔をしているのだろう。
どんな声で話す人なのだろう。
街で聞いた噂では、とても素敵な方らしい。それなのに、自分はその人から求婚されたという事実だけを持ったまま、本人について何も知らない。
考えれば考えるほど、やっぱり不思議だった。
それでも、王都にはまだ見たいものがたくさんある。
エレノアは再び街並みへ目を向け、書店へ行く途中で気になっていた店を見つけると、今度はそちらへ足を向けた。
夕方近くまで街を歩き回り、宿へ戻る頃には、腕に抱えた本の重みさえ嬉しく感じるほど、一日を満喫していた。
部屋へ戻ると、リナが夜会用に持ってきたドレスを改めて取り出した。
「明後日は、こちらを着ていただきますからね」
「本当に持ってきてくれていて助かったわ」
「お役に立ててよかったです」
ドレスを眺めたあと、エレノアは今日買った本へ視線を移した。
「まだまだ見足りなかったわね」
「それなら、旦那様にご予定を聞いてみましょう。明日も行けるかもしれませんよ」
「うん」
エレノアも嬉しそうに笑った。
けれど、ふと窓の外へ目を向けると、昼間に聞いた令嬢たちの言葉がまた頭に浮かんだ。
ヴァルツェン侯爵。
明後日の夜会で、その人に会うかもしれない。
自分に求婚した人なのだから、もちろん気にはなる。けれど今は、まだその人の顔さえ知らないことの方が妙に可笑しかった。
「……どんな方なのかしら」
そう呟いてから、エレノアは今日買ったばかりの本を開いた。
明後日の夜会のことを考えるのは、もう少しあとでいい。エレノアは本を開き、ほどなくしてその続きを夢中で読み始めた。
レノアは窓から差し込む朝の光に目を覚ました。
しばらくぼんやりと天井を眺めていたが、見慣れない部屋であることに気づくと、ゆっくりと身を起こした。昨夜は王都へ到着したのが遅く、宿へ入ってから荷物を整理するだけですぐに休んでしまったため、ここが王都なのだという実感はまだあまりなかった。
けれど、窓辺へ歩み寄ってカーテンを開けた瞬間、その感覚は一気に変わった。
通りには、すでにたくさんの人が行き交っている。何台もの馬車が行き交う大通りの脇では店を開ける準備が進められ、荷物を積んだ馬車を誘導する者や、店先を掃除する者の姿も見える。少し離れたところでは、焼きたてのパンでも運んでいるのか、ふわりと甘い香りまで漂ってきた。
「……すごい」
思わず窓へ顔を寄せる。
リーヴェにも朝の街はある。けれど、これほど多くの人が、それぞれ違う目的を持って行き交っている光景を見るのは初めてだった。まだ一日の始まりだというのに、王都はすでに動き始めている。
「お嬢様、もう起きていらしたんですか?」
背後から声がして振り返ると、リナが着替えを手にして立っていた。
「ええ。見て、リナ。朝からこんなに人がいるのよ」
「昨日の夜も驚きましたけど、朝になるともっとですね」
「どんなお店があるのかしら。あそこは何のお店なのかしら……」
「ふふ。気になるのは分かりますけど、まずは着替えましょうか」
「分かっているわ」
そう答えながらも、エレノアは窓から離れようとしない。リナはそんな様子を見て小さく笑い、持ってきた着替えをベッドの上へ置いた。
「旦那様も、今日は王都でのお仕事があると仰っていましたし、街を見て回るならそのあとですね。まずは朝食をいただきましょう」
「そうね。でも、今日はたくさん歩きたいわ」
「ええ。せっかくですもの。ゆっくり見て回りましょう」
身支度を済ませ朝食を終える頃には、父も出かける支度を整えていた。
「今日は王宮へ行って、そのあと何人かの貴族の方々にも挨拶をする予定なんだ。復興について話しておきたいこともあるから、戻るのは夕方になるかもしれない」
「お忙しいんですね」
「ああ。戦争が終わったとはいえ、リーヴェのことがすぐに片付くわけではないからね。今のうちに話をしておきたいことも多いんだ」
父はそう言いながら窓の外へ目を向けた。
エレノアもつられて窓の外を見る。朝の通りには、昨日の夜には見えなかったほど多くの人が行き交っていた。馬車の音や店を開ける音まで聞こえてきて、眺めているだけでも、この街には一日をかけても見きれないほどたくさんのものがあるように思える。
「私はどうしようかしら」
「どうしたい?」
「せっかく王都へ来たんですから街を見てみたいです。昨日は着いたのが遅かったので、何も見られなかったでしょう?」
「そうだね。お前は昨日からずっと、それを楽しみにしていたものな」
「だって、王都に来るのは初めてなんですもの」
エレノアがそう言うと、父は楽しそうに笑った。
「それなら、今日はゆっくり見てくるといい。リナも一緒なら大丈夫だろう。気になる店があれば遠慮せずに入ってみなさい」
「よろしいのですか?」
「もちろん。ただし、夢中になりすぎて帰る時間を忘れないようにな」
「そんなことしません」
「さっきから窓の外ばかり見ているのに?」
「……それは、まだ何も見ていないからです」
エレノアが少し頬を膨らませると、父はまた笑った。
「そういうところは昔から変わらないね」
「お父様までリナみたいなことを言わないでください」
「ははは。では、今日は存分に王都を楽しんでくるといい」
父との他愛のないやり取りに、エレノアの気持ちも自然と弾んでいく。こうして仕事のことを考えずに街を歩くのは、いつ以来だろう。リーヴェがまだ復興の途中にあることを忘れるつもりはないけれど、少しくらい自分のために時間を使ってもいいのかもしれないと思えた。
父はそんなエレノアをしばらく眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、もう一つ話しておきたいことがある」
「何でしょう?」
「明後日の夜、王宮で夜会があるんだ。今回の王都滞在を考えれば、お前も出席しておいた方がいいと思っている」
エレノアは目を瞬いた。
「私が、夜会に?」
「ああ。お前も貴族の娘なのだから、いつまでも社交の場から離れているわけにもいかないだろう。リーヴェの復興が最優先だったのは分かっているし、今までそういう機会がなかったことを責めるつもりもない。ただ、せっかく王都へ来たんだ。これから領地のことを考えていくうえでも、顔を出しておいて損はないと思うよ」
エレノアは少し考えた。
社交界に出た経験はない。18歳になった頃には戦争が激しくなっていて、舞踏会どころではなかったし、その後も領地のことで手いっぱいだった。気づけば23歳になり、社交界デビューの機会を逃したまま今に至っている。
「……そうですね。私も、いつまでもリーヴェにこもっているわけにはいきませんものね」
「そういうことだよ」
「今からでも、私が出ていいものなのかしら」
「もちろん。お前が何か悪いことをして機会を逃したわけじゃないだろう? それに、これから先もリーヴェのために王都へ来ることはあるかもしれない。知っている顔が増えておくに越したことはないよ」
「それなら……」
エレノアは少し考えてから、窓の外へ目を向けた。
「出てみようかしら。王都の夜会というのも、どんな雰囲気なのか少し楽しみです」
「やっぱり、そこも気になるんだね」
父が笑う。
「せっかくの機会ですもの」
「そうか。では、出席するといい」
夜会へ出ることが決まると、エレノアはふと自分の服装を思い浮かべた。
「でも、夜会用のドレスなんて持ってきていませんよ?」
すると、それまで黙っていたリナが口を挟んだ。
「持ってきていますよ」
「え?」
「念のため、一着だけ。王都へ行くことになったとき、もしかしたら必要になるかもしれないと思って」
「リナ……」
エレノアが目を丸くすると、リナは少し嬉しそうに笑った。
「こういうときに役に立てればと思って、準備しておいたんです」
「私よりずっと用意がいいわね」
「お嬢様が王都へ行かれると聞いたときから、きっと何か必要になるだろうと思っていましたから」
「ありがとう、リナ」
父が2人のやり取りを聞きながら笑っている。
「では、決まりだね。夜会についてはまた帰ってから話そう。今日はせっかくだから、ゆっくり街を見てくるといい」
「はい。いってらっしゃいませ、お父様」
「お前も、気をつけて行ってくるんだよ」
父を見送ると、エレノアはすぐにリナへ振り返った。
「それじゃあ、行きましょう」
「ええ。どこから行きましょうか?」
「まずは大通りを歩いてみたいわ。それから、気になる店を見て回りましょう」
「ふふ。今日はゆっくり楽しめそうですね」
宿を出て大通りへ向かうと、エレノアはさっそく忙しそうに辺りを見回した。
昨日の夜には暗くてよく見えなかった街並みが、朝の光の中ではまったく違って見える。大きな建物が並び、その合間には衣服や装飾品を扱う店、食材を並べる店、見たことのない道具を扱う店まで軒を連ねている。店先に並べられた商品もリーヴェとは種類が違い、少し歩くだけで気になるものが次々と目に入ってくる。
「リナ、あれは何かしら?」
「何でしょうね。気になりますね」
「じゃあ、見てみましょう」
「ええ。ゆっくり見ていきましょうか」
エレノアは嬉しそうに店先へ近づいていく。
リナもその後を追いながら、楽しそうなエレノアの様子を微笑ましく見つめていた。
少し歩いただけでも、珍しいものを見つけるたびに足が止まってしまう。リーヴェにも商店はあるけれど、王都では扱われている品の数も種類もずっと多く、同じような品物でも王都では少し違って見えた。
やがて、甘い香りに誘われるようにエレノアが立ち止まった。
目の前にあったのは、色鮮やかな菓子が並べられた店だった。小さな焼き菓子に果物を使った菓子、砂糖で美しく飾られたものまで、見ているだけでも楽しくなるようなものばかりが並んでいる。
「まあ……綺麗」
「本当に綺麗ですね。どれも美味しそうです」
「だって、こんなに種類があるんですもの。リーヴェでは見たことがないわ」
「せっかくですし、いくつか選びましょうか」
「ええ。どれにしようかしら……」
エレノアはしばらく真剣な顔でショーケースを眺めていたが、ようやくいくつかを選んだ。包みを受け取ると、今度はそれを大切そうに抱えながら歩き始める。
「それにしても、王都って本当にいろいろあるのね」
「まだ大通りを少し歩いただけですよ。これからもっと見つかりそうですね」
「そうなの?」
「ええ。今日は時間を気にしながら、ゆっくり見て回りましょう」
「分かっているわ」
そう答えながらも、エレノアは次の店へ視線を向けていた。
そんな調子で歩いているうちに、気づけば昼が近づいていた。
そして、通りの向こうに大きな看板を見つけたエレノアが、また足を止める。
「……あれ」
「今度は何です?」
「書店よ」
エレノアの声が、先ほどまでとは明らかに違って弾んだ。
店の入口から中を覗くと、天井近くまで届く本棚が何列も並んでいるのが見える。奥にもまだ棚が続いているようで、外から見ただけでもかなり大きな店だと分かった。
「入ってみましょう!」
「ええ、行ってみましょうか」
扉を開けたエレノアは、店内へ一歩足を踏み入れたところで立ち止まった。
「……すごい」
思わず漏れた声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
壁一面に並んだ本棚には、ぎっしりと本が収められている。歴史や地理に関するものだけではなく、農業、建築、商業、薬草、料理など、実用的な本まで幅広く揃っていた。もちろん物語や詩集も数え切れないほどあり、どこを見てもエレノアの興味を引くものばかりだった。
「こんなに……」
エレノアは一冊を手に取って表紙を眺めると、すぐ隣の棚へ目を移した。
「リナ、これを見て。農地の改良について書かれているわ」
「本当ですね」
「こっちは街道の整備についてよ。こっちは商業の話かしら。リーヴェの復興にも使えそうなものがたくさんあるわね」
目についた本を次々に手に取っては、目次や内容を確かめていく。
復興に役立ちそうな本を見つけるたびに嬉しそうにページをめくり、少し先へ進めば今度は歴史書が目に入り、その隣には見慣れない国の物語まで並んでいる。
「こんな本まで置いてあるのね」
「本当にたくさんありますね。これなら一日いても見終わらなさそうです」
エレノアはそう言って、本棚を見上げた。
本が好きなのは昔からだった。けれど、これほど多くの本を一度に見られる場所は初めてで、どれだけ見ていても飽きる気がしない。
「お嬢様、今日は本を買いに来たんですか?」
「もちろん、それもあるけれど……」
エレノアは物語の棚へ移ると、今度は違う意味で目を輝かせた。
「こっちも見たいわ」
「復興の本だけでなく、物語まで買うんですね」
「だって、こんなにあるのよ? 一冊だけなんて選べないわ」
「ええ。せっかくですから、ゆっくり選びましょう。ただ、帰るときに持てるくらいにはしてくださいね」
「分かっているわ。だからちゃんと選ぶもの」
そう言ったものの、エレノアが一冊を選び終えるまでにはかなりの時間がかかった。
実用書の中からリーヴェで役立ちそうなものを選び、次に物語の棚へ行っては、気になる題名を見つけて手に取る。ようやく数冊に絞り込んだ頃には、最初に店へ入ったときからかなりの時間が経っていた。
そのとき、エレノアは手にした本を眺めながら、ふと昔のことを思い出した。
「そういえば……」
「どうしました?」
「5年前、アレン様が王都の書店は大きいって話してくれたでしょう?」
リナは少し考えてから頷いた。
「そうでしたね」
「私が本が好きだからって、王都へ来たらぜひ行ってみるといいって教えてくれたの。それに……王都へ来たら、街も案内してくれるって約束してくれたわ」
エレノアは本棚を見回した。
あのときは、王都にこんなに大きな書店があるのだと聞いて、いつか行ってみたいと思った。街のことを話しているうちに、いつか自分が王都へ来たら案内すると言ってくれたことも覚えている。
けれど、その約束が叶うことはなかった。
アレンがリーヴェを去ってから5年が経ち、今ではどこで何をしているのかさえ分からない。戦争が激しくなってからは、それぞれが自分のことで精いっぱいになり、便りを交わすような余裕もなかった。
「……あの頃は、いつか本当に来られるなんて思っていなかったわ」
エレノアは小さく笑った。
寂しさがないわけではない。
けれど、思い出すのは悲しいことよりも、東屋で本の話をしたことや、庭で他愛のない話をしたこと、雨上がりの道を一緒に歩いたことばかりだった。アレンと過ごした時間は、5年が経った今も、エレノアの中では大切な思い出として残っている。
「アレン様に教えてもらっていなかったら、こんな場所があることも知らなかったでしょうね」
「それなら、教えてもらえてよかったですね」
「ええ。本当に」
エレノアは選んだ本を胸元へ抱え直した。
叶わなかった約束を思えば少しだけ胸が痛む。それでも、アレンが自分の好きなものを覚えていてくれたことや、こうして今その場所に立っていることを思うと、不思議と温かな気持ちにもなった。
「そろそろ出ましょうか」
リナに声をかけられて、エレノアは名残惜しそうに本棚を振り返った。
「まだ見ていないところがあるのだけれど……」
「また来ましょう。まだ時間はありますから」
「……そうね」
そう答えたものの、エレノアは最後まで何度も後ろを振り返った。
書店を出る頃には、昼を少し過ぎていた。
買った本の入った包みを抱えながら歩いていると、エレノアは先ほど見つけた本のことを楽しそうに話し始めた。農地について書かれた本の中には、リーヴェでも試せそうなことがいくつかあったし、物語の本も思っていた以上に種類が多かった。
「本当に、今日だけでは見きれなかったわ」
「ずいぶん気に入られたみたいですね」
「こんなにたくさんの本を見たのは初めてだもの」
「きっと、まだまだ面白い本が見つかりますね」
そんな話をしながら歩いていると、エレノアのお腹が小さく鳴った。
リナが笑いながらエレノアを見る。
「……お腹が空いたんですね」
「本に夢中になっていて忘れていたわ」
「でしょうね」
「何か食べましょう。せっかく王都に来たんだもの。こちらでしか食べられないものもあるかもしれないわ」
「そうしましょう。私も少しお腹が空きました」
2人はしばらく歩きながら店を探した。
やがて通りの角に、落ち着いた雰囲気の店が見えてきた。大きな窓から店内の様子が見え、テーブルには紅茶や菓子が並んでいる。昼を少し過ぎているせいか、店内にはゆったりと過ごしている客の姿が多かった。
「ここ、入ってみない?」
「いいですね。少し座りましょう」
店へ入ると、2人は窓際の席へ案内された。
紅茶と菓子を注文し、ようやく一息つく。エレノアは買ったばかりの本の包みを嬉しそうに眺めていたが、しばらくすると、少し離れた席から聞こえてきた会話にふと耳を傾けた。
「ねえ、明後日の夜会にはヴァルツェン侯爵もいらっしゃるのかしら?」
その名前を聞いた瞬間、エレノアの手が止まった。
「どうでしょう。侯爵が夜会に出席されることなんて、滅多にないでしょう?」
「でも、最近は少し社交の場に顔を出されるようになったって聞いたわ」
「そうなの? 一度くらいお姿を拝見してみたいわ」
「私も。ヴァルツェン侯爵って、本当にお綺麗なんでしょう?」
「ええ。私の姉が以前お見かけしたそうだけれど、とても素敵だったって。あれだけ若くて侯爵家を継いでいて、そのうえお顔までいいなんて、ずるいわよね」
令嬢たちは楽しそうに笑っている。
エレノアは聞くつもりなどなかったのに、自分に届いた求婚状の相手の話だと思うと、どうしても気になってしまった。
「でも、明後日の夜会なら、さすがに出席されるんじゃない?」
「どうかしら。あの方、いつも夜会にはいらっしゃらないもの」
「残念ね。一度くらい見てみたいのに」
そんな話を聞いているうちに、エレノアはふと妙なことに気がついた。
――そういえば、私。
侯爵の顔を知らない。
名前なら知っている。戦争中に軍を率いていたことも、王都ではかなり名の知られた人物だということも、昨日までに父から聞いている。それに、こうして街の女性たちが噂するほど有名な人物なのだということも、今初めて実感した。
けれど、顔だけは知らなかった。
昨日、ヴァルツェン侯爵家から正式な求婚状を受け取ったばかりだというのに、その相手の顔を一度も見たことがない。
そう考えると、なんだか妙な話だった。
「お嬢様?」
リナの声に、エレノアは我に返った。
「何?」
「先ほどから、侯爵の話を聞いていましたよね」
「聞くつもりはなかったんだけど……」
エレノアは少し困ったように笑った。
「私のところへ求婚状を送ってきた方だから、やっぱり気になってしまって」
「そうですよね。私も気になります」
「それに、私、侯爵のお顔も知らないのよ」
「そういえば、まだ一度もお会いしていませんものね」
「名前やお話はよく聞いていたのに、本人を見たことは一度もないわ」
エレノアはそう言って、紅茶へ口をつけた。
女性たちの話を聞いていると、ますます不思議な気分になる。自分の知らないところでこれほど有名な人物が、自分へ正式な求婚状を送ってきたのだ。
どうして自分なのか。
その疑問は、やはり消えない。
「明後日の夜会で、もしかしたらお会いできるかもしれませんね」
「そうね。侯爵が出席されるなら、だけど」
「出席されなかったら?」
「……そのときは、どうしましょうね」
エレノアは少し考え、ふっと笑った。
「せっかく王都まで来たんだもの。夜会は夜会で楽しめばいいわ」
リナも笑う。
「ええ。きっと楽しい夜になりますよ」
「侯爵様のことばかり考えていたら、せっかくの王都を楽しめないでしょう?」
「そうですね。せっかくの王都ですもの」
そう言ったものの、店を出てからもしばらく、エレノアの頭の片隅には侯爵のことが残っていた。
どんな顔をしているのだろう。
どんな声で話す人なのだろう。
街で聞いた噂では、とても素敵な方らしい。それなのに、自分はその人から求婚されたという事実だけを持ったまま、本人について何も知らない。
考えれば考えるほど、やっぱり不思議だった。
それでも、王都にはまだ見たいものがたくさんある。
エレノアは再び街並みへ目を向け、書店へ行く途中で気になっていた店を見つけると、今度はそちらへ足を向けた。
夕方近くまで街を歩き回り、宿へ戻る頃には、腕に抱えた本の重みさえ嬉しく感じるほど、一日を満喫していた。
部屋へ戻ると、リナが夜会用に持ってきたドレスを改めて取り出した。
「明後日は、こちらを着ていただきますからね」
「本当に持ってきてくれていて助かったわ」
「お役に立ててよかったです」
ドレスを眺めたあと、エレノアは今日買った本へ視線を移した。
「まだまだ見足りなかったわね」
「それなら、旦那様にご予定を聞いてみましょう。明日も行けるかもしれませんよ」
「うん」
エレノアも嬉しそうに笑った。
けれど、ふと窓の外へ目を向けると、昼間に聞いた令嬢たちの言葉がまた頭に浮かんだ。
ヴァルツェン侯爵。
明後日の夜会で、その人に会うかもしれない。
自分に求婚した人なのだから、もちろん気にはなる。けれど今は、まだその人の顔さえ知らないことの方が妙に可笑しかった。
「……どんな方なのかしら」
そう呟いてから、エレノアは今日買ったばかりの本を開いた。
明後日の夜会のことを考えるのは、もう少しあとでいい。エレノアは本を開き、ほどなくしてその続きを夢中で読み始めた。




