第2章 17話
あれから5年が経った。
アレンがリーヴェを去ってから、エレノアの暮らしは大きく変わった。
戦況が悪化するにつれて領地の状況も厳しくなり、戦争が終わるまでの間、エレノアは父の仕事を手伝いながら領民の暮らしを支えてきた。食料や物資が足りなければその手配をし、住む場所を失った人がいれば使える建物を探し、手が足りないところがあれば自分も加わった。
それが特別なことだとは思っていない。
困っている人がいるなら助けたいし、自分にできることがあるなら手伝えばいい。ただそれだけの気持ちで動いているうちに、5年という月日が過ぎていた。
戦争が終わってからも、リーヴェにはまだ復興の途中にある場所がいくつも残っている。それでも、戦争中のように明日のことまで心配しなければならない状況ではなくなり、街道を行き交う人も少しずつ増えてきた。壊れた家を建て直す音や、荒れていた農地を耕す人の姿も、以前よりずっと多くなっている。
その日の午後も、エレノアは屋敷の一室で領地から届いた書類を整理していた。
「この村は、次の荷が届くまで少し足りないかもしれませんね」
帳簿を確認しながらエレノアが言うと、向かいに座っていた使用人が頷いた。
「倉庫に残っている分を回せば、なんとかなると思います」
「では、そちらを先に手配しておきましょう。別の村からも追加の要請が来ていますから、在庫を確認して、足りなくならないようにお願いします」
「承知しました」
使用人が書類を受け取って部屋を出ていく。
エレノアは残った帳簿に目を戻したところで、廊下から父の声が聞こえた。
「エレノア、少し時間はあるかい?」
「はい。ちょうど今の分が終わったところです」
顔を上げると、父が扉のところに立っている。
「それなら、少し話そう。お茶でも飲まないか?」
「いいですね。朝からずっと動いていたので、ちょうど休もうかと思っていたところです」
「それはよかった」
父に促されて執務室へ移ると、ほどなくして紅茶が運ばれてきた。
エレノアがカップに口をつけて一息つくと、父は窓の外へ目を向けた。
「こうして見ると、ずいぶん変わったね」
「はい。まだ直さなければならないところはありますけど、前よりずっと落ち着きました」
エレノアも窓の外を見る。
街にはまだ戦争の跡が残っている。それでも、少しずつ人の暮らしが戻ってきているのを見ると、ここまで来たのだという実感があった。
「農地の方も、今年は去年より良くなりそうですし、働き手が戻ってきてくれたところもあります。まだ時間はかかると思いますけど、これなら少しずつ元の暮らしに近づけていけそうですね」
「そうだね。お前もよく手伝ってくれた」
「私はできることをしていただけです」
いつものように答えると、父は苦笑した。
「そう言うと思ったよ」
「本当にそうですよ。私だけが頑張ったわけではありませんし」
「それはそうだ。でも、だからといってお前が何もしていないことにはならないだろう?」
エレノアは少し考えてから、紅茶を一口飲んだ。
自分では、父や使用人たちと一緒に動いてきただけという感覚しかない。目の前に困っている人がいれば手を貸す。それを繰り返していただけだから、改めて頑張ったと言われると、どう返せばいいのか分からなくなる。
父はそんな娘を見ながら、少しだけ笑った。
「だからね。リーヴェもようやく落ち着いてきたことだし、そろそろお前も自分のことを考えていいんじゃないかと思っているんだ」
「私のこと、ですか?」
「ああ。急かすつもりはないよ。ただ、お前ももう23だろう。これまで領地や領民のことを優先してきた分、これから先、自分がどうしたいのかを考えてみてもいいと思ってね」
「これから先……」
その言葉を聞いたとき、エレノアの頭にふと浮かんだのは、5年前のことだった。
まだ18歳だった自分と、リーヴェで療養していた青年。
アレン。
東屋で他愛のない話をしたことも、庭で花の芽を見つけたことも、雨上がりの道を一緒に歩いたことも、今でも覚えている。どれも大きな出来事ではなかったけれど、アレンと過ごした時間は、エレノアにとって大切なものだった。
離れてから5年も経っている。
その間、戦争が激しくなり、領地のことに追われる毎日が続いた。アレンのことを考える暇もないほど忙しい日もあったし、いつかまた会えるのだろうかと考えながらも、そのことを誰かに話したことはなかった。
けれど、「自分のことを考える」と言われると、真っ先に思い浮かんだのが彼だった。
もし結婚するとしたら。
そんなことを考えたことさえなかったのに、今、初めてその先を想像しようとして、そこにアレンがいることに気づいた。
「……アレン様」
小さく名前を口にしてから、エレノアは慌てて口を閉じた。
「どうした?」
「いえ……何でもありません」
父はそれ以上聞かなかった。
エレノアはカップの中へ目を落とした。
アレンと過ごした時間は、今でも大切だ。
5年も経ったのだから、いつか別の誰かを好きになることもあるのだろうと思っていた。けれど、そうなることはなかった。だからといって、それを悲しいとも思っていない。ただ、今の自分が誰かと結婚するところを想像すると、どうしてもアレンのことが頭に浮かんでしまう。
「私、まだ結婚することを考えたことがなくて」
エレノアがそう言うと、父は穏やかに頷いた。
「分かっているよ。だから急かしているわけではないんだ。ただ、これからそういう話が出てきたときに、最初から遠ざけなくてもいいと思っている。相手と会って話してみて、それから自分で決めればいい」
「そうですね」
エレノアが頷いたところで、父は机の端に置いてあった封筒へ手を伸ばした。
「実は、今日その話をしようと思ったのも、これが届いたからなんだ」
「手紙ですか?」
「王都からだよ」
差し出された封筒を受け取り、エレノアはそこに押された紋章を見た。
「……ヴァルツェン侯爵家?」
「そうだよ」
その名前なら、エレノアも知っている。アレクシス・フォン・ヴァルツェン侯爵。戦時中に軍を率いていたことでも知られ、今では若き侯爵として王都で名を知られている人物だった。
けれど、そんな侯爵家から自分に手紙が届く理由など思いつかず、エレノアは封筒と父の顔を交互に見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「中身を見ても?」
「もちろん」
許しを得て封を切り、中の便箋を取り出す。そこに書かれていた内容へ目を通していくうち、エレノアの表情が少しずつ変わっていった。
一通り読み終えても、すぐには内容を理解できなかった。自分の読み方が間違っているのではないかと思い、もう一度最初から目を通してみると、そこに並んでいる言葉は何度読んでも同じ意味を示している。
それは、ヴァルツェン侯爵家当主アレクシス・フォン・ヴァルツェン侯爵から、エレノア・リーヴェルトへ宛てられた正式な求婚状だった。
「……お父様」
「うん?」
「これ……私への求婚ですよね?」
「そうだね」
「どうして私に……?」
思わず父の顔を見る。
侯爵と面識があるわけでもない。そもそも、これまで侯爵家と親しく付き合ったことさえなかったのだから、どうして自分に求婚することになったのか、エレノアにはまったく見当がつかなかった。
父は少し困ったように笑いながらも、落ち着いた様子で答える。
「それは、本人に聞いてみないと分からないね」
「お父様、驚かないんですか?」
「私だって驚いているよ」
「そうは見えませんけど」
「そうかい?」
父が楽しそうに笑うので、エレノアもそれ以上は追及できず、手元の手紙へ視線を戻した。
侯爵から求婚される。
事実を改めて考えると、やはり現実味がなかった。名前を知っているだけの相手から、いきなり結婚を申し込まれているのだから、戸惑うのも当然だろう。しかも、ほんの少し前まで自分のこれからについて考えていたときには、アレンのことしか思い浮かばなかった。
もしこの求婚を受ければ、自分は侯爵夫人になる。
そんな未来を思い浮かべようとしても、エレノアにはまだ輪郭すら見えてこなかった。
「……すぐにお返事をしなければいけないんでしょうか?」
「いや。こういう話だからこそ、急いで決める必要はないと思っているよ」
父はそう言ってから、エレノアの手元にある手紙へ視線を落とした。
「まずは会って話してみればいい。実際に顔を合わせてみなければ、その方がどんな人なのかも、お前がその人をどう思うのかも分からないだろう?」
「そうですね……」
エレノアも手紙を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
会ってみる。
それなら、できるかもしれない。
今の段階で返事を決める必要はないのだと思えば、先ほどまで胸の中にあった戸惑いも少しだけ和らいだ。侯爵がなぜ自分に求婚したのか、その理由を本人に尋ねることもできる。何も知らないまま断るより、一度話してみた方がいいのかもしれない。
「ちょうど私も王都へ行く予定があるんだ」
父がそう続けたことで、エレノアは顔を上げた。
「王都へ?」
「ああ。復興のことで、王宮や貴族たちと話をしておきたいことがいくつかあってね。そろそろリーヴェのこれからについて、王都とも話を進めておきたいんだ」
父が王都へ行くこと自体は、エレノアにとって意外な話ではなかった。戦争が終わってからも父は何度か王都とのやり取りをしていたし、復興が進んできた今だからこそ、これから先の支援や交易について話をする必要もあるのだろう。
「せっかくだから、お前も一緒に行かないか?」
「私も王都へ?」
「ああ。これまでリーヴェのことばかりだっただろう。王都には、ここにはないものもたくさんある。私が仕事している間、街を見て回る時間が作れると思うし、今回の求婚のことを考えるにしても、侯爵に会ってみるにはちょうどいい機会だろう?」
エレノアはすぐには答えず、手元の手紙を眺めながら考えた。
王都へ行くのは初めてだ。
5年前、アレンと話していた頃にも、父と王都へ行く予定があった。そのときは初めて見る街のことを楽しみにしていて、王都にあるという大きな書店の話をすると、アレンが案内すると言ってくれた。
けれど、戦争が激しくなって、その予定はなくなった。
あれから5年が経ち、今になってようやく、その街へ行く機会が巡ってきたことになる。
「……そうですね」
エレノアは少し考えてから、手紙を見つめたまま小さく笑った。
「せっかくですから、一緒に行ってみたいです」
「そうか」
「侯爵様にも、直接お会いした方がよさそうですし」
「それなら、決まりだね」
父が頷く。
エレノアは改めて手紙へ目を落とした。侯爵からの求婚については、まだ何も決めていない。自分がこれから誰と生きていきたいのかと考えれば、今も心に浮かぶのはアレンだったし、だからといって、会ったこともない侯爵との結婚をすぐに想像できるわけでもない。
それでも、実際に会って話してみれば何か分かるかもしれない。
それに、5年前に行けなかった王都を一度見てみたいという気持ちも、少しずつ膨らんできていた。アレンが話してくれた大きな書店が本当にあるのか、自分の目で確かめてみるのも悪くない。
「王都へ行く準備、早めに始めた方がよさそうですね」
「そうだね。急に決まったことだから、リナにも伝えておきなさい」
「はい。きっと驚くでしょうね」
そう言ってエレノアは立ち上がると、まだ少し不思議な気持ちを抱えたまま、手紙を大切に封筒へ戻した。
侯爵からの求婚も、初めて訪れる王都も、今のエレノアにはまだ遠い話のように思える。それでも、5年前には叶わなかったことが、今度は少しずつ現実になろうとしていた。




