16
翌朝、エレノアが目を覚ましたときには、窓の外がすっかり明るくなっていた。
頭を動かすと、まだ鈍い痛みが残っている。昨日のことを思い出しながら起き上がろうとしたところで、そばにいたマルタにすぐ止められた。
「まだ起きてはいけません。先生がいらっしゃるまで、そのままでいてください」
「もう大丈夫よ。少し頭が痛いくらいだから」
「昨日、目を覚まさなかった方のお言葉とは思えませんね」
いつもより厳しい声に、エレノアは言い返すのを諦めて素直に枕へ頭を戻した。
ほどなくして医師が訪れ、昨日と同じようにいくつかの質問をしながら状態を確認した。幸い、頭痛以外に目立った症状はなく、今日一日安静にしていれば問題ないだろうと言われ、父もその言葉を聞いてようやく本当に安心したようだった。
「今日は部屋から出ないこと。いいね?」
「はい」
「絶対にだよ」
「……はい」
二度も念を押され、エレノアは苦笑する。
父と医師が部屋を出たあと、入れ替わるようにリナが朝食を運んできた。その後ろから入ってきたアレンを見つけ、エレノアは思わず身体を起こしかけたが、すぐに彼の眉が寄った。
「起きるな」
「でも、もう大丈夫です」
「昨日も似たようなことを言っていたな」
言い返せず、エレノアはおとなしく枕へ戻った。
リナが笑いを堪えるように俯きながら朝食を置き、「お茶をもう一度淹れてまいります」と言って部屋を出ていく。その後ろ姿を見送ってから、エレノアは改めてアレンへ視線を戻した。
「昨日は、ご心配をおかけしました」
「それは昨日も聞いた」
「では、ありがとうございました」
「それもいらない」
「それでは、何を言えばいいんですか?」
アレンは少し考えてから答えた。
「今日は何もせずに休んでいろ」
「……それだけですか?」
「ああ」
思わず笑ってしまった。
ぶっきらぼうで、必要以上のことは言わない。けれど、その言葉が本当に自分を心配してのものだということは、もうエレノアにも分かっていた。
「分かりました。今日はいい子にしています」
「最初からそうしていろ」
「昨日のことは仕方がなかったんです。あの子が危なかったんですから」
「分かっている」
アレンはそれ以上責めなかった。もし同じことが起これば、エレノアはまた同じように動くのだろう。それも分かっているからこそ、昨日、腕の中で目を閉じていた姿を思い出すだけで胸の内が落ち着かなくなる。
けれど、そのことを口にすれば、自分が何を言ってしまうのか分からなかった。
「……明日ですね」
エレノアがぽつりと言った。
「出発」
「ああ」
昨日までは明後日だった。それが今では、もう明日に迫っている。
「準備は終わりましたか?」
「ほとんど」
「そうですか」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
今日一日は部屋から出ることができない。最後にもう一度庭を歩きたかったし、水車まで行くのは無理でも、あの大きな窓のところまでなら一緒に行けたかもしれない。白い花の丘も、昨日より少しは白くなっているだろうか。
行きたい場所はいくつも浮かんだが、本当にしたかったことは、きっと場所とは関係なかった。
ただ、もう少しアレンと一緒にいたかった。
「エレノア」
「はい?」
「また考え事か」
「……秘密です」
昨日と同じ答えを返すと、アレンはそれ以上聞かなかった。
ただ、その日はいつもより長くエレノアの部屋にいた。
♢
出発の朝は、よく晴れていた。
エレノアはいつもより早く目を覚ました。頭痛はほとんど消えており、診察に来た医師からも、短時間であれば部屋を出て構わないと言われた。
着替えを手伝っていたリナは、朝から何度もエレノアの顔を窺っている。
「何?」
「いえ……」
「さっきからずっと見ているでしょう」
リナは少し迷ってから、小さな声で尋ねた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
何について聞かれているのかは、すぐに分かった。
エレノアは鏡の中の自分を見ながら、いつも通りに笑った。
「大丈夫よ」
「……そうですか」
リナはそれ以上聞かなかった。
エレノアも何も言わなかった。
寂しい気持ちはあるけれど、泣かないと決めていた。
アレンがここを離れるのは、怪我が治ったからだ。帰るべき場所があり、戻らなければならない理由がある。それを自分の寂しさで困らせたくはなかったし、最後に見る自分の顔が泣き顔になるのも嫌だった。
だから、きちんと笑って見送ろうと思った。
♢
屋敷の玄関前には、すでに出発の準備が整えられていた。
アレンの荷物は多くなく、供の者たちはそれぞれの馬の状態を確かめながら、最後の支度を進めている。見送りのために子爵をはじめ、マルタや使用人たちも玄関前に集まっていた。
アレンはまず子爵の前に立った。
「長い間世話になった」
「こちらこそ。アレン殿が無事に回復されて、本当によかった。道中も、くれぐれも無理はなさらないでください」
「ああ」
「どうか、お気をつけて」
二人は固く握手を交わした。
アレンはマルタやリナをはじめ、世話になった使用人たちにも短く礼を告げていく。初めてこの屋敷へ運び込まれた頃には、こうして彼らの顔を一人ずつ覚えることになるとは思ってもいなかった。
一通りの挨拶を終え、アレンがエレノアを見る。
「エレノア」
「はい」
呼ばれた声に、エレノアはいつも通り笑った。
「私も、門までお見送りしてもいいですか?」
その言葉に、アレンより先に父が反応した。
「エレノア、昨日の今日だ。無理をしてはいけないよ」
「門までです。それに先生も、少しなら歩いていいと仰っていました」
「しかし――」
「私がご一緒します」
リナがすぐにそう言うと、子爵はしばらく娘を見つめたあと、仕方がないというように息を吐いた。
「分かった。ただし、本当に門までだよ」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは父に笑いかけ、それからアレンの隣へ並んだ。
門までは、決して長い距離ではない。
それでも三人は急がずに歩いた。
エレノアとアレンが並び、その少し後ろをリナがついてくる。いつもならエレノアが何かを話し始めるところだったが、今日は互いに何を口にすればいいのか分からないまま、しばらく足音だけが続いた。
やがて門へ着くと、供の者がアレンの馬を引いて待っていた。
ここまでなのだと、エレノアにも分かった。
リナは二人の様子を見て、何も言わずに少し離れた場所で足を止めた。
アレンはエレノアへ向き直る。
「頭は」
「もう大丈夫です。先生からも、少しなら外へ出てもいいと言われました」
「無理はするな」
「分かっています」
「本当に分かっているのか?」
「昨日の今日ですから、さすがに分かっています」
アレンがわずかに眉を寄せる。
いつもなら、それを見て少しおかしくなるだけだった。
けれど今日は、その表情さえ目に焼きつけておきたいと思った。
「しばらく無茶はするな」
「しません」
「木にも登るな」
エレノアは思わず笑った。
「もう登りませんよ」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんでは分からない」
また笑った。ちゃんと笑えている。
これなら大丈夫だと思った。
「アレン様」
「何だ」
「お元気で」
その言葉も、きちんと言えた。
「エレノアも」
「はい」
これでいい。
最後まで笑っていられた。
アレンを困らせるようなことも言わなかった。
あとは彼が馬に乗り、ここから去っていくのを見送ればいいだけだった。
アレンが馬の方へ身体を向ける。
その瞬間、このまま何も言わずに別れてしまうことが、急に寂しくなった。
「……アレン様」
呼び止めてしまった。
アレンが振り返る。
「何だ」
「……いえ」
何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。
行かないでほしいわけではない。少なくとも、そんなことを言ってはいけないと思っている。彼には帰らなければならない場所があるのだから、ここへ留まってほしいと願っても、それを口にするつもりはなかった。
エレノアは少しだけ困ったように笑った。
「もう一度、お顔を見ておこうと思って」
アレンは何も答えなかった。
ただ、エレノアを見ていた。
その視線を受けているうちに、どうにか保っていた笑顔が崩れそうになる。
泣いてはいけない。
エレノアは一度瞬きをして、もう一度笑おうとした。
「アレン様が元気になられて、本当によかったです。最初はどうなることかと思いましたけれど、こんなに早くお帰りになれるくらい回復されて……」
最後まで言えなかった。
声がわずかに震えたことに気づき、エレノアは唇を閉じる。
まだ大丈夫だと思った。
少し黙れば、きっと元に戻せる。
けれど、目の前のアレンが静かに名前を呼んだ。
「エレノア」
それだけだった。
それだけなのに、堪えていた涙が一粒だけ頬を伝った。
エレノアはすぐに顔を逸らし、指先で拭った。
「……すみません」
「エレノア」
「大丈夫です。本当に」
もう一度笑おうとしたが、今度はうまくできなかった。
「泣くつもりではなかったんです。ちゃんと笑って、お見送りしようと思っていたのに」
また涙が落ちそうになり、慌てて拭う。
アレンが元気になったことは嬉しい。帰れるようになったことも、本当なら喜ぶべきなのだと分かっている。それなのに、どうしても涙だけが言うことを聞いてくれなかった。
「ただ……少し、寂しいだけです」
それでもエレノアは、行かないでとは言わなかった。
アレンは何も言わず、目の前で涙を堪えようとしているエレノアを見ていた。
以前、大きな窓の前で彼女が泣いていたときには、ただ隣に座っていた。理由を聞かず、泣き止ませようともせず、彼女が落ち着くまでそこにいることしかできなかった。
今は、それでは足りなかった。
頬を伝った涙を拭おうとして、アレンは手を伸ばしかけた。
けれど、その手は途中で止まった。
少し離れたところにはリナがいる。振り返れば、遠くに屋敷も見える。ここで自分がエレノアに触れることが、彼女にとってどんな意味を持つのかも分かっていた。
それでも、目の前で必死に笑おうとしている顔を見ているうちに、そんな迷いは長く続かなかった。
アレンは伸ばしかけた手を下ろすと、そのままエレノアの身体を引き寄せた。
「……アレン様?」
驚いた声が、すぐ近くから聞こえた。
細い身体が腕の中に収まる。
昨日とは違い、今度はエレノアの意識があり、その身体にはきちんと力が入っている。それでも抱きしめてみれば、やはり小さかった。
エ
レノアは何が起きたのか理解できないまま、しばらく身動きひとつしなかった。
耳を寄せなくても、アレンの胸の音が聞こえるほど近い。
こんなふうに抱きしめられることなど、考えたこともなかった。
けれど、その温かさに触れた途端、必死に押し込めていたものがとうとう抑えきれなくなった。
エレノアは声を上げて泣くことだけは堪えたものの、涙はもう止められなかった。アレンの胸元へ顔を伏せ、最初は行き場を失っていた手で、やがてためらいがちに彼の服を掴む。
アレンは何も言わなかった。
ただ、エレノアを抱く腕に少しだけ力を込めた。
それが余計に苦しかった。
「……ごめんなさい」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「謝るな」
「でも……」
「いい」
それ以上、アレンは何も言わなかった。
エレノアもしばらく黙ったまま、胸元に顔を伏せていた。
やがて呼吸を整えるように一度息を吸い、震える声で呼ぶ。
「アレン様」
「ああ」
「……帰ってしまわれるんですよね」
「ああ」
分かっていた答えだった。
それでも実際に聞けば胸が痛んだ。
行かないでほしいと思う。
もう少しここにいてほしいとも思う。
けれど、どちらも口にはしなかった。
アレンにも帰らなければならない理由がある。それを知っているからこそ、自分の気持ちで彼を引き止めることはできなかった。
アレンもまた、腕の中のエレノアを離せずにいた。
待っていてほしいと言いたかった。
けれど、自分がこれから戻る場所に何が待っているのか分からない。いつ戻れるのかも、生きて再びこの地を踏めるのかさえ、今は約束できなかった。
そんな自分のために待っていてほしいなど、言えるはずがなかった。
それでも、昨日ようやく認めた思いは、今こうして彼女を抱いていることでますますはっきりしていく。
離れたくない。
この先も、そばにいたい。
けれど今は、自分からこの腕を解かなければならない。
「……アレン様」
胸元から、もう一度エレノアの声がした。
「何だ」
エレノアはすぐには続けなかった。
アレンの服を掴んでいる指に少しだけ力を込め、それからゆっくりと顔を上げる。
泣いたあとの瞳でまっすぐにアレンを見て、エレノアは言った。
「……生きて、帰ってきてください」
アレンは答えなかった。
一瞬だけ、エレノアを抱く腕に力が入る。
彼女はどこへ帰ってきてほしいとも、いつ戻ってきてほしいとも言わなかった。
ただ、生きて。
それだけを願っている。
「ああ」
アレンはエレノアを抱いたまま、はっきりと答えた。
「生きて帰る」
エレノアは胸元で小さく頷いた。
それからもしばらく、二人は離れなかった。
けれど、いつまでもこうしていることはできない。待っている者たちがいて、アレンには戻らなければならない場所がある。
先に腕を解いたのは、アレンだった。
ゆっくりと身体を離す。さっきまで確かに腕の中にあった温もりがなくなると、もう本当に別れなければならないのだと実感した。
エレノアも離れたあと一度目元を拭い、今度こそちゃんと笑った。
「……お気をつけて」
「ああ」
アレンはそれ以上何も言わず、待たせていた馬のもとへ向かった。
手綱を受け取り、鐙へ足をかけて馬上へ上がる。その姿を見ながら、エレノアは以前、屋敷の敷地内で初めて彼が馬に乗るところを見た日のことを思い出していた。
あのときは、歩く程度の速さで屋敷の中を回っただけだった。
今日は、この馬に乗って遠くへ行ってしまう。
アレンが手綱を握り、エレノアを見る。
「エレノア」
「はい」
「元気で」
今度こそ、エレノアは笑って頷いた。
「アレン様も」
アレンはしばらく彼女を見ていたが、やがて前を向いた。
馬がゆっくりと歩き出す。
エレノアはその場から動かず、少し離れたところにいるリナとともに、アレンの背中を見送った。
一度も、行かないでとは言わなかった。
アレンも、一度も待っていてほしいとは言わなかった。
それでも、腕に残った温もりと交わした約束だけは、離れても消えないように思えた。
アレンの姿が道の先へ小さくなり、やがて完全に見えなくなるまで、エレノアは門の前に立っていた。




