15
医師がアレンの長距離移動を許可したのは、白い花の丘へ行ってから数日後のことだった。
診察を終えた医師は傷の状態だけでなく、歩行や乗馬のあとに痛みや熱が出ていないことまで改めて確認し、しばらく考えた末に、ようやく問題ないでしょうと頷いた。
「もちろん、無理は禁物です。途中で休息を取りながらという条件はつきますが、今の状態であれば長距離の移動にも耐えられるでしょう」
「分かった」
待っていたはずの言葉だった。
ここへ運び込まれたときには、自力で立つことさえできなかった。それから傷が塞がり、少しずつ歩けるようになり、今では短時間なら馬にも乗れる。ここまで回復した以上、いつまでもリーヴェに留まる理由はなかった。
診察に同席していた子爵も、安堵したように息を吐いた。
「本当によかった。アレン殿が運び込まれた日のことを思えば、これほど早く回復されるとは思いませんでした」
「ああ。世話になった」
「まだ終わったように仰らないでください。無事にお帰りになるまでが療養ですよ」
そう言って笑った子爵に、アレンもわずかに表情を緩めた。
医師が部屋を出たあと、二人はそのまま出発について話し合った。長く滞在した分、帰るための準備には多少の時間が必要になる。道中の安全も確認しなければならず、アレン自身にも済ませておくことがあったため、話し合いの末、出発は三日後と決まった。
「三日後でよろしいですか?」
「ああ。それでいい」
迷う理由などないはずだった。
それなのに、三日後という言葉だけが妙に耳に残った。
♢
その日の夕方、エレノアは父の書斎に呼ばれた。
何の話なのかは、扉を開ける前から何となく分かっていた。先日、あと二週間ほどで長距離移動が可能か判断すると聞いている。それからの日数を考えれば、そろそろ結果が出てもおかしくない。
「エレノア」
「はい」
「今日、先生から許可が出た。アレン殿はもう長距離を移動しても問題ないそうだ」
予想していた言葉だった。それでも、実際に父の口から聞くと胸の奥がきゅっと縮む。
「……そうですか」
「出発は三日後になった」
三日後。
いつか帰ることは最初から知っていたし、父から帰還が近いと聞かされたときにも覚悟したつもりだった。それなのに、はっきりと日を告げられた途端、それまでぼんやりとしていた別れが急に目の前まで近づいてきた。
「エレノア?」
黙ってしまった娘を、父が心配そうに見る。
エレノアはすぐに表情を整えた。
「よかったですね。先生から許可が出たということは、もう大丈夫ということでしょう?」
「ああ。道中は無理をしないことが条件らしいがな」
「それなら安心しました」
嘘ではなかった。あれほど酷い怪我をしていたアレンが、無事に帰れるほど元気になったのだ。本当なら、心から喜ぶべきことだった。
ただ、嬉しいことと寂しいことは、どうやら別らしい。
「三日後ですね」
「ああ」
「分かりました」
エレノアはもう一度笑ってから書斎を出たものの、廊下へ出てもすぐには自室へ戻らなかった。
明日になれば、あと二日。その次の日には、もう翌朝の出発を待つだけになる。
そんな当たり前のことを数えている自分がおかしくて、小さく息を吐いた。
残された時間を、別れを悲しむだけで終わらせたくはない。
最後まで、いつも通りでいたいと思った。
♢
翌朝も、エレノアは普段と変わらない様子で朝食の席についた。
いつものように父と話し、アレンにも声をかけた。旅支度について尋ねることはあっても、明後日にはいなくなってしまうのだとは一度も口にしなかった。
アレンもまた、普段と変わらないように見えた。
けれど、二人とも残された日数を忘れてはいなかった。
「荷物はもうまとまりましたか?」
朝食のあと、庭へ向かう廊下を歩きながらエレノアが尋ねた。
「もともと多くない。すぐに終わる」
「そうでしたね。アレン様がいらした日は、お荷物どころではありませんでしたものね」
「あの状態で荷物の心配をする余裕はなかったな」
「本当に大変だったんですよ。皆、とても心配していたんですから」
そう言ってから、エレノアは少しだけ黙った。
あの頃は、早く傷が治ればいいと、そればかり考えていた。元気になれば帰ってしまうことなど考えもしなかった。
「エレノア?」
「何でもありません。少し考え事をしていただけです」
「何を」
「秘密です」
笑って誤魔化すと、アレンはそれ以上聞かなかった。
以前なら、それで会話が終わっても何も気にならなかったはずだった。しかし今は、エレノアが何を考えていたのかが気になる。
明後日には、自分がここを離れる。
彼女もそのことを考えていたのだろうか。
そう思ったものの、アレンは結局尋ねなかった。
♢
午後になると、屋敷の裏手では春に向けた荷の整理が行われていた。
納屋から運び出された木箱や籠を使用人たちが仕分けし、不要になったものを別の場所へ移している。通りかかったエレノアはリナに声をかけられ、そのまま籠の中身を確認するのを手伝っていた。
「お嬢様、こちらは私どもでいたしますから」
「これくらいなら大丈夫よ。運ぶわけではないもの」
「ですが、マルタさんに見つかったら、私が叱られます」
「では、見つからないうちに終わらせましょう」
「そういう問題ではありません」
呆れたように言いながらリナが笑い、エレノアも笑い返した。
そのとき、少し離れた場所で木材が擦れるような大きな音がした。
何事かと振り向くと、使用人たちが積み上げていた荷の一部が傾いている。そのすぐそばには、手伝いに来ていたまだ幼い少年が立っていた。突然のことに身体が固まったのか、逃げることもできずに木箱を見上げている。
「危ない!」
誰かが叫ぶより早く、エレノアは駆け出していた。
少年の腕を掴んで強く引き寄せると、その身体がこちらへ倒れ込む。エレノアも一緒によろめき、避けようと後ろへ下がった足が地面に置かれていた木材に引っかかった。
身体が大きく傾き、次の瞬間、後頭部に強い衝撃が走った。
誰かの悲鳴が聞こえた。
けれど、その声もすぐに遠ざかり、エレノアの意識はそこで途切れた。
♢
厩へ向かっていたアレンが足を止めたのは、屋敷の裏手から女性の悲鳴が聞こえたからだった。
続けて何かが崩れる音がし、慌ただしく人を呼ぶ声まで聞こえてくる。
ただ事ではない。
アレンはすぐに進む方向を変え、声のした方へ急いだ。
屋敷の角を曲がると、裏手には何人もの使用人が集まっていた。倒れた木箱や籠が散らばり、その中心でリナが地面に膝をついている。
その向こうに、見慣れた淡い色の髪が見えた。
「――エレノア!」
気づいた瞬間には走り出していた。
地面に横たわるエレノアは目を閉じたまま、アレンが駆け寄っても動かない。すぐそばではリナが青ざめた顔で震え、助けられた少年が別の使用人に抱き寄せられて泣いていた。
アレンはエレノアのそばへ膝をついた。
「エレノア、聞こえるか」
返事はない。
「何があった」
「お嬢様が、あの子を庇って……それで転んで、頭を……」
アレンはエレノアの肩へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
どこを、どの程度打ったのか分からない。下手に身体を動かすべきではないことくらい分かっている。
「医師を呼べ。リナは子爵を」
周囲にいた使用人たちはまだ動揺していたが、アレンの声で我に返ったように動き始めた。
再びエレノアへ目を向け、呼吸を確認する。息はしている。目立った出血も見当たらない。
それでも、目を開けない。
頬に触れると、温かい。その温度を確かめても、不安は消えなかった。
戦場では、もっと酷い怪我を何度も見てきた。意識を失った兵士も、血を流して倒れている人間も数えきれないほど見ているし、そういう場面ほど冷静でいなければならないことも知っている。
今も同じようにすればいい。
呼吸を確認し、出血の有無を見て、医師を待つ。
頭ではそう分かっているのに、頬から手を離したとき、指先がわずかに震えていることに気づいた。
「エレノア!」
ほどなくして子爵が駆けつけ、娘の姿を見るなり顔色を変えた。
「アレン殿、何があったのですか」
「子どもを庇って転倒したらしい。頭を打っている可能性がある。呼吸はある」
「エレノア……」
子爵が娘のそばへ膝をついたところで、医師も到着した。
周囲の者を下がらせ、慎重にエレノアの状態を確認する。アレンは立ち上がって場所を空けたものの、視線だけは一度も彼女から離さなかった。
やがて医師が顔を上げた。
「頭を打っているようですが、今のところ呼吸も脈も安定しています。目立った出血もありません。ここでは十分に診られませんから、寝台へ移しましょう。頭と首を支えて、できるだけ揺らさないように運んでください」
「私が運ぶ」
口にしたのは、考えるより先だった。
子爵がアレンを見る。
「アレン殿、お身体は――」
「問題ない」
医師がアレンの身体を一度見てから、慎重に頷いた。
「では、ゆっくりとお願いします。頭が動かないように気をつけてください」
アレンは再びエレノアのそばへ膝をつき、医師に教えられた通りに片腕で背から首元までを支え、もう一方の腕を膝の下へ入れた。
できるだけ身体を動かさないよう慎重に抱き上げる。
腕の中へ収まった身体は、思っていたよりもずっと小さかった。
いつも自分より少し前を歩きながら振り返り、次々と言葉を投げかけてくる。庭を歩き回り、領地の話をし、木に登ったことまであると笑っていたエレノアが、今は何の力も入らないまま自分の腕に預けられている。
頭が胸元へ寄り、柔らかな髪が腕に触れた。
軽い、と感じた。
同時に、その軽さがひどく怖かった。
「……エレノア」
思わず名前を呼んだが、やはり返事はない。
「アレン殿、ゆっくりで結構です」
医師の声に頷き、アレンは抱く腕に余計な力を入れないよう意識しながら歩き始めた。
「リナ、先にお嬢様のお部屋へ行って寝台を整えてちょうだい。湯と清潔な布も用意して」
いつの間にか駆けつけていたマルタが指示を出すと、リナは青ざめた顔のまま「はい」と答えて屋敷へ走っていった。
子爵はアレンのすぐ横につき、何度も娘の顔を確認している。周囲の使用人たちも道を空け、医師はエレノアの状態を見ながら後ろについてきた。
その間も、腕の中のエレノアは一度も目を開けなかった。
♢
寝室へ運ばれたエレノアを、医師が改めて診察した。
アレンは邪魔にならないよう少し離れた場所に立ち、子爵は寝台のそばにいる。マルタとリナも必要なものを用意しながら、何度も心配そうにエレノアを見ていた。
「骨折などはなさそうです。頭を打ったことで一時的に意識を失っている可能性が高いでしょう。今のところ呼吸も脈も安定していますが、目を覚ますまでは注意して様子を見ます」
「いつ頃、目を覚ましそうか?」
子爵が険しい表情のまま尋ねる。
「今の段階では何とも。ただ、現時点で危険を示す兆候はありません」
その言葉を聞いても、アレンの胸を締めつけているものは消えなかった。
窓の外が少しずつ暗くなっていく間にも、リナが灯りを用意し、マルタは濡らした布を替え、医師は何度かエレノアの状態を確認した。
子爵も娘のそばを離れなかった。
アレンも同じだった。
自分がここにいる必要などないことは分かっている。エレノアの父親も、幼い頃から彼女を見てきたマルタもリナもいる。医師までいるのだから、自分が何かできるわけでもない。
それでも、部屋を出る気にはなれなかった。
やがて子爵がそのことに気づき、アレンを見た。
「アレン殿も、少しお休みになってはいかがですか。先生から長距離移動を許されたばかりなのですから」
「俺は大丈夫だ」
「ですが――」
「目を覚ますまでは、ここにいさせてほしい」
子爵はしばらくアレンの顔を見ていた。
その視線に何を思ったのかは分からないが、やがて静かに頷いた。
「……分かりました」
それ以上は何も言わなかった。
時間が経つにつれ、屋敷は夜の静けさに包まれていく。
医師はすぐに呼べる隣室へ移り、リナはマルタに言われて夜の支度や薬の準備をするため何度か部屋を出入りしていた。子爵も一度書斎へ戻ったが、娘が目を覚ましたらすぐに知らせるよう何度も念を押している。
マルタだけは寝台から少し離れた場所に椅子を置き、エレノアの様子を見守っていた。
アレンも窓際の椅子に座ったまま、動かなかった。
誰も、もう帰るようには言わなかった。
静かな寝息だけが聞こえる部屋でエレノアを見ていると、昼間から何度も押し込めていた考えが浮かんでくる。
明後日には、自分はこの屋敷を出る。
そのあとは、エレノアが怪我をしても分からない。熱を出しても、泣いていても、自分は何も知らないまま遠くにいる。
ここへ来る前なら、それが当然だった。エレノアという人間が存在することさえ知らなかったのだから、彼女がどこで何をしていようと自分には何の関係もなかった。
それなのに今は、その当然が耐え難いものに思えた。
「……お嬢様?」
静寂の中で聞こえたマルタの声に、アレンはすぐに顔を上げた。
寝台へ目を向けると、エレノアの指先がわずかに動いている。
「お嬢様。分かりますか?」
マルタが立ち上がって顔を覗き込み、それとほとんど同時にアレンも椅子から立った。
「リナ、先生を呼んでちょうだい」
「はい!」
部屋に戻っていたリナがすぐに廊下へ飛び出していく。
アレンが寝台のそばまで近づくと、エレノアの瞼がゆっくりと開いた。焦点の合わない瞳がしばらく宙を彷徨い、やがて声のした方へ動く。
「……アレン、様?」
名前を呼ばれた。
その一言を聞いた瞬間、張りつめていたものが一気に緩みそうになった。
「お嬢様、私が分かりますか?」
マルタが尋ねると、エレノアはゆっくり視線を動かした。
「……マルタ?」
「はい。ここはお部屋ですよ。起き上がらないでくださいね」
ほどなくして医師と子爵が駆け込んできた。
子爵は寝台へ歩み寄るなり娘の顔を覗き込み、何度も名前を呼んだ。エレノアが「お父様」と答えると、ようやく大きく息を吐く。
医師はすぐに診察を始め、頭痛や吐き気の有無、手足の感覚などを一つずつ確認した。エレノアはまだぼんやりしながらも質問に答え、診察が終わる頃には受け答えもしっかりしていた。
「今のところ、大きな問題はなさそうです。ただし、今夜は必ず誰かがそばについてください。少しでも様子がおかしければ、すぐに呼んでください」
その言葉に、部屋にいた全員がようやく安堵した。
「よかった……」
リナが目元を押さえる。
「本当に心配したんですよ、お嬢様」
「ごめんなさい、リナ」
「謝るくらいなら、もう無茶をなさらないでください」
「……はい」
弱々しく笑う娘を見て、子爵もようやく険しかった表情を緩めた。
「今日はもう休みなさい。話は明日にしよう」
「お父様も、ご心配をおかけしました」
「本当に心配したよ。だが、今は無事ならそれでいい」
子爵は娘の髪をそっと撫でたあと、医師と今夜の注意点について確認するため一緒に部屋を出た。
リナも薬と水を用意するため席を外したが、マルタは寝台から少し離れた椅子に残っている。
アレンも帰ろうとはしなかった。
マルタはそんな彼を一度見たものの、何も言わずに手元の布を畳んでいた。
「……アレン様」
エレノアが小さな声で呼ぶ。
アレンは寝台のそばへ歩み寄った。
「ずっと、いらしたんですか?」
「ああ」
「どうして」
問い返されて、アレンはしばらく黙った。
どうしてと聞かれても、うまく説明できない。ただ、目を覚ますまではここを離れたくなかった。
「君が目を覚まさないからだ」
エレノアが目を瞬く。
「……怒っていらっしゃいます?」
「怒っていない」
「でも、怖いお顔をしています」
「君が目を覚まさないからだ」
同じ言葉を繰り返すと、エレノアはしばらくアレンを見つめ、それから申し訳なさそうに眉を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「本当に」
心配したし、このまま目を開けなかったらどうしようと思うほど怖かった。
けれど、口にしようとすると、どの言葉も自分が感じたものより軽く思えて、結局それ以上は何も言えなかった。
寝台の脇に腰を下ろしたとき、布団の上に置かれたエレノアの手が目に入った。
少し迷ったあと、その手を取る。
「……アレン様?」
驚いたような声が聞こえたが、アレンは離さなかった。
昼間、腕の中で力なく目を閉じていた姿が頭から離れない。今、自分の手の中にある指先は温かく、わずかに動いている。
それを確かめるだけで、ようやく息ができるような気がした。
「もう少し、このままでいろ」
「はい?」
「喋らずに休め」
エレノアは少しだけ笑った。
「それは、少し難しいお願いですね」
「だろうな」
アレンもわずかに口元を緩めた。
少し離れた場所ではマルタが静かに座っていたが、こちらを咎めることも、声をかけることもしなかった。
やがて疲れが戻ってきたのか、エレノアの瞼がゆっくりと閉じていく。
眠りに落ちても、アレンはすぐには手を離せなかった。
明後日には帰らなければならない。
帰れば、エレノアが朝から何をしていたのかも、今日はどこへ行ったのかも分からなくなる。怪我をしても、熱を出しても、今日のように目を覚ますまでそばにいることはできない。
離れることが惜しいだけではなかった。
失いたくないのだ。
もう二度と声を聞けなくなることも、笑う顔を見られなくなることも、自分の知らない場所で彼女に何かが起きることも嫌だった。
橋も、水車も、白い花の丘も、リーヴェで過ごした時間が惜しいのではない。そのどこにでもエレノアがいて、気づけば彼女と過ごすことが日常になっていたから、ここを離れることが嫌なのだ。
アレンは眠るエレノアの手を握ったまま、その横顔を見つめた。
この先も、彼女のそばにいたい。
その思いを認めてしまえば、帰らなければならないことが以前よりずっと重く感じられた。




