14
あの日、アレンに頬の土を取られてから、エレノアは彼と顔を合わせるたびに少し困るようになっていた。
話してしまえば、いつもと変わらない。領地のことを話すこともあれば、食事の席で交わしたどうでもいい話の続きをすることもある。アレンの態度も以前と何ひとつ変わっておらず、頬についた土を取ったことなど、もう気にしていないように見えた。
けれど、エレノアは違った。
ふとしたときに、あの日のことを思い出してしまう。名前を呼ばれて振り向いたことも、目の前まで手が伸びてきたことも、頬に触れた指先の感触まで覚えていて、思い出すたびに落ち着かなくなる。
それなのに、アレンを避けたいとは思わなかった。姿を見かければ嬉しくなるし、話しかけられれば、もう少し話していたいと思う。
自分でもどうしたのだろうと思いながら、その理由を考えることだけは避けていた。
その日の午後、エレノアが二階の窓から外を見ると、遠くの丘に白い花が咲き始めていた。
まだ丘全体を覆うほどではない。それでも緑の中に広がる白はここからでもよく見え、以前アレンに、咲いたら案内すると話したことを思い出した。
見てほしい。
そう思うと、迷うより先に客間へ向かっていた。
ところが廊下を歩いているうちに、先ほどまでの勢いが少しずつなくなっていく。以前なら何も考えずに誘いに行っていただろう。橋へ行ったときも、水車へ行ったときも、アレンに見せたいと思えばそれだけで十分だった。
今は、これからアレンに会うのだと思うだけで緊張する。
それでも引き返す気にはならず、エレノアは客間の前まで行くと、一度息を整えて扉を叩いた。
「アレン様、少しよろしいですか?」
中から返事があり、ほどなくして扉が開いた。
「どうした」
「白い花が咲き始めたんです」
アレンが少し考えたあと、すぐに「あの丘か」と言った。
「はい。まだ一面というほどではありませんけれど、今でも十分綺麗だと思います。今日はお天気もいいですし……もしお疲れでなければ、行きませんか?」
言い終えると、エレノアはアレンの返事を待った。
断られてもおかしくはない。そう分かっているのに、今日は一緒に行きたいと思っている自分がいる。
「分かった。行こう」
その返事を聞いた途端、エレノアは嬉しくなった。
「では、準備してきますね」
笑いながらそう告げて、自室へ戻った。
♢
丘の近くまでは馬車を使い、麓からは二人でゆっくりと歩いた。
春の日差しは暖かく、吹き抜ける風にも冬の冷たさはほとんど残っていない。緩やかな斜面には小さな白い花が広がり、上へ進むにつれてその数も増えていった。
一つ一つは小さな花だが、集まると緑の斜面が白く染まって見える。
「もう少ししたら、もっと白くなるんです」
少し先を歩いていたエレノアが振り返った。
「満開になると、遠くから見ても丘全体が白く見えるくらいなんですよ。でも、私はこれくらいの時期も好きです」
「なぜだ」
「緑も残っているでしょう? 全部が白くなる前の、このくらいも綺麗だと思うんです」
アレンは改めて斜面を見渡した。白い花の間から春の草が覗き、風が吹くたびに細い茎が揺れている。
「たしかに、今でも十分綺麗だな」
「でしょう?」
自分が褒められたわけでもないのに、エレノアは嬉しそうに笑った。
「アレン様にも見ていただきたかったんです」
そう言って再び歩き出した彼女の後ろ姿を、アレンはしばらく見ていた。
橋へ行ったときも、水車を見に行ったときもそうだった。エレノアは自分の好きな場所を見せるとき、決まって嬉しそうな顔をする。領地のことを話し始めれば次々に言葉が出てきて、こちらが尋ねていないことまで話すことも珍しくない。
リーヴェへ来たばかりの頃、アレンは彼女とも必要以上に関わるつもりはなかった。
もともと、年頃の令嬢との付き合いは面倒だった。
社交の場では、ろくに言葉を交わしたこともない相手から好意を向けられることが何度もあった。容姿だけを見て近づいてくる者もいれば、家柄を知った途端に態度を変える者もいる。
それだけなら、適当に受け流せば済む。
厄介なのは、実際に話したあとだった。
向こうから近づいてきたはずなのに、アレンが愛想よく応じなければ「冷たい」と言われ、口数が少なければ「怖い」と距離を置かれる。勝手に期待され、思っていた人物と違えば勝手に失望される。その繰り返しに付き合うくらいなら、初めから関わらない方が楽だった。
だから、リーヴェ子爵の娘だと紹介されたエレノアにも、最初は同じように距離を置いていた。
ところがエレノアは、アレンが短い返事しか返さなくても気にする様子がなかった。無愛想に返しても翌日にはまた普通に話しかけてきて、怖がるどころか、ときには不満そうな顔をして言い返してくる。
廊下を歩けるようになれば彼女が隣にいて、庭へ出られるようになれば一緒に歩いた。屋敷の外へ出られるようになってからは橋へ行き、水車にも行き、今日は花を見るために丘まで来ている。
いつからこうなったのか、アレン自身にも分からない。
ただ、療養中の日々を振り返れば、そのほとんどにエレノアがいた。
しかも彼女は、よく喋る。領地の話を始めれば長いし、子どもの頃の話をすれば木に登っただの泥だらけになっただの、子爵令嬢とは思えない話ばかり出てくる。こちらが返事をしなくても話を続けることさえある。
それなのに、煩わしいと思ったことはなかった。
むしろ最近では、いつもよく喋るエレノアが静かにしている方が気になる。
「アレン様?」
少し先から呼ばれ、アレンは顔を上げた。
「どうかなさいました?」
「いや」
「少し休みますか?」
「必要ない」
「本当ですか?」
「本当だ」
エレノアはしばらく彼の顔を見ていたが、それ以上は言わなかった。
以前なら、もう一度くらい本当に大丈夫なのかと聞かれていただろう。今ではアレンが自分の体調を判断できることを分かっているらしく、様子を見ながらも必要以上に口を出さなくなった。
それでも気にかけていることは、表情を見れば分かる。
そんなことまで分かるようになったのだと思いながら、アレンはエレノアの隣に並んだ。
しばらく歩いたところで、エレノアが足元の花を見ながら口を開いた。
「アレン様がお帰りになるところにも、こういう花は咲きますか?」
「花は咲くが、同じものかは知らない」
「そうなんですね」
「気になるのか?」
「少しだけ」
エレノアは白い花を踏まないように歩きながら、少し考えてから続けた。
「最近、アレン様がお帰りになったあとのことを考えることが増えたので。どんなところなのかな、とか、こちらより雪が多いなら、春になるのも少し遅いのかな、とか……」
「そんなことを考えているのか」
「変ですか?」
「いや」
「だって、私はアレン様のことをほとんど知らないでしょう?」
その言葉に、アレンはすぐには返事をしなかった。
エレノアは彼の本当の名も、身分も、どこから来たのかも知らない。自分が話していないのだから当然だった。
それでも彼女は、これまで無理に聞き出そうとしたことがない。興味がないわけではなく、話せない事情があるのだろうと察したうえで、踏み込まずにいることをアレンも今では分かっていた。
「知りたいのか?」
「知りたいですよ」
エレノアは迷わず答えた。
「でも、アレン様がお話しにならないことを無理に聞きたいわけではありません。ただ……帰られたあと、どんなふうに過ごされるのかなとは思います」
「今までと同じだ」
「それが分からないんです」
言われてみればその通りで、アレンは答えに詰まった。
そんな彼を見て、エレノアはいたずらっぽく笑った。
「ごめんなさい。お返事しづらいことを聞いてしまいましたね」
それ以上は尋ねず、エレノアはまた歩き始めた。
丘の上へ近づくにつれて視界が開け、頂上まで来ると、リーヴェの村とその向こうに広がる畑が見渡せた。春を迎えた畑では人々が働き始めており、家々の間からは細い煙が上がっている。
エレノアは風で髪を押さえながら、遠くを指した。
「あちらが、この前行った水車です。その向こうに橋があるんですけれど……ここからだと少し見えにくいですね」
「分かる」
「見えるんですか?」
「ああ」
エレノアは目を凝らしたが、見つけられなかったらしい。
「私には見えません」
「場所を教えたのは君だろう」
「そうですけれど、ここから見たことはあまりないので」
「自分の領地なのに?」
「全部を知っているわけではありません。だから歩くんです」
エレノアは当たり前のようにそう答えた。
以前なら、令嬢が領地を歩き回るなど物好きなことだと思ったかもしれない。けれど今は、彼女がなぜ橋の傷みを気にし、水車の様子を見に行き、庭師と一緒に手を土で汚すのかを知っている。
ここで暮らす人々や、この土地で起きていることを、自分の目で見ようとしているのだ。
アレンは戦地で、いくつもの土地が失われていくのを見てきた。人がいなくなった村も、使えなくなった道も、放置された畑も珍しくはなかった。
今、眼下に広がっているリーヴェでは、人々が畑を耕し、壊れた橋があれば直し、春になれば去年と同じように花が咲く。
そして隣にいるエレノアは、その一つ一つを大切にしている。
この土地がこれからも変わらず穏やかであればいいと、アレンは思った。
「ご案内できてよかったです」
エレノアの声に、アレンは彼女を見た。
「ずっと見ていただきたかったので」
「なぜ俺に?」
何気なく尋ねると、エレノアは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……なぜでしょう」
自分でも分からないらしく、困ったように笑う。
「橋も水車もそうでした。綺麗な場所を見つけると、アレン様にも見ていただきたいと思うんです」
そこまで言ってから、エレノアは急に恥ずかしくなったように景色へ視線を戻した。自分でも、どうしてそう思うのか上手く説明できない。ただ、橋を見に行ったときも、水車の様子を見に行ったときも、綺麗だと思ったものや面白いと思ったものを見つけると、自然とアレンに見せたいという気持ちが浮かんでいた。
アレンは何も言わず、しばらくエレノアの横顔を見ていた。
以前なら、誰かから好意を向けられれば、まず距離を置くことを考えていた。必要以上に関われば面倒なことになると知っていたからだ。
それなのに、エレノアの言葉を聞いても、警戒する気にはならなかった。
むしろ、胸の奥に浮かんだのは、思いがけないほど素直な感情だった。
嬉しかった。
そう認めた途端、アレンは自分でも少し戸惑った。こんなふうに誰かの言葉を嬉しいと思ったのは、いつ以来だっただろう。何を言えばいいのか分からないまま、風に揺れる髪を耳へ掛けながら景色を眺めているエレノアへ、自然と視線が向いていた。
その横顔を見ていると、数日前、頬についた土を拭ったときのことを思い出す。
あのときは何も考えていなかった。土がついていたから取っただけだったのに、触れた途端、エレノアは驚いたように動かなくなった。そのあと妙にこちらを見なくなったことも覚えている。
今日も、目が合うと以前より早く視線を逸らすことがある。
「エレノア」
何気なく名前を呼ぶと、彼女はすぐにこちらを振り向いた。
「はい? ……何ですか?」
「いや」
呼び止めたものの、何を言うつもりだったのか、アレン自身にも分からなかった。
「呼んだのはアレン様でしょう?」
少し困ったように笑うエレノアを見て、アレンもわずかに口元を緩める。
「そうだったな」
その表情を見たエレノアの胸が、また大きく鳴った。
どうして、こんなことで緊張するのだろう。
考えれば考えるほど、これまで何でもなかったはずの出来事まで違って見えてくる。綺麗なものを見ればアレンにも見てほしいと思うし、面白いことがあれば話したくなる。姿を見つければ嬉しくなり、一緒にいる時間が長ければいいと思う。別れたあとには、次はいったいいつ会えるのだろうと考えてしまう。
父からアレンが帰るかもしれないと聞いたときも、胸の奥が寂しくなった。それは毎日のように顔を合わせていた人がいなくなるからだと思っていたけれど、今なら、それだけではなかったのだと分かる。
この人がいなくなるのが嫌なのだ。
そこまで考えたところで、エレノアは思わず俯いた。
もしかしたら私は、アレン様のことが好きなのかもしれない。
一度そう思ってしまうと、今まで何でもないと思っていたことまで、ひとつひとつ違って見えてくる。手を差し出されたことも、名前を呼ばれたことも、頬に触れられたことも、思い出すたびに胸が落ち着かなくなった。
そして、もうひとつ、それまで考えたこともなかった疑問が浮かんだ。
アレンには、婚約者がいるのだろうか。
二十三歳なら、すでに相手が決まっていてもおかしくはない。どこの家の人なのかは知らないけれど、話し方や身のこなし、身につけている知識を見ていれば、普通の家の出ではないことくらい、エレノアにも分かっていた。
帰る場所に、彼を待っている女性がいる可能性だってある。
そう考えると、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
「どうした?」
声をかけられて顔を上げると、アレンがこちらを見ていた。
「い、いえ。何でもありません」
聞いてみたい。
けれど、聞けるはずもなかった。自分のことをほとんど話さないアレンに、婚約者がいるのかなどと尋ねれば、なぜそんなことを知りたいのかと思われるかもしれない。それに、もし本当にいると言われたら――。
そこまで考えて、エレノアはそれ以上考えるのをやめた。
「本当に何でもないのか?」
「はい。大丈夫です」
今は顔を見られたくなくて、エレノアは眼下の村へ視線を戻した。
アレンはまだ少し気になったものの、それ以上は尋ねなかった。
しばらく二人で丘の上から景色を眺めていると、さっきまで交わしていた言葉が途切れても、不思議と気まずさはなかった。
初めてこの屋敷へ来た頃は、一人でいる方が楽だった。誰かと話す必要もなく、余計なことを聞かれることもない。まして、令嬢と二人で花を見るために丘まで来る自分など、想像したこともなかった。
それなのに今では、こうしてエレノアと並んでいることが当たり前になっている。
傷が治れば帰る。
そのためにここへ来たのだから、回復したことは喜ぶべきことだった。戻れば自分を待つ仕事があり、戦況も気になる。いつまでも身を隠して療養しているわけにはいかないし、帰らないという選択肢は初めからなかった。
頭では分かっている。
それでも、リーヴェを離れたあとのことを考えると、以前とは違う気持ちが残った。
橋も、水車も、この丘も、ここへ来なければ知ることはなかっただろう。
だが、惜しいと思っているのは、場所だけではない。
朝になってもエレノアと顔を合わせることはなくなる。食事の席で話すことも、廊下で呼び止められることもない。外へ出られるようになったと聞いて、嬉しそうに次の行き先を考える彼女を見ることもなくなる。
よく喋る声を聞くこともなくなる。
そう考えると、帰れることをただ喜んでいた頃とは、明らかに違っていた。
「アレン様」
エレノアがこちらを向いた。
「今度は、もっと白くなった頃にも来られるといいですね」
アレンは風に揺れる白い花へ一度視線を向け、それからエレノアへ戻した。
少し前までなら、花がいつ満開になろうと、自分には関係のないことだった。けれど今は、もう一度ここへ来てもいいと思う。
花を見るためなのか、それとも、またエレノアとここへ来たいと思っているのか。そこまでは、まだ考えなかった。
「そうだな」
そう答えると、エレノアは嬉しそうに笑った。
その顔を見ながらアレンは、帰還の日がもう少し先であればいいと、初めて思った。




