13
アレンが再び馬に乗るようになってから、十日ほどが過ぎた。
最初は屋敷の敷地内を歩かせるだけだった騎乗も、医師の許可を得ながら少しずつ時間を延ばしている。長く身体を動かしたあとはさすがに疲れが残るものの、翌日まで寝込むようなことはなくなり、屋敷へ運び込まれた頃を思えば回復は目覚ましかった。
その日の診察でも、医師は傷の状態を確かめながら何度か頷いた。
「問題ありません。体力もかなり戻ってきていますね。ここまでくれば、日常生活についてはそれほど制限する必要もないでしょう」
「そうか」
「ただし、無理をしていいという意味ではありません。疲れを感じたら休むこと。それだけは守ってください」
アレンが頷くのを確認してから、医師は診察道具を片づけ始めた。以前なら、そのまま次の診察日を決めて終わるところだったが、この日は少し違った。
「長い距離の移動についても、そろそろ考えてよい頃でしょう」
アレンは医師へ目を向けた。
「いつ頃だ」
「今すぐ許可を出すつもりはありません。あと二週間ほど今の状態を見て、問題がなければ、そのときに改めて判断します。馬車での長旅となれば、屋敷の周囲を歩くのとはわけが違いますからね」
「二週間か」
「ええ。その間に体調を崩したり、傷に問題が出たりしなければ、おそらく許可を出せると思います」
アレンはしばらく黙っていたが、やがて「分かった」と答えた。
傷が治れば、ここを出る。それは初めから分かっていたことであり、そのために療養してきたはずだった。実際、いつまでもリーヴェに留まっているわけにはいかない。
それなのに、具体的な時期を示されると、思っていたよりもその言葉が耳に残った。
医師が帰って間もなく、子爵が客間を訪れた。
「先生から伺いました。ずいぶん順調なようですね」
「ああ。あと二週間ほど様子を見て、問題がなければ長距離の移動も考えられるそうだ」
「そうですか。それは何よりです。ここへいらした頃は、先生もかなり慎重でしたからね。私も、もう少し長くかかるものと思っていました」
「俺もだ」
「では、先生の許可が出れば、そろそろお戻りになることも考えなければなりませんね」
「ああ。そのつもりだ」
答えてから、アレンは窓の外へ目を向けた。
この屋敷へ運び込まれた日は雪が降っていた。あの頃は窓の外を見る余裕さえなく、目を覚ましても次に眠るまで、ほとんど寝台の上で過ごしていた。それが今では庭を歩き、馬にも乗っている。窓から見える景色にも、もう冬の名残はほとんどなかった。
「出発が決まれば、こちらでも馬車を用意しましょう」
「そこまでしてもらう必要はない」
「怪我人を預かった以上、無事に送り出すところまでが私の役目です。それに、今さら遠慮をされても困りますよ」
穏やかに言われ、アレンはわずかに口元を緩めた。
「分かった。世話になる」
「その言葉は、出発の日まで取っておいてください」
子爵が部屋を出たあと、アレンはしばらく窓の外を眺めていた。あと二週間で帰れると決まったわけではない。それでも、この屋敷を出る日がもう遠くないことだけは確かだった。
♢
午後、エレノアは父の書斎で、領内から届いた書類を整理していた。
春になり、冬の間は止まっていた仕事も少しずつ動き始めている。雪解けのあとの道の状態や農地の整備、これから必要になる資材のことまで報告は多く、父が確認するものと自分でも対応できるものを分けているうちに、机の上にはいくつもの束ができていた。
しばらくして戻ってきた父に、エレノアは三通の書類を差し出した。
「こちらだけ、お父様に確認していただいてもいいですか? 一つは橋の近くの川岸についてです」
「ああ。置いておいてくれ。あとで見ておこう」
「お願いします」
残った書類をまとめようとしたところで、父が思い出したように口を開いた。
「そういえば、アレン殿のことだが」
エレノアは顔を上げた。
「今日、先生がいらしていましたね」
「ああ。かなり回復しているそうだ。このまま順調なら、あと二週間ほどで長い距離を移動できるかどうか判断するらしい」
「長い距離……」
何気なく繰り返してから、その言葉の意味に気づいた。
「では、アレン様は……」
「先生の許可が出れば、帰ることになるだろう。もちろん、まだ日取りが決まったわけではないがな」
父の言葉を聞きながら、エレノアは手元の書類へ目を落とした。
知らなかったわけではない。アレンは怪我を治すためにリーヴェへ来たのだから、傷が癒えれば元いた場所へ帰る。それは初めから決まっていたことで、ここで暮らし続ける人ではない。ただ、その日が来ることを、これまで具体的に考えたことがなかった。
「……そうですね。もう馬にも乗れるようになりましたものね」
「ああ。先生も回復の早さには驚いているそうだ」
「本当に、よかったです」
エレノアは顔を上げて笑った。それは無理に作った言葉ではなかった。初めて見た頃のアレンは顔色も悪く、身体を起こすだけでも辛そうだった。廊下を歩けるようになったときも、庭へ出られたときも、屋敷の外まで行けるようになったときも、そのたびに嬉しかった。
元気になってほしいと、ずっと思っていた。ただ、その先に別れがあることだけを考えていなかったのだ。
「まだ二週間後に帰ると決まったわけではないぞ」
「分かっています」
父はそれ以上何も言わず、渡された書類へ目を通し始めた。エレノアも残っていた紙を揃えたが、先ほどまで何の迷いもなく読めていた文字が、少しだけ頭に入りにくくなっていた。
♢
それから数日後、昼を少し過ぎた頃、エレノアは庭の一角で庭師のトマスと春の花を植えていた。
もともとは庭を通りかかっただけだった。ところが、苗の入った木箱をいくつも運んでいるトマスを見つけ、何を植えるのかと尋ねたのが始まりだった。話を聞いているうちに一つだけ植えさせてもらうことになり、一つ植えれば、その隣も気になる。結局、気づいたときには手袋まで借りて、すっかり作業に加わっていた。
「お嬢様、もう十分ですよ。あとは私がやりますから」
「まだ半分も終わっていないでしょう?」
「だからこそです。旦那様に見つかったら、私が何を言われるか」
「私が勝手に手伝ったと言います」
「お嬢様はそう仰るでしょうけどねえ」
トマスが困ったように笑うのを気にも留めず、エレノアは苗の根元へ土を寄せた。手袋をしていても指先には土が入り込み、袖にも少し汚れがついている。それでも、自分の手で植えた花が並んでいくのを見るのは楽しかった。
「……何をしている」
聞き慣れた声に顔を上げると、少し離れた小道にアレンが立っていた。
「あ、アレン様」
姿を見つけた瞬間、思った以上に嬉しくなった自分に気づき、エレノアは一瞬だけ戸惑った。
父から彼が近いうちに帰るかもしれないと聞いてから数日が経っている。その間も顔を合わせていなかったわけではない。それなのに、こうして偶然会えただけで嬉しくなる。
「お花を植えているんです」
「それは分かる」
アレンはそう言いながら近づいてきた。トーマスが軽く頭を下げる。
「お嬢様に手伝っていただいておりまして」
「トマスが一人で大変そうだったので」
「私は大変だとは一言も言っておりませんよ」
「でも、たくさんありますから」
二人のやり取りを聞いていたアレンの視線が、しゃがんだままのエレノアへ戻った。袖を少しまくり、借りた手袋も土で汚れている。裾まで汚さないよう気をつけていたつもりだが、よく見ればそこにも少し土がついていた。
「君は本当に、令嬢らしくないな」
エレノアは眉を寄せた。
「……それ、前にも似たようなことを言われた気がします」
「そうだったか」
「今度は何がいけないんです?」
「いけないとは言っていない」
「では、どういう意味ですか?」
アレンはすぐには答えず、エレノアの手元に並んだ花へ目を向けた。
「そのままの意味だ」
「それが分からないんです」
「分からなくていい」
納得できずに見上げると、アレンの口元がわずかに緩んでいた。からかわれているのだろうかと思ったが、嫌な感じはしない。それどころか、その表情を見られたことを嬉しいと思っている自分に気づいた。
最近、アレンを見つけると嬉しい。話せばもっと話していたくなる。以前から一緒に歩いたり話したりすることは好きだったはずなのに、帰る日が近いと知ってから、その一つ一つを妙に意識するようになっていた。
「お嬢様、こちらもお願いしてよろしいですか」
トマスに呼ばれ、エレノアは我に返った。
「はい。どこですか?」
示された場所へ移ろうとして立ち上がったとき、アレンがエレノアの顔を見て、わずかに眉を動かした。
「エレノア」
「はい?」
「動くな」
何を言われたのか分からないまま顔を上げると、アレンが手を伸ばし、その親指が頬に触れた。
ほんの一瞬、エレノアの頬を軽く拭っただけだった。アレンは指先についたものを見て、何でもないことのように言う。
「土がついていた」
「……え」
「自分でつけたんだろう」
どうやら作業の途中で、土のついた手袋のまま顔に触れてしまったらしい。アレンはもう何事もなかったように手を離しているのに、エレノアはすぐに返事ができなかった。
触れられた頬だけが、急に熱を持ったような気がする。
「……まだ、ついていますか?」
「いや。取れた」
「そう、ですか」
確かめたくなったものの、両手は土だらけだった。それに気づいたエレノアは行き場を失った手をそのまま下ろしたが、アレンはもう気にしていないらしく、並んだ花を眺めている。
「これは全部、君が植えたのか?」
「全部ではありません。私が植えたのは、あちらから……その辺りまでです」
答えながらも、エレノアはどこか落ち着かなかった。声がおかしくなっていないだろうか、顔が赤くなってはいないだろうかと、そんなことばかりが気になってしまう。
「お嬢様?」
トマスに呼ばれ、エレノアは慌てて振り返った。
「は、はい」
「こちらを」
「今行きます」
しゃがみ込んで再び苗に手を伸ばしたものの、さっきまで何も考えずにできていた作業なのに、妙に手元へ集中できなかった。頬に触れた感触がまだ残っているような気がして、どうしてこんなことでと思うのに、心臓はなかなか元の速さに戻ってくれない。
しばらくしてアレンがその場を離れてからも、エレノアは何度か無意識に庭の小道へ目を向けた。当然、もうそこに姿はないのに、それを少しだけ残念だと思ってしまう。
父からアレンが帰るかもしれないと聞いた日から感じている寂しさ。姿を見つけただけで嬉しくなり、もう少し話していたいと思う気持ち。そして、ほんの少し頬に触れられただけで、こんなにも落ち着かなくなる自分。
手元の花を見ながら、エレノアは初めて、そのすべてが同じところにつながっているような気がした。けれど、浮かびかけた答えを確かめるのが少し怖くて、もう一度土へ手を伸ばした。




