赤い春⑤
迷っていた。
授業の内容も、常以上に耳に入ってこない。机の上に腕を寝かせ、それを枕にしつつ窓の外を見つめる亮は、教壇で何かをしゃべりつづける教師の声の一切を聞き取らず、ただ心のうちの黙考にすべての感官を集中させていた。空の青ですら、その心には映っていなかった。
名簿順に並べられた席は、窓側の最前列に亮のそれを、その最後尾に京谷実のそれを配している。
亮は心のうちの思慮に集中しながらも、その合間々々に、完全な死角となるその席から何といいようも知れない不快な圧迫をたびたび感じていた。見もしないその表情にあの不敵な笑みを撰んでは、輪郭のはっきりしない流動の性質を持つ何ものかをひとつの型に収斂しようと努めるようなその真摯な黙考を、たびたび不快で断って眉根を寄せていた。決断を迫られているのだ。それが不快に焦燥の意味を混ぜ、霧散させることを許さなかった。
無視をすればいい。不快の惰性に従って、亮は何度もそう思った。勝手な約束などは平然と破り、何をいってこようとも無視すればいい。つまりは、昨日までの関係性を京谷実との間にまた築き直せばよいと。
しかしその惰性の決断を容易に受け入れさせない重要な意味が、その黙考の題目には含まれていたのだ。
「自由」
昨日以来、亮の心中にはその言葉が貼りついて離れなくなっている。あるいはそれは、もともと心底の泥の中に埋もれていたものが、他者からの刺激によってその沈殿物を取り払われて、その心のうちに露になっただけなのかもしれない。
しかしそれは、自由という言葉の意味は、そしてその言葉の持つイメージとは、いまだ巻き上げられた沈殿物の濁流の中にあって、まるでそれはもやにかかっているようで、いくら腕を振り回そうが視界はひらけず、何ほどの実体もつかむことができない。ただそれがそこにあること、そして自分はそれを見つけずにはいられないということ、それだけはわかるのだが、しかし一向に進展はせず、黙考は終わらない。
亮は机の上で寝返りを打った。忙しなくペンを動かしているとなりの席の手が見えた。自身が床に落としている影が、いつもより濃く見えた―
昨夜、父が意外に早く帰宅した。早くとはいえ、それでも二十三時近くのことである。そのとき亮は、自室で帰り道の途中に買った雑誌を読んでいる最中だった。
もとよりひらくページの内容など大して頭には入っていなかったのだが、玄関の開く音を聴いた瞬間に、亮は久しく顔を合わせていなかった父のその姿を否応もなく想像してしまい、それはただページをめくるだけの運動に成り下がってしまった。明かりを消して、もう寝てやろうかと考えていると、しばらくして廊下を歩くスリッパの音が聞こえてきた。それは亮の部屋へと近づいてき、やがてノックをして声をかけてきたのは母だった。
「亮、まだ起きてるわね?」
亮は無愛想に返事をした。そのときすでに嫌な予感があった。すると案の定、母は父が呼んでいるという。それを聞いて、ひじをついてベッドに伏していていた亮はすばやくその身を起こした。呼びかけに応えようとしたのではない。迫り来る危機に対し構えを取ったのだ。
何の用か、と亮は問うた。しかし母は答えず、ただ用件のみを繰り返した。生ぬるく濡れた声は、そのときに限ってさも自分を哀れんでいるように聞こえた。しばらく考えて、亮は扉を開けた。部屋に来られるよりはましだと思ったのだ。
リビングへ赴くと、父がいない。ダイニングのテーブルにその姿はあった。相変わらず、鉄骨でも通したかのようにまっすぐ背筋が伸びている。卓上には湯呑みがひとつと、かたわらに折りたたまれた新聞紙がおかれてあった。もう終えたのか、それとも外で摂ってきたのか、食膳はなく、父はテーブルに両腕を置いて伏した目で卓上を射抜いていた。両の拳が握り締められていた。
何もいわず、はす向かいの席の椅子を引いた。母がそのとなりに腰を下ろした。頬杖をつくと、亮はそっぽを向いた。
「亮。近頃帰りが遅いのか」
低い声で、父が話頭をひらいた。その内容は想像していた通りのものだった。大方、母の陳情でもあったのだろう。
「どこで何をしているんだ」
上向いた視線がこちらを向いた。亮は視線をそっぽに戻し、痒くもない鼻をつまんで掻いた。問いかけには応えなかった。
卓上を、やたらの重厚さをはらんだ沈黙が押し挟んだ。しかし、ここで同じ問いを繰り返すことを父はしない。反応のないことにしびれを切らすような、そんな凡百の男ではないのだ。この男は、ひとたび言葉を放ったならば、その返りをひたすらに待つ。その間、視線も姿勢も微塵たりとも動くことはない。よほど忍耐強いのか、それとも気が長いのか、亮がどれだけ無視を装ってみても、動揺を見せたことなど一度もない。
亮ははすを向いたまま小さくため息をついた。
「・・・べつに」
「友達と遊びまわっているのか」
「違うっ」
やや性急に、亮は言葉を返した。遊びまわっている、というそのさも軽薄な表現に気が立ったからだ。といって、何をしているのかの説明もつかず、その先は続かなかった。
父は黙っていた。ならば何をしているのかと、問いを重ねることはない。
亮も口をひらかず、頬杖の上で仏頂面をさらし続けた。
重い沈黙の中で、となりに座る母だけが所作を持っていた。あるとき母は、卓上の急須の肌に手のひらをやり、冷めていたのか、それを手にとってポットのあるキッチンへと向かった。そのとき、卓上に下ろしていた両腕を胸の前で組み、父がようやく重い口をひらいた。
「何をしていてもいい。だが夕食のころにはうちに帰りなさい。でなければ連絡を入れなさい。どこにいるのか、遅れる理由は何か、必ず母さんに伝えるんだ」
「何でだよ」亮は鼻で哂って見せた。
「何でそんなことをする必要があるんだよ」
「心配をさせないためだ」
「勝手に心配してるんだろ。現に俺は毎晩ちゃんと帰ってきてる。俺は所有物じゃないんだ。しじゅう管理から逃れることを許さないなんて、そっちのほうが問題あるんじゃないのか」
いい放ち、そこで初めて亮は父の正面を向いた。父は微動だにしないその視線を向けていた。それは、にらむことも凝視することもしていなかった。正しく表現するなら、それはただ見つめているだけだった。
しかし亮にとっては、その視線はそれ以上の重みを持っていて、突き刺さるようにも、撃ち抜かれるようにも感じられた。視線を重ねていると、向けられた目を中心に、やがて周囲の世界が歪み、捻転を始めるのだ。そして亮の身を揺らし、意を惑わし、何かにつかまっていないといられないような状態に追いやろうとする。それは恐怖ではない。単純な怒りでもない。そうさせるのは、亮が感じている、父が持つ何らかの「力」だった。
しかし強い力に打たれれば、ばねはより強い力で反発しようとする。亮は頬杖を解き、卓上で拳を握った。そして啖呵を切るようにいった。
「とにかくそんなことはしない。俺の時間は俺が使う。俺の行動は俺が決めるんだ。それで何の問題もないはずだ」
しかしその啖呵に父は応えなかった。変わらず亮をただ見つめていた。それはあたかも、「今の言葉には何の道理もない」といっているようだった。そして、「お前も本当はそれに気づいているはずだ」といい聞かせているようだった。
亮は席を立ちかけた。しかしそれは逃げだと思い、浮かせかけた腰を危うく踏みとどまった。
「お前が考えているだけが現実じゃない。世の中には悪意というものがある。事故というものもある。管理のためではなく、お前を守れなくなることを心配しているんだ」
父がいった。しかしその声に、言葉の意味が指す優しさは微塵も含まれていなかった。
「それぐらい知ってる。危険を避ける力ぐらいあるさ。だからほうっておいてくれよ。何があっても、責任は自分で取ればそれでいいだろ」
「馬鹿をいうな。責任を持つのはわたしだ」
そのひとことに、亮は弾かれたように逆上した。
「ふざけるな! じゃあ責任を取るのが嫌だからってそう言ってるんじゃないか!」
「お前はまだ子供だと言っているだけだ」
「年齢だけだろう!」
亮は手を突いて立ち上がった。椅子が転げて床に倒れた。
「俺より年上だって、ほとんどがろくな奴じゃない! 大人だってそうだ! 問題を起こすのはそういう連中だ、心配するのは勝手でも、それなら俺を馬鹿にしてるのと同じだ!」
激情に任せて亮は怒号を放った。ダイニングの空気は確かにその怒気に震蕩した。しかしその怒号は、何にぶち当たることもなく落ち、すぐに消え去ってしまった。父は亮の叫びを一顧にせず、動揺はおろか、少しの興奮すら見せなかった。これではまるで、亮が一人で慌てふためいているような格好だった。といって亮はそれにただ苛立ちを増すことしかできず、怒りの中で強く奥歯をかんだ。
父が、立ち上がった亮に向けてその面を上げた。
「亮。お前とその馬鹿だという連中と、どこが違うのか、言ってみなさい」
「俺はちゃんと考えてる! 奴らただへらへら生きてるだけじゃないか!」
「そうか」
父はそこで一度下を向いた。そしてまた射抜くようなその視線を上げた。
「ならば、お前以外の者が何も考えていないことを、どうやって証明するつもりだ。へらへらしているというその者の全人生を、お前は見てきたのか」
そういう語尾に、初めて昂揚があった。お前は何を見てきたつもりでいるのかと、きつくいい聞かせようとするような高まりがそこにはあった。そして亮はそのひとことの意味と昂揚に気圧されてしまった。何も応えることができず、立ち上がったまま下を向いてしまった。
「亮。子供だとはいったが、お前は成長を始めている。ちょうど世の中の矛盾にも気づき始めるころだろう。その憤りのすべてが浅薄なものだとはわたしは言わない。しかし、お前の憤りにお前なりの筋道があるように、お前が見てきた者たちには彼らなりの人生と道理がある。それが、お前の想像しているようにへらへらしたものであると言い切られる根拠がどこにある。もちろん、批判精神を抱く資格は誰にもある。しかしいいか。それを現に口にする者は、同時に自らの正しさも証明しつづけなければならんのだ。人の咎を言い立てる前に、まずはわが身を振り返りなさい」
ぶつりぶつりと、ときおり言葉に間隙を持たせながら、父はそういった。下を向きその言葉から顔を背けながら、亮はずっと歯軋りをしていた。ひとことが途切れ、そしてまた継がれるたびに、胸の中心に掛かる重石を、ひとつまたひとつと増やされているようだった。
父のいっていることは、亮が日ごろ煩悶している理由とよく似ている。まだ何者でもないということ。しかしそれを「敵」に聞かされることは許せなかった。諭されることはなお腹立たしかった。
「・・・俺の、」
亮は下を向いたままつぶやいた。知らずのうちに拳を硬く握り締めている。何をいおうとしているのか。震え、胎動し、こみ上げようとするその言葉は、あまりに論理に触れていなかった。反発のための反発。そうさせたのは、それがおそらく、「抵抗」であったに違いない。
「俺のどこが間違ってるって言うんだ・・・!」
亮は「抵抗」に燃え震うその面を上げた。そして静かに自分を見る父を、口唇をかみ締めながらにらんだ。しかし父は、亮のその何らかの決意にわずかな所作を差し挟むこともなく、すぐさまその答えを返した。
「母親を心配させることが正しいことだと思っているのか」
その言葉にはっとして、亮は口唇の縛を解いた。そしてとなりに座るその姿に目をやった。
母はうつむき加減に卓上を見つめていた。ひざの上に両手をそろえ、その眉根はつままれたように寄せられていた。叱咤の理由にされて困惑しているのではない。まして怒りでもない。それはただ哀しんでいる表情だった。
父に向けた信頼が、いやというほどにその表情から亮に伝わった。そして息子への哀しみがそこには添えられていた。ここに味方は誰もいないのだ。泣き出しそうになり、亮はリビングのドアへと駆け出した。
「亮、待って」
と、母が椅子を立って呼び止めた。ノブに手をかけたまま、亮は反射的にその動作をとめた。そのとき、「頼子」と名を呼んで、父が母を制した。
「もういい」
亮はそういう父をにらんだ。卓上を見つめる彼のその表情は、その眉間に母と比べようもない深いしわを刻んでいた。それは怒りなのか、それとも哀しみだとでもいうのか。今まで徹して壊れなかった表情が、初めて歪んでいた。
(何がだっ・・・)
(何が「もういい」んだ!)
亮は怒気に立ち返り、つかんだノブを強く握り締めた。ひらいたドアをたたきつけるように閉めると、自室へと廊下を踏みしだいた。そして部屋に入ったとたん、ベッドに突っ伏して、力の限りに枕を殴った。繰り返し殴りつけた。
そしてそれから、いつ訪れるとも知れない眠りまでのあいだ、亮はずっと怒りに身を震わせつづけた。それはほとんど、父よりも、己に向けられた激情だった。ある瞬間には、父よりも己を憎くさえ思った。自分が許せなかった。
あるとき、扉をノックする音があった。続いて母が、またひとつ哀れみを重ねた濡れた声で、何かをいった。亮は何も応えず、しかし呼吸すら殺さず、それを黙殺した。




