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PAN  作者: hkdyksry
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赤い春⑥

 この時期、五月の宵のうちは、妙に心を静かにさせる。どれだけ心中にけたたましい思惟があろうとも、そしてそれが怒りの色を帯びていたとしても、ちょうど満月の夜(よ)の下(もと)の大海が、その深部にどれだけ激しい海流をはらんでいようとも海面の凪を穏やかに湛えつづけるように、亮の表情はいささかも歪むことはなかった。そうさせるのは、その身を包むこの時期特有の環境だった。

 日中、陽差しが烈しくどれだけ赤熱を帯びていても、ひとたび太陽が没すれば、大気は青白くその熱を冷ましていく。うっとうしい湿気も今はまだなく、といって乾いてもおらず、暑くもなく涼しくもない、梅雨と晩春とのすきまにある夕闇の中庸は、あらゆる感官を鈍くさせ、時の流れすらゆるく感じさせる。

 白光のネオン。車道の駆動音。人々の為すざわめきと、行き交いが残す大気の微動。たとえ喧騒の只中にあっても、ゆるやかな風のひとつも吹けば亮の心はたちまちに塵を払われて、街の干渉を軽やかに撥ね退ける。そうして、孤行をただ思惟に費やすのだ。それは気力が尽きるまで、あるいは心が感官とつながるまで、果てのないかのようにつづいていく。

 だが、この日の亮は少し違っていた。街が騒がしいのは常と変わらない。心のうちはやはり静かである。しかし、いつもならば放っておいても浮かび上がるさまざまな疑問や思惟の命題は、この宵に限って姿を現さず、亮は街の喧騒に漫然と目をやりながら、ただ、いま自分がここにいる理由と、そしてこれから赴こうとしている未来の理由とを、心のうちで繰り返し反芻させ確認していた。大海の凪には何らかの異物が起こしたわずかな白波が立っており、心の官能において少しの不快を覚えることで、足取りにおいて常以上の速さを携えることで、それは表出されている。では何故、そういった差異が生まれたのか。それは、その歩みがいつものように無為なものではなく、果てに目的と刻限を持っているからに違いなかった。

 京谷実は誘いを重ねなかった。昨日以前の、つまりはいつもどおりの関係を装って見せた。それは、あえて念を押すまでもないことを確信した上でのことのように思えて、亮にとってはしつこく付き纏われるよりもかえって不快だった。約束の場所に赴けば、その驕慢が驕慢ではなかったことを証明してしまうことになる。その思いは撰択を否の一方へ大いに傾けた。しかし結局は、ついぞ心中を離れることのなかったこの一念が、その傾きを正反対へと押しやった。

「…自由って何なんだ」

京谷実という人格はどこまでも気に入らない。その言葉も自分とは相容れないし、示す先に疑問の回答があるとは想像していない。しかし何もしないでいては、考える材料があまりにも足りなかった。退屈な日常、鬱積されるだけの疑問、爆発寸前―。あるいは日々の習慣を踏み外すことが何かのきっかけになるならばと、京谷実にではなく、変化に対し何ものかを期待したのだ。

 昨夜の父との一件がなければ、そうは考えなかったかもしれない。というよりも、むしろそれこそが決定の最大の要因だったのかもしれない。昨日の今日で、まさか父の言いつけのとおりに早く帰るわけにはいかなかったのだ。そして何より、強大な敵を前に対抗できるだけの、何かよほどの「力」を求める心が、「自由」をそれと定めて、傾いたのだ。父に比べれば、そして昨夜の己への怒りに比べれば、京谷実の不快な存在などさほどの苦にもならない。そうして亮は、行くことを決めた。

 午後七時五十分過ぎ。刻限を前にいつものように街をうろついていた亮は、指定の場所より少し離れたところにいた。律儀に時間を守ってやる義理は少しもないのだが、どうせ行くのだから、勿体つけるほうがこの際は醜い。亮は心なし歩を速めていた。

 黒煙が鼻先をよぎる。腹いっぱいに客を乗せたバスの背には、駅前へ向かうと表示が見える。きめの粗いバスの排気はうすぼんやりとした空へと昇り、街の底を映える種々の照明の灯りと、その前を行き交う人々の流れが視界を取って代わった。コンビニの角を曲がり、ファーストフード店の前を横切り、行きつ戻りつの人波の中でその歩みを止めたとき、ちょうど八時になるかならないかの時刻だった。

 そこは御毛沼駅を東口から出て、交差点をはさんだ向かい側に当たる。角に立つビルの一階が書店になっている。横断歩道の真ん前にあるその場所は、駅へ向かって信号待ちをしている人の溜りと、待つのを厭うて歩道橋へ向かう人の流れとで、恐ろしく混雑している。行き過ぎる靴音は絶えないし、こもった吐息も晴れそうにない。こんな人波の中で、一人の人間を見分けられるだろうか。喧騒を厭いながら、亮は信号待ちの群衆を抜け、歩道の端に立って背を向いた。

 常の通り、亮は制服のままである。だからあるいは、向こうが見つけるだろうか。そう考えながら漫然としていると、ガードレールに向けた背のさらに後方から、その声があった。

「やあ、来たな」

振り向くと、予想を裏切らない不快な笑みがそこにあった。京谷実は確かに制服姿ではなかった。白亜のパンツに黒のカッターシャツと、それはどうということもない格好なのだが、普段を知らない亮にとってはそれが妙に気取って見えた。

「何があるんだ」

「まあそう急くなよ。まだ少し時間がある」京谷実は腕時計に目をやった。

「それに、前段階として話さなければならないこともある。とりあえず離れよう。ここはうるさくてかなわない」

そういって京谷実は辺りを見回した。道端にへたり込む数人の男女をその視線が認めたとき、内省の足りないこの男は、口唇の端を吊り上げてわざとらしい嘲りを作って見せた。

「こんな場所を指定しなければいい」

「わかりやすかったろう?」

人波をかき分けて、先導者は迷いなく進む。横に並ぶでもなく、亮はいささか憮然としながらもそれについて歩いた。

 いま来たばかりの道を戻らされ、五差路の道路を渡らされ、歓楽街の真ん中を突っ切って、亮らは大きな車道に突き当たった。横断歩道を渡ったところで、京谷実はつと振り返るそぶりを見せた。

「昨日はどこまで話したかな。我々が不当な扱いを受けているという、あのくだりか。どうだ。君にも覚えがあるだろう」

「何が」

「不当な扱いさ。中学生という位相だけで、他と同じように子ども扱いをされる」

うんざりだ、というように京谷実は眉根を寄せた。それを聞いて亮が想起したのは、必然と、昨夜の父との一件だった。

 御毛沼駅の東口。そこから展開される東御毛沼の街は、南東と北東から駅口に向かって走る二本の幹線道路に区切られて、地図上に見れば三角州のような体になっている。その州の中が最も人の集まる中心地となっているのだが、亮たちは今しがたそこを脱して外れに至った。車は次々と走っているが、同じ道の上を行く者は少なく、人波と呼べるものはなるほど消えた。もはや声も届くだろうと判じたのか、京谷実は昨日のように饒舌になって愚痴のようなものを羅列し始めた。

 いわく、教師の無能。同窓生の幼稚。社会の惰性。己の不遇。それは、確かにいくらか共感できるものではあったが、しかしあまりに独断的で排他的であり、慧眼を思うよりも、よほど学校での孤立が身にこたえているのだろうと、この痩せた秀才のひねくれた性格をなお強く印象付けるだけだった。

 ポケットに手をすっぽり入れて、いからせたひじで空を切りながら、しかし踏む足取りは整然と澱みなく、最短距離をとって京谷実は歩いていく。それは、合理性と子供の虚勢を上下に分離させて象徴させているようで、そして同時に、心中での真情と吐き出される言葉の乖離をも思わせる。いったいどこまで連れて行くのかと、つまらない愚痴を上の空に聞きながら嘆いていると、行く手に見えた広い駐車場のあたりを指して、京谷実は振り返った。

「あそこだ。陸橋があるだろう。あの上ならめったに人も通らない」

線路沿いに建つとある高層ビルの袂に、数十台は停められるほどの駐車場がある。その中ほどに、線路を越えて架かる陸橋の上り口が見えた。陸橋のさらに頭上には橋状に地から浮かされた幹線道路が通っており、高架の下のその場所は、確かに人気もなさそうだ。隣接しているのは公園で、街灯はあれど辺りは薄暗く、先ほどまでの喧騒が嘘のように思えるほど静かになっていることに、亮は今頃気がついた。

 階段を上る。橋を少し進んで京谷実は立ち止まった。そして、ようやくの到着を喜ぶように、いやらしく歯列を覗かせた。続いて立ち止まった亮が欄干に両肘をついてもたれると、彼はそのままの表情で話の言を継いだ。

「中学生という位相、十四という年齢を前にして、人はひとつの枠を設ける。すべての判断はその枠内で為されるんだ。それにとどまらない人間が現に存在しているのだということに、想像を及ばせようともしない。まったく、常識というのは忌むべき習慣だよ。少なくとも僕らにとってはね」

「高説を聞きに来たんじゃないよ。ましてや愚痴でもない。それで結局、俺に何を見せたいんだ」

亮はそっぽを向いて、足元に目を向けた。駐車場を照らす街灯の背が見えた。まだ幾台もの車が、目覚めを待って眠っている。そしてどうやら、駐車場の片隅には人の気配があった。それも複数らしく、ふざけあって笑うような声が、それと思えばそれと聞こえてくるほどのか細さで届いている。

 京谷実はとなりに並んで、欄干に背を預けて亮とは反対側を向いていた。そしてやはり、質問にまともに答えようとはしなかった。

「僕らはとてつもない不満を抱えている。その原因は、君は何だと考える?」

「お前の言う、不当な評価うんぬんだと言いたいんだろう」

「そう思うだろう。だが違うんだ」

そういって京谷実は、やたらと芝居がかりに片眉を上げて首を振った。いちいちが癇に障る。ひょっとしてわざとやっているのかと、ふと想像して、亮は一人で笑いをこらえた。

「よくよく考えれば、社会的評価というものは所詮は弱者の談合だとすぐに気づく。なら、そもそもの多数決システムが不満なのか? それも、集団形成の果ての必然だと思えば、嘲笑の的には成っても怒りのそれにはならないだろう」

そこで京谷実は口をつぐみ、いやらしい笑みのままで何かもったいぶった。耳慣れない言葉を使えば、それが異能の証になると確信し、そしてよほど自分の演説に酔っているらしい。苛ついた亮は努めて駐車場を向いた。例のかすかな笑い声が絶えていた。

「問題はねえ、僕らがこの能力を使いきれていないことにあるんだ。使う場がないんだ。試験なんてものはそれには値しない。中学生には職も得られない。僕らは百メートルを十秒で走れるのに、ずうっと十五秒かそこらで走らされている。力が有り余っている。それが不満のもとなんだ」

その言葉に亮は振り向いた。なるほどと思った。しかしそこにあった変わらずの笑みに、その感嘆符を飲み込んだ。

「それで、その力を使いきれる場を、俺に見せようって言うのか?」

「察しがいい」

「でも何があるんだ。こんなところで」

「待て。…来てるな」

言を断ち、京谷実はあらぬ方向へ聞き耳を立てた。気の抜けたような噴気音が、重なり合ってだんだんと近づいてきていた。やがて複数のミニバイクが、コンクリートを照らし姿を現した。続けて三台、遅れて一台のバイクは、いったん視界から消えたかと思うと、足下の駐車場に現れて噴気音を止めた。

「八時二十一分。まだ少し早い。ずいぶんと律儀じゃないか」

腕時計に目をやり、京谷実はそういって小刻みな含み笑いをもらした。

 四台のバイクのほとんどに二人ずつが座っていた。当然のように誰もヘルメットは被っていない。街灯の光の反射具合で、髪の色が黒ではないことが遠目にもわかる。要するに、いくらでもいる街の「少年」たちだ。年恰好は、亮たちと同年代くらいだろうか。

「あいつらが何だ。まさか見せたいってのが」

「いや、違う」京谷実は少し考える素振りを見せた。

「そうだな。いうなれば、あれは供物だ。言葉で説明するよりも、見たほうがまずは早い。そのために呼んだんだ」

「あいつらを、お前がか?」

「正確に言えば、時間と場所を伝えただけだ。呼んだのは僕じゃないということになっている。双方ともに、ね」

「双方?」

疑問の面を向ける亮に、京谷実はふん、と鼻で笑って見せた。状況を把握できないでいるものを嘲笑うその仕草に、亮は多少なり苛立った。もったいぶった男は、身を反転させ、その嘲りを駐車場へと向けた。

「まあ疑問はあるだろうが、まずは見ることだ。じきに本命も姿を現すはずだ」

 そういって京谷実はその視線を四方へ散らした。そして思い出し笑いのような、小刻みな含み笑いで闇夜の片隅を突いた。何かを探す視線は決して一点にとどまらず、しかし目的を持ち迷いのないその目は、まるで大きな絵画に見入っているかのように、好奇の光を反射している。

「本命。そいつを見せようっていうのか? いったい何者なんだ」

その口ぶりから、京谷実の「見せたいもの」というのが人物、あるいは集団であろうことはわかる。しかしそんなものを見せていったいどうしようというのか。何が起こるというのか。そしてそれが、いったいどうして「自由」とつながるのか? 意図が見えず、不本意ながらも亮はその疑問を口にした。

 京谷実はにやついた口の端を閉じた。そして欄干についた肘を離し、背筋を伸ばした。遊ばせていた視線を戻し、亮を振り向くと、京谷実は、静寂のはざまにその言葉をこぼした。

「龍胆、だよ」

―りんどう。それは目的の人物の名なのか、単に花の名なのか。それとも、また何かもったいぶった暗喩なのか。亮はいっそうに眉根を寄せた。その言葉の意味はわかりかねたが、重ねて訊きはしなかった。


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