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PAN  作者: hkdyksry
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赤い春④

 校門を出ると群青色のアスファルトに覆われた車道が目の前に横たわる。駅に向かうには、ずうっと校内を囲うフェンス沿いの歩道を行くことになる。すぐとなりには付属の本体となる高校があるので、その白亜は幹線道路に突き当たるまで延々と続いている。傾き始めた陽を浴びて、街路樹の葉が檸檬色に輝いていた。

「読ませてもらったよ。例のもの」

「何を」と反射的に亮は訊いた。京谷実は、いつか亮が戯れにノートに記した、あの一文のことだと答えた。それを聞いて、亮は適当な相槌を打ちながら、よりにもよってこの男にその話をされるとはと、ただ不快であっただけの状況が急に窮屈なものに感じられた。

「結論からいおうか。君は間違っていないよ。間違っているのは、この社会の絶対多数のほうだ。だから少数にあたる優秀な者はそんな迷いを抱くことがある。君は正しいが、そこのところの認識にいたっていないんだ。思い悩む必要などないんだから」

追って出たその声は明らかな衒気に満ち、高揚していた。少し黙ったあとで、平静の調子で亮は応えた。

「議論する気はないよ。相手が欲しいのなら、国営放送にでも行ってくるといい。しゃべる場ならそこにある」

「いや、それは嘘だ」

京谷実は間髪を入れなかった。

「本当は喜んでいるはずだ。まともな話しのできる相手が現れて」

そういわれて、亮は言葉に詰まってしまった。図星だったからではない。図星なのかどうか、わからなかったからだ。喜んでなどはいない。しかし今日の亮は確かに言葉が多い。いつもならば皮肉をいう気にもならないのだ。少なくとも、わずかな興奮は覚えているのかもしれない。

 目前の歩行者信号が、今にも明滅し始めそうな気配を発していた。並んで立ち止まることを厭い、亮は赤に変わらぬよう祈ったが、それは絶妙のタイミングで裏切られた。果たして、歩道の縁石の上に二人は立ち並んでしまった。

「君の鬱屈は大いに理解できる。世のなか馬鹿ばかりだ。うちの学校だってそうさ。なるほど天下の八州(やしま)付属に集まってきた教職なんだから、授業の技術は一流なんだろう。だがそんなものは訓練の積み重ねでどうにでもなる。生徒も生徒で、ある程度の期待は抱いていたけど、結局はお勉強マシーンの坊ちゃんの集まりだ。だあれも自分で考える頭なんぞは持っていない。唯一の例外が君だな」

「ちょっと待てよ」亮は並んだ京谷実のほうを向かなかった。

「勝手な同一視は迷惑だ。不満があるのは認めるけど、俺のはそういうものじゃない」

そして冷厳にそういい放ったが、まとわる粘着は断ち切られず、かえって勢いづいた。

「まただ! 習慣がそうやって嘘をつかせる! 君も馬鹿ばかりの社会を不満に思っているはずだ! …けど口にすることは習慣が許さない。その名を教えてやろうか? それは善意という習慣だ。心のどこかで、人を見下すのはよくないと善意が思い込ませているんだ。だがいいんだよ。優秀な人間には、通常悪と見なされていることですら、その行使を許されるべきなんだ。善意なんてものは、所詮は多数決に過ぎない。それはすなわち弱者の決定だ。われわれ強者が、どうして弱者の水準にまで下りていってやらなきゃならないんだ」

「すごい物言いだな。学年で一位にでもなれば、社会の強者になれるのか。なら俺ももうちょっと頑張ればよかった」

「そう、そこなんだ。問題はまさにそこなんだ」

京谷実はそういって亮を指差した。いきおい興奮を増し、今にも唾を飛ばしかねない。

 信号が青に変わり、二人はまた歩き出した。幹線道路に出れば、駅はすぐ目の前にある。

 それにしても、と亮は考えていた。京谷実は先ほどから亮のいう皮肉の部分にはまったく反応しようとしない。おそらくは耳に入っていても頭がその意を解さないのだろう。京谷実がこれほどよくしゃべる奴だとは思っていなかったが、しかしどこまで自分勝手なのか、どこまで自己本位なのかと、亮はその心性を卓抜した奇異に思い訝った。同時に、京谷実という人格に対する少しの興味もわき始めた。

「それもまた社会が馬鹿の集まりであることの証拠なんだが、」

と、勝手な論客は歩みを寄せながらなお熱くなっている。しかし亮はその言葉にはさしたる注意を向けず、一人ぼんやりと、別のことを考えていた。

「われわれがどれだけ自分で頭を使える強者であっても、どれだけ優秀であっても、社会から見ればあの馬鹿な坊ちゃん連中とひと括りの、ただの一生徒でしかないんだ」

「そうだな」

「といっても、一足飛びに相応の権力を手にするというのはあまりに現実的じゃない。それを手にするにはどうしたってあと何十年かが掛かってしまう。だがそれまでの間はどうする? 少なくとも大学を出るまでの数年間、ずうっと馬鹿どもの間に埋没してなきゃならないのか? 冗談じゃない、気が遠くなるよ。そう思わないか?」

「大変だな」

 などという間に、駅に行き着く。京谷実が続いて改札を通る。

 コンコース内を行き、ホームで列車の到着を待つあいだにも、京谷実は彼のいう「馬鹿ども」に対する不満をのべつ幕なしに話し続けた。この分だと、勝手な付随者は列車の中でも粘着し続けるだろう。普段から特に楽しい帰路であるわけではないが、それを思うと常に増して憂鬱にさせられる。

 そしてその予想の通り、京谷実は車内でも自説を振りかざし続けた。彼いわく、馬鹿どもの馬鹿を矯正する術はなく、啓蒙は無意味である。ならば、埋没から逃れるためにはドロップアウトするしかないのだが、それはできない。実力本位の世界にすら、今はまだ学歴という物差しが必要だからだ。そして、そのような世の中を変えるためにはそれ相応の地位につかなければならないのだが、そのためにはまず学歴を手にしなければならないからだ。これは彼のいうところによると、「大いなる皮肉」であるそうだ。

 亮はその間ずっと、適当に相槌を打ちながら、京谷実という人格が何故このように形成されるにいたったのか、その理由と原因についてを、ぼんやりと考えていた。そのうちに列車は御毛沼に到着した。

 亮は列車を降りた。そしてまっすぐに階上へと昇るエスカレーターに向かった。そのとき、京谷実があわてて背後から呼び止めた。

「おい、どこに行くんだ」

亮が向かったのは、駅出口ではなく線を乗り換えるホームへ向かうエスカレーターだった。

「いったろう。うちに帰るんだ」

確かに、亮の心中には少しの興味がわいていたが、それは人格の奇異にであって、京谷実のいう目的にではない。それはいわばひとつの標本を見るような興味であり、そしてさして強いものでもなく、何もその生態までをも調べたいとは思わない。だからついていく気はないと、亮は振り返ってそういった。

 すると、意外な返答が眉を寄せる京谷実の口をついて出た。

「何故だ? いつもはここで降りているじゃないか」

どうしてそれを知っているのか。疑問に視線を尖らせると、虚をついたことを誇ってか、京谷実は不遜な笑みを浮かべた。

「毎日のように見かけているよ。うちは白山だ、ここへもよく来る。ただ、制服は着替えてから来るから、君が気がつかないのも無理はない。君のほうは目立っていたけどね」

とにかく行こうと京谷実は誘いを繰り返す。ここで降りないと話が始まらないという。しかし、不快な笑みに気を悪くもした亮は、その誘いに一言を返すこともなく身を翻した。すると京谷実がその腕をつかんでとめた。

「何故だ。この期に及んで何をごまかすこともないんだぞ。相手はこの僕なんだ」

何をいうか。身に触れられ苛立った亮は、率直にその愚を暴いてやろうと三白眼をにらみつけた。

「違う。俺とお前とは違う。俺はいろいろ考えているし、お前もそうなんだろう。けど方向が、動機が違う。俺は、自分自身を納得させ慰めるために考えているんじゃない。本当のことが知りたいからそうしているんだ。勝手な誤解で付きまとうな」

「心外だな。僕もそうさ。何をもってそういう」

片眉を上げ、京谷実は鼻で哂って見せた。亮は哀れむような視線を怒りで包んで、平静の調子でいい放った。

「お前には迷いがない。もうすべてを決定してる。俺はまだそれを捨てるつもりはないんだ」

そのひと言に、京谷実の目の色が変わった。それは初めてうろたえたようにも見えた。

 京谷実の考えには、まず孤立が先立っている。それが動機なのだと、電車の中で亮は考えていた。だから考えが排他的になり、そして、己にかまってくれない他者を弱者と断定し見下すことで、自分を慰めようとしているのだと。大方、同じように孤立し始めた亮を同類と思い込んで接触してきたのだろうが、それは間違っている。亮はまず考え始めて、それから集団にあることを厭うて自ら離れて行ったのだ。

「なるほど、さすがだな」

と、京谷実は斜に傾いていた三白眼を戻していった。妙な薄ら笑いがその目尻にあった。

「立派な見識をお持ちだ。僕に反論できるのも君くらいのものだ」

なるほど孤立も深まった者は、核心を突かれたときの反応もくだらない。「何でもいいよ」とため息をつくようにいい放ち、亮はまた身を翻して別離を告げた。するとまた背後からその腕をつかまれた。

「待て、わかった今日はいい。明日にしよう。明日の八時に、そうだな、東口の本屋の前に来てくれ。どうしても見せたいものがあるんだ」

「いいっていってるだろう」

かまわず亮は腕を振り払った。そして帰路の歩みを進めた。今度は腕をつかまれることはなかったが、しかし数歩を行ったところで、背後からその言葉があった。

「後悔するぞ!」

亮は振り返った。その大声は今しがたの焦りをもう失っていて、代わって満ちていたのはどこか確信めいた響きだった。何をひとときに考えたのか、京谷実はもう大上段に立ち返っており、振り返って見たその表情は、またもあの不遜の笑みだった。

「君も求めているはずだ」

にやりと口の端を歪ませ、京谷実は喧騒の中で呟いた。何を、と亮は問わなかった。ただその不遜な三白眼をにらみながら次の言葉を待った。数歩の距離が生まれたことで、対立の図式が明らかになっていた。

立ち向かう二人の脇を、電車から降りてきた男子学生が通り過ぎ、スーツを着た男が通り過ぎていく。背景と京谷実だけが、亮の視界の中で動かない。

 京谷実は口をひらいた。喧騒の中の虚の中で、そのとき、その言葉だけが確かな色を放った。

「強者のみに、手にすることを許されたもの」

「―自由だよ」

そういって、京谷実は歯列をゆっくりと覗かせて不敵に笑って見せた。亮はにらみを返しながら、しかし何も応えなかった。

 周囲は喧騒を取り戻し、ホームのざわつきが急に思い出されたように耳についた。前を向き直し、亮は帰路の続きを行こうと歩きだした。

「八時だ。待ってるぞ!」

と、まるで怒号のような甲高い声が背に届いたが、亮は振り向かなかった。反応もあえてしなかった。ただポケットに手を突っ込んで、喧騒を割り入って進んで行った。その眉間には、深いしわが刻まれていた。


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