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PAN  作者: hkdyksry
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赤い春③

 帰り際、廊下に出たところで意外な人物に呼び止められた。

 京谷(きょうや)実(みのる)というその男と、亮は過去二年間とも同じクラスだった。しかしその過去二年間において、ただの一度もまともな会話を交わしたことがなかった。だから、肩口に置かれた手からその先にある顔を見、それと認識したとき、亮は返事をする機をも逃し、ただ訝りの視線を向けることしかできなかった。それほど意外だったのだ。

 といって、亮にとって京谷実という人間の存在が稀薄なものであるというわけではなかった。むしろ、平板なクラスメイトたちの中にあっては目立った印象を抱いているといっていい。ただ、二人の間には、おそらくは双方の暗黙の了解によって、何事があろうとも必要のない限りは互いに接触を試みないというルールが、いつからか成立しているのである。

 始まりは何だったのだろうか。亮にとっての京谷実という男への認識の始まりは、「自分を打ち負かした者」というものだった。

 入学早々、何かの試験があった。たとえ一流進学校の中であろうと誰にも負ける気はないと、亮は充分な準備をしてそれに臨んだのだが、しかし結果は二番手だった。そのとき悠々と亮を追い越していったのが京谷実だったのだ。亮は大いに悔しがり、雪辱に燃えて次の機会に挑んだが、結果は同じだった。それだけでなく、こと学力においてはついぞ打ち勝つことができなかった。

 そのうちに、学年一位の優等生として京谷実は評判となり、亮は二番手としての名を校内に得た。少年らしい脚色によって二人の関係はライバルのそれと意味づけられるようになり、亮も、そしておそらくは京谷実も、互いを強く意識するようになっていった。

 ただ自分を打ち負かしたという理由だけでそれを根に持ち、接触を避けようとするほど、過去も今も亮は陰湿な質であるわけではない。無邪気だった亮はむしろライバルの出現を歓迎していた。そして公明正大に勝負を楽しもうと思っていた。

 しかし当の京谷実がそれを望まなかった。ばかりか、そもそも勝負そのものがはじめから存在していないのだとでもいうように、己が頂点にあることを鼻に掛けているような節がその態度のうちにはあった。当然、そのような態度は少年たちの反感を買い、彼はいつしか教室の中で孤立していった。

 その段階であればまだ亮にとっては接触を禁ずる理由などなかったのだが、しかし京谷実は、孤立した上でさらに、そのころはまだ集団の中にあって中心人物の役割を果たしていた亮を、どこか見下そうとしていた。はっきりとそれらしいことを告げられたことはないのだが、たとえば向けられた視線の中に、あるいは話しかけられたときの態度のうちに、まるで積極的に伝達しようとでもするかのように、そういったにおいを露骨に発し続けたのだ。しかもそれは、優位にある者が低きにある者を高笑うような、ある種、清冽としたさわやかな匂いではなく、孤立した者が集団にある者を羨みながら、しかしそれを認めようとはせず、ある一点での優位を盾に無理をして嘲っているといった、そんな粘着した臭みであった。つまりは、亮ではなく京谷実こそが陰湿であったのだ。

 そうして、今あるところの関係性が定着していくこととなった。心身の成長とともにいつしか亮も集団を離れ、そして学力における優劣などに固執することもなくなってしまったが、その関係性だけは今にいたっても残っている。今では亮も彼と同じようなはぐれ者となり、それにいくらかの共感を覚えないわけでもないのだが、しかし自分の状態は孤立ではなく独立であるのだと信じている亮は、一貫して孤立の只中にあるように思えてならない京谷実に対し、決して好感を抱いてはいない。むしろ、積極的にではないが嫌っているといってもいい。だから当然のこと、肩に置かれた手の持ち主を射るその視線には、その心中を反映した鋭さがあった。

「ヒマだろう? ちょっと付き合わないか」

 久しく聞いていなかったその声は、それなりの変声期を経てきたのであろうが、相変わらず高く粘っこかった。鼻の奥に詰まったものを無理に押し出しているような少し甲高いその声は、しかも、相手の都合を考えない傲慢な響きをもその意味のうちに含んでいて、少しの不快を覚えさせた。

 京谷実の背は亮よりもいくぶん低く、粘着質の視線は少し上向きに亮にまとわりついている。目は大きいのだが、瞳が小さく三白眼なので、どうやっても丸くは見えない。口唇がやけに赤く、尖ったあごの白い肌の中にそれは置き去りにされている。髪は丁寧に分けられ、流され、えりあしのところで奇麗に整えられており、持ち主の神経質な性格を窺わせた。あとは眼鏡でもかければ、嫌味な検事か悪徳弁護士か、どちらの役でもすぐに務まりそうだ。

「何か用か」

と、なるべく声に色を持たせないように亮はいった。不快感をあらわにして、器の小さい人間だと思われるのが癪だったからだ。

「だから、ちょっと付き合わないか」

と京谷実は妙になれなれしく繰り返した。今までの関係を否定するかのようなその言動に少し腹を立てた亮は、半ばその言葉を無視し、黙って足を進めた。

 すると、それを同意と承知したのか、人通りを割るように廊下を突き進む亮の背に追いつき、京谷実はまるで心積もりの算段を説くような口ぶりで言葉を継いだ。

「家は泣沢(なきさわ)だろう? うちは白山(しらやま)なんだ。御毛沼で降りればちょうどいい」

 なぜ自分の住む街がどこかを知っているのか。亮は少し驚き、振り向いてまたも訝りの視線を向けた。しかし何も訊きはしなかった。

 亮の住む街は、御毛沼で線を乗り換えて西北に向かい、駅を十も経たところにある。そこを泣沢という。また京谷実が住むという白山は、環状線の御毛沼の次の駅にあたる。確かその街は高級住宅地が集中しているところであると亮は記憶している。

 特に決めていたわけではないが、亮は今日も御毛沼で電車を降りて街をうろついていたに違いない。しかし京谷実のその言葉を聞いた亮は、今日はまっすぐ家に帰ろうと心に決めた。

「俺はまっすぐ帰るよ」

「まあ聞けよ。実に面白いものがある。ぜひ君に紹介してやりたくてね。こっちは厚意のつもりなんだ」

「そういうのは、普通ともだちにしてやるもんだ」

「アミューズメントやエンターテイメントの類のものじゃない。そうしてやるには資格が必要なんだ。さしあたって、僕の回りじゃ君くらいしかいない。いや、ほかにいたとしても、まずは君に紹介していただろう」

 俺とお前は友達じゃない。なぜ禁忌を破って接触してくるのか、という言外の責言に京谷実は反応しなかった。そうしてまだ何かをのたまう。さして注意を持って聞いていたわけではないが、ざっとその意を解してみても、まったくそそられるところはない。

 沓脱ぎでバスケットシューズに履き替え、ロッカーのスチールの扉を音を立てて閉めながら、亮は「興味がない」とその誘いを一蹴した。同時にしかし、京谷実の人と成りを少しは知っている亮は、彼がこのまま引き下がるとも思えなかった。そしてその予想の通りに、校門へと向かう亮に京谷実は背を追ってついてきた。ただ、さすがに亮の不快を察したのか、その声の傲慢のトーンは下がっていた。

「まいったな。少し誤解があるようだ。確かに僕らは今までさんざ敬遠しあってきたけど、何もいがみ合っていたわけじゃない。むしろ僕は君に注目していたんだ。本当だ。大いに君を認めているんだよ」

 その言葉に亮はひそかに失笑した。自分は君を認めている。そういえば相手が喜ぶと考えているのは、自分自身を大人物であると思っている証拠だ。どれだけ取り繕おうとも、心底にある倣岸な本性は隠しきれないらしい。

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