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PAN  作者: hkdyksry
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赤い春②

 五月の空は雨を求めている。照ることを急いた晩春の青天を溶かし、渇いた地を潤す、霧のような篠つく雨を。

 見上げる空には筋雲のひとつもなく、立夏を過ぎたばかりの太陽の光は、遮られることなく窓をたたいている。それはガラスに当たり、飛び散り、痛いほどのまぶしさを、机の上に突っ伏す亮に覚えさせていた。これから来る梅雨の湿り気を思うのは確かに憂鬱なことなのだが、こう晴天ばかりが続くと、ここらで派手に、乾いた空気を濡らして欲しくもなる。

 ゴールデンウィークには何もなかった。長い休みのあと、今朝の登校に赴く足は常以上に重かった。玄関を出たときのあまりの暑さには、ようやくで振り絞った気力もあやうく焼き尽くされそうになった。亮はすぐさま自室に舞い戻り、ブレザーを脱ぎそれをベッドに投げつけ、抗議を怒鳴りつける者のような顔をしながら駅へと向かった。

 衣替えはまだなので、クラスメイトたちはこの暑さにも律儀に上着を着込んでおり、教室内でカッターシャツ一枚の者は亮だけである。その姿はいつもにも増して浮いていることだろうと、亮は真昼の紺青の空を見上げながらぼんやりと考えていた。

「お前は? どうだった?」

「俺はぜんぜんダメだった。まずいよ」

などという声が、教室のあちらこちらから聞こえていた。食の遅い者はまだ昼食を摂っている。

 歓談の話題は、ゴールデンウィーク前に行われた校内模試の結果についてのものだった。このあとの五時限目に、その発表を控えているのだ。耳につくいかにもありがちな腹の探り合いは、腹立たしいというよりも、亮にとってはすでに滑稽だった。

 謙遜を美徳とひたすら己を卑下しながらも、引きつった笑みの裏に自信を隠す者。本当に自信のない者は、前もって失態の理由を挙げ連ねることに躍起になっている。中には「結果なんてどうでもいい」などと吠えている者もあるが、本当にそう思うのであれば何もいわずただ黙っているはずだということには気づいていないようだ。

 どの顔も亮には滑稽だった。中学校の教室にあるべきなのは、素直に感情を吐露する、若さを思わせる顔であるはずなのに、ここにあるのはどれも違って、まるで老練な商売人を思わせるようなそれなのだ。誰もが本音を隠した表情を作り上げ、言葉を弄して自らに利益を誘導しようと柔らかにせめぎ合っている。その利益とは、つまるところ評価なのだ。いろいろの言葉があり、またアプローチの仕方は違っていても、つまるところ皆その言動の果てにこう主張したがっている。「俺はすごいんだ」と。

 ここでこうしてその心中の機微を洞察されているということに、優秀なはずの彼らがどうして気づかないのだろうか。どうして知りもせずに、かえって自らの評価を貶めているのだろうか。そんなことを考えていると、ふと、

「あ、そうだ。俺、前日にニーチェ読み始めちゃって、寝られなかったんだよなあ。バカなことしたよなあ」

という誰かの台詞が耳に入った。それを聞いた亮は滑稽の極みに耐えきられず、噴き出してしまった。

 それにしても―と急に、思いつめたような顔になって亮は席を立った。

「どうして人は、順列というものにこうも敏感になるんだろう」

教室の扉を開けると、窓外の庭の真青な芝生が目に映った。校舎に挟まれて並ぶ木立は、垂直の陽に中てられて葉を焦がしている。亮は斜目にその反射を感じながら、どこへともなく廊下を行った。

 庭を走り回っているのは、おそらくまだ何も知らない下級生たちだろう。サークル状に並んだ石造りのベンチにはそれぞれに弁当箱が集められ小さな宴を作っているが、どれも男ばかりなのでまるで絵になっていない。窓外の緑色の光に気圧されてか、臙脂色の床の上の空間は、昼間にしてはひどく暗く感じられた。

 発作のように湧き上がった疑問。なぜ人は、自他との比較における順列というものに、程度の差はあれど固執してしまうのか。

 それは、平等主義の観点から人の性を憂いた、という類のものではない。そもそも亮は、何かをその能力差によって順位付けることは平等の精神に反する、というよく耳にする物言いを、まったくの世迷いごとだと思っている。そういった発言が生まれるのは、それをいう者の心中にこそ、ある側面での順列をそのまま全人格の優劣に直結させているという行いがあってのことだと思えてならないからだ。

 亮はなるべく目に見える順列というものにこだわたずにいたいと思っている。学力の優劣、資産の多寡、ルックスの良し悪し。そういったものに目を向けることは、他方で目に見えない価値から目をそむけることになると思うからである。考えたのは、圧倒的に多くの人々が目に見えるわかりやすい価値ばかりに対して執心を抱いている中、どうして自分はそれに反する考えを持つにいたったのか、という自己洞察へ向かう思惟だった。

 亮自身も以前は順列というものに敏感だった。上位にあれば嬉しかったし、それなりに得意にもなった。誰かに追い抜かれればまた抜き返すまで走りこんだし、小学生のころには呑気に生徒会長にもなった。そして無邪気に上を目指した結果、現在通う私立中学への受験を希望するにいたったのだ。

 その撰択は、今にしてみれば間違いだったのではないだろうか。その自問に亮はうなずかざるを得ない。通学の便や授業料の多寡や向学のための環境などはひとまずおくとして、何よりも、意をともにし、腹を割って話のできる友の一人もいないということ、それに値する人間がこの学校には集まってきていないのだという一点においてすでに、無邪気な選択は失敗だった。

 往時、父は亮の中学受験にそれとなく反対していた。

 目標の前の障害が大きいほどその意気を燃やす質である亮は、それによりかえって志望を強めたのだが、父は陰に陽に反対し続けた。それは、金銭の負担などを問題にしたものではなく、要すれば、「子供のうちから勉学のみに心血を注ぐべきではない」というものを根拠とした反対だった。志望する学校へ通うことになれば、否が応にもそのような環境が待っているだろう、と。

 根拠の微細はともかく、撰択に後悔がないわけではない亮にとっては、父のその反対の姿勢は正しいものだったといわざるを得ない。亮はそれが大いに癪に障り、気に入らない。ただ、それを慰藉するものがないわけでもない。それは根拠が違うことだ。要するに右か左かの撰択を当てただけで何もかもが父の思うとおりになったわけではないと、亮はそう考えて、どこか窈然とした苛立ちを慰めている。

 父の反対の根拠は、いささか古臭くはあるが普く一般的なものだった。勉学よりも大切なものがある、子供はよく遊ぶものだ、などといいたかったのだろうが、しかし亮の現在に至る後悔は、何もそういったことが叶わないことに端を発したものではない。

「なら、この後悔の原因とは何なんだろう。この不満の正しい理由とは何なんだろう」

考えていると、ちょうど階段に突き当たった。亮はポケットに手を突っ込みながらそれを下った。

 踊り場の壁面は上半分のほとんどがガラスになっていて、豊かな採光の陽だまりには窓枠の抵抗がくっきりと濃陰の十字を染めている。そぞろに階を降り、視界が低くなっていくのと同じくして、亮の低徊の段もなお深まっていった。

「ここにいて、俺は何が不満なんだろう」

 友の一人もいないことだろうか。まずはそれが念頭に及んだが、しかし亮はそれをがんじえなかった。確かに友は欲しいが、それは励みや助けのひとつであって、目的そのものではない気がするからだ。

 亮は考えた。

 過去の自分は、ただ高みを目指していた。誰かが作った階段の頂点に上りつめることにこそ至上の価値があるのだと考え、それを目的に進路を撰んだ。しかし今は、そんなことに興味はない。たとえ上りつめたところで、階下からは妬みに足を引っ張られ、結局は踊り場に過ぎなかったその場所で、大人たちに頭を撫でられるだけだろうから。そうだ。自分の生きる上での目的は、いつからか変わってしまっていたのだ。その上でこの学校にいることは、その目的の成就を助けないばかりか、平板と退屈と望まぬ教化によって妨げにしかなっていないのだ。だから苛立ち、だから不満で、だから後悔を覚えているのではないだろうか。

 そこまでたどり着いたところで、自己洞察へと向けて始まったこの低徊は、父への抵抗を経て、ようやくその真髄のところに撞着した。

「なら、その目的って何なんだ。俺は何を求めているんだ」

しかし行き着くことは果たしたのだが、それに対する解答は容易に得ることはできない。亮は深夜の森を歩いていくようなその低徊を、なおも深くへ、心中を突き進んだ。すると、深い森の中に濃いもやが現れた。その奥には鏡が見えた。しかしそこに何が映っているのかはわからない。亮はもやを散らそうと腕を振り上げた。鏡に映っているはずの己の姿を捉えようと、呼吸すら満足にままならないその不快な空間の只中で、繰り返し腕を振り上げた。

 自分が求めていない価値、つまり自分が認めていない価値が何なのかは、おぼろげにだが理解している。それは父が如実に象徴してくれているのだ。

 父は、いわば「社会」を見ている。その言葉も行いも、社会にある一般的で耳に古された価値を認め、求めた結果として、生まれ出ている。しかし自分が見ているものは違う。社会でなければ、それは、魂とでも呼ぶべきものだろうか。集団の只中にではなく、ただ孤立然と存在している自らの個の魂に、何らかの価値を認めたくて、そうして何かを求めているのだろうか。社会の中にあってもその浸食を受けない、純粋で無垢なるものを? 他者との比較のしがらみもなく、あらゆる既存に囚われもせず、解釈の上での歪曲も必要としない、ただそれのみであって光り輝く何かを? ならばそれは、いったい何なのだ?

「・・・―」

 そのとき、もやの中で何かが手に触れた。

 同時に、森の樹のはるかの高きから、身のすくむほどの轟音が鳴り響いた。

 亮は立ち止まった。昼休みの終了を告げるチャイムの音が、低い陰鬱な調子で繰り返し鳴り響いていた。濃いもやは手に触れた何かとともに消え去り、視界に映るのは退屈な廊下の景観へと一転していた。

 ふと窓外に目をやると、バレーボールを抱えた下級生が、小走りになってその先の集団を追いかけていた。気がつけば校舎内の空気も、燃え尽きる寸前の花火のように、いっそうに喧騒を膨らませて微動していた。

 きびすを返し、亮は教室へ戻ろうと退屈な歩みを踏んだ。

 先ほどもやの中で触れた何かの感触は、指先に残っていない。それが悔しく、歯がゆくもあり、亮は渋面を作りながら廊下を歩いた。そうして半ば仕方なしに、待ち受ける目前の未来のことを考えた。

 自らの価値を明確に順列付ける試験結果の発表に臨んで、クラスメイトたちはまた大いに滑稽なさまを見せつけてくれるのだろうか。

 どうせなら、白紙を提出して抵抗の意志を示してやればよかっただろうか。

 つれづれに考えて、亮は想像する未来を鼻でわらった。しかしすぐに笑ってもいられないことに気づき、刹那のうちに苛立ちを膨張させた。そして、ふと視界に入った廊下の壁を、苛立ちに任せて思い切り蹴り上げた。うなるような震動がとどろき、前を歩いていた教師がこちらを振り向いた。


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