赤い春
懸案がある。敵がいる。
そしてその強敵は、同じ家の中にいるのだ。それこそが懸案が懸案であるところの理由だった。
名を浅田真之という。今年で確か四十九か五十になる。ある警察署に交通安全課課長という役職で勤めており、階級は警部。
十四の亮が長男であるから、結婚したのは三十四、五歳のころということになる。当時としては結構な晩婚であるが、それにはそれなりの理由があったらしい。
彼は高校を卒業してすぐに警察官の道を撰び、地域課を経て、以来一貫していわゆる交通畑を歩んできた。同年代の者が結婚というものを現実として考え始めるころ、世はおりしも「交通戦争」の時代に入っており、加えてあちこちで大規模な暴走族が誕生し始めたこともあって、彼を取り巻く状況は決して安穏としたものではなくなっていた。そんな激務の日々の中で彼は、「自分にそんな資格はない」のだと、結婚をし家庭を作るという人生の撰択を度外視し、ひたすらに使命としての仕事に没頭していた。だがあるとき、世話好きな上司に抗いきられず設けられた見合いの席で、のちに妻となり亮の母となる頼子という女性と出会い、十も年下の彼女に心を奪われてしまった。そうして不器用な交際が始まることとなり、その後、悩みもしたそうだが、結局、見合いのくせに三年もたってから結婚をし、すぐに亮が誕生した。その翌年には妹の由子も生まれている。
以上のような話を、亮は幼いころに母に聞かされたことがある。そのときの母は妙に嬉しそうだった。
そのとき亮は、父の人と仕事に対する責任感に感銘し、また両親の出会いの物語というものに不思議な感情を覚えたものだった。しかし今は、いくら過去の話でも時代錯誤に過ぎると、敵の略歴に対し心の表面で軽蔑を覚えている。
ただ同時に他方で、父の結婚以前の撰択と迷いとは正当なものであったと、評価してもいる。結果自分が生まれてきたのだという事実はひとまずおいて、彼が結婚したことは間違いだったと、そう思うからだ。理由はひとつ。彼は自身が考えていた通り、家庭を持つにふさわしい人間ではなかったのだ。
万事につき仕事優先の彼は、ほとんど家にいることがない。仕事を終えて帰ってきてもそれは家人の寝静まったあとのことで、陽も昇りきらない早朝のうちに家を出て行く男のことを、「家庭」の一員であるとはいい難い。
家族そろっての旅行になど行ったこともないし、道徳、というよりも「修身」の教師めいたことをいうことはあっても、父親らしい言葉のひとつもかけられた覚えがない。彼にとっては非番も何も関係がないらしく、いったいなぜ体を壊さないのかと不思議に思うほどに働きづめなのだが、といって、「仕事に燃えている」といったようなわかりやすい情熱があるわけでもないらしい。さも当然のことのように、そうすることが自明のことであるとでもいうように、あくまで淡々と、そして地味に、彼は無理なスケジュールで公務に時を費やしている。
どうせなら帰ってくるな、署に泊まればいい。亮はそう思うのだが、しかしそうはいかなかった。彼には何か妙なこだわりがあるらしく、どんなに忙しく疲れていようとも、食事だけはなるべく家族そろって摂ろうとするのだ。だから週に幾度かは必ず四人で食卓を囲むことになる。そのためだけにいちど帰宅し、また仕事に出て行くことさえある。それが彼なりの家庭を大切にしたいという思いの現われなのかどうかは知らないが、亮にとって見れば迷惑な決まりごとだった。
それが朝食であるときは、どんなに眠たくともたたき起こされることになる。夕食であるときは、朝の出掛けにその予定を母に告げられ、早く帰ってくるようにといい含められ、一日を憂鬱な気分にさせられる。
といってその食卓は、活気あるものではない。対話の熱があるわけではないのだ。彼は、何か薄気味悪く話しかけてくることもなく、といって新聞やニュースに見入ることもなく、ただ黙々と箸を動かしている。そして、母が伝える子供らの近況に、ただ「そうか」とだけうなずいては、その重苦しい視線を亮か由子に向けるのだ。妹はそれに応え父との対話を楽しんでいるようだが、亮がその視線に応えることはまったくない。一秒でも早く席を離れるため、誰よりも食事を摂ることに集中している。おかげで近頃は早食いの癖が身についてしまった。まったくといって迷惑な習慣だった。
幼きころにおいては、それは憎むべき習慣ではなかったはずだった。少ない機会を無邪気に喜んでいた記憶すらある。いったいいつから、父のその妙なこだわりを憎むようになったのか。いつから、四人で囲む食卓が不快なものになっていたのか。そしていつから、彼を嫌うようになっていたのか。
亮は父が横になっている姿を見たことがない。たとえば連日の徹夜明けで疲れきって帰ってきたときでも、亮と由子の前では絶対に眠ろうとしない。足を伸ばして休んでいるところすら見たことがない。
亮は父のいう弱音や愚痴を聞いたことがない。「疲れた」とも「忙しい」ともいうことはなく、また、テレビに向かって分をわきまえない批判を垂れるところも、母や妹や世人に向かって何か筋の通らないことをいうところも見たことがない。
煙草は吸わず、酒も無茶には嗜まず、ギャンブルもせず、世話に手を焼かせることもなく、何か浪費を伴う趣味があるわけでもない。といって存在感がないわけではなく、父のその存在は、間違いなく家の中心に揺るぐことなくそびえ立っている。客観的に見れば、欠点のひとつも、染みのひとつもありはしないだろう。
だが嫌いなのだ。だからこそ、嫌いなのかもしれない。
汚点を見せないその姿勢が、どこか聖人君子を気取っているように思えて、しかしそれを証明する根拠のひとつもなくて、まるで自分だけが無為にその存在に振り回されているようで恥ずかしく、といってそんなことに恥じ入るわけにもいかず、わけのわからない苛立ちは、父と共有する時間への嫌悪を増幅させる。
幼いころには、亮は父のことを好いていたはずだった。帰ってこなければ寂しかったし、無邪気に尊敬もしていたし、彼のようになりたいなどと短慮に思ってもいた。母のいう、「お父さんにはお父さんの信じるものあるの」だとか、「お父さんだって寂しいのよ。でも、やらなきゃならないことがあるの」だとかの慰めを、無批判に信じてもいた。
しかし今は、何もかもが気に入らない。自身のそんな過去すらも気に入らない。いったい何故? 何がそんなに? そんな、ぼんやりとした疑問が胸中につかえていたとしても、ただ何もかもが嫌いだった。「そうか」とつぶやく低い声、眉間に刻まれた深いしわの跡、曲がることを知らない背、やたらの福耳、そして何より、自分を見る目が、憎かった。思春期という言葉よりも。知ってしまった反抗期という言葉の意味と、理由よりも。




