水の中から月を見る⑪
浜辺に照明はなく、街灯の明かりも届いてはいない。
だが、月の光が存外に明るいため、浜辺の砂はなおさら青白く染められて、立ち上がった亮の影を明瞭に現している。
亮は眉を寄せて目を凝らした。二人は自分の視線に気づいているのだろうか。さすがの月光も、寄り添いあう二つの影を分かつことは出来ておらず、二人がそうして何をしているのかはわからない。
亮は砂を鳴らしながら二人の元へ歩いていった。声の届くところまで来て、「おう」と呼びかけたが、何故だか反応がない。龍胆は、ちょっと顔を上げてこちらを見ると、また視線を戻してしまった。夏深はもたれかかるように龍胆の肩に寄り添いながら、首を傾けて横を向いていた。ふたり並んではいるが、同じものを見ているわけではないらしい。
なぜ黙っているのだろう。怪訝に思いつつも、荷物を置こうと亮は身をかがめた。するとそのとき、ようやく夏深の声があった。
「あ、ちょっと、そこ立たないで」
何かを見ているその視界を、遮ってしまったらしい。すぐに身を引いたが、夏深は「もうっ」と口を尖らせてしまった。
「わかんなくなっちゃったじゃない」
わるい、と頭を掻きつつ、亮は背後を振り向いた。夏深が見ていた視界には、しかし、夜空しか見当たらない。
「何だよ、なに見てんだ」
龍胆のとなりへ回り込んで、亮はいまだ夜空のあたりを見つめている夏深を見下ろした。夏深は、月光を映すその大きな瞳で空の一点を見つめながら、ゆっくりと、小さく微笑んだ。
「アルビレオ」
「なに?」
「星の名前」と夏深はこちらを見上げた。
「二重星っていってね、二つの星が重なって見えてるの。トパーズのすぐそばにサファイアがあるみたいで、空の宝石って呼ばれてるんだよ」
頬を緩めて目をそばめ、そういうと、夏深は視線を夜空に戻した。やはり、穏やかに微笑んでいる。
まるで当たり前のように、夏深はそうして柔和に亮を見、話す。まだ少し見慣れないその様子は、まるで別人と接しているかのような錯覚すらほのかに携えていて、以前より感じていた違和を、亮はこのときもまた覚えていた。いつの間にか、自分は夏深の「敵」ではなくなったのだろうか。それとも、龍胆とそうして寄り添い合っていて、機嫌がいいのだろうか。当の龍胆は頭上のやり取りにまったく関わろうとせず、膝の上に頬杖をついて、何を見るでもない様子で前を向いている。
ポケットから取り出した財布を置こうと、龍胆のとなりで亮は身を屈めた。何の気もなく、「詳しいんだな」と感想を漏らした。すると、龍胆がはじめて反応を寄越した。眉間にしわを寄せて、すぐそばまで近寄った亮の顔を、きっとにらみつけたのである。
何だよ? という言葉を、亮は漏らしかけた。だが、その問いを待つことなく、解答はすぐに与えられた。夏深が、嬉々としてこちらを向いたのである。
「うん! 何でってね、茅島先生の本に、星の話がたくさんあるから!」
まるで何かのスイッチが入ったかのように夏深は高い声を響かせた。「茅島先生」とは、むろん例の絵本作家の名であろう。
「そうか」
とたじろぎつつ応えながら、亮は、視界の隅にいまだまとわりつく視線があることに気づいて、ちらと夏深の笑みから目を逸らした。龍胆が、責めるような目で、やはりにらみつけているのだ。苦笑いでそれに応え、亮は謝意を表した。自覚がなかったとはいえ、どうやら、最も触れてはいけないスイッチを押してしまったようである。
「アルビレオはね、すぐそばにサファイアがあって、重なって見えてるけど、本当はすっごく離れてるでしょ? くっついてるようで、実はすごく遠いところにいるの。人もそうじゃない? すぐそばにいても、こころは遠く離れてて、重なってるように感じても、錯覚かもしれなくて―って、先生の本に書いてあったんだけどね。あとねあとね、スパイカズ・スパンカーっていうのもあるよ!」
身をかがめていた姿勢のままで、亮は縫い付けられてしまっていた。苦笑いを頬に張り付かせたまま、何故だか動けずにいたのである。すると、手の甲のところを、ぴしゃりと叩くものがあった。龍胆が、鋭い視線で座れと目配せした。責任を取って相手をしろということだろう。ようやく身の硬直を解かれて、亮は静々と腰を下ろした。
夏深はそういうやり取りがあったことにも気づかぬ様子で、前を向いて続く熱弁をふるった。その脳裏に件の絵本の内容を思い浮かべながら語っているのだろう。言葉に交えられた身振り手振りがやけに大げさで、亮はそれがおかしくて、というよりも、もう楽しむしかないと開き直って、表情だけで笑いつつ相槌を繰り返した。
話す内容は、「スパイカズ・スパンカー」についてである。和訳すると「スピカの縦帆」。船の帆のように並んだ四つの星、その上辺の二つを結ぶ直線の延長上に、おとめ座の一等星、スピカがあるらしい。
「だからこう、一つだけ離れて、三つの星が並んでてね、ホントまっすぐに。それで、星は空を回るじゃない? からす座の二つの星が、一生懸命スピカを追いかけてるの。でも、スピカはおんなじ速さでどんどん前を行って、逃げてっちゃって、ぜんぜん追いつけないのね。でも追いかけて、やっぱり逃げてって、ぐるぐる、ぐるぐる―」
そういって左手で一本、右手で二本の指を立てて、頭上に弧を描く。振り向いてその横顔を見てみると、夏深はいかにも真剣な顔つきをしていて、亮はそれが無性におかしくて、小さく噴き出してしまった。
何で笑うの? といいたげな、丸い瞳がこちらを向いた。話の腰を折ってしまったらしい。亮は口唇を閉じてにやける歯を隠した。
「なんだ、寂しい話ばかりなんだな」
苦し紛れの言葉だが、それは正直な感想でもある。夏深は、亮がそういい終えるのも待たずに口を尖らせて、かと思うと横に広げて、得意げに笑った。
「違うよ? 切ないけど、どれもハッピーエンドなんだから―
『暗闇の中でこそ見える光がある』!
―だよ。読んでみる?」
夜空を指差し、どこかを見つめ強くそういった後で、爛々と輝く瞳がこちらを振り向いた。そして、その笑みにもうひとつ、龍胆のいやらしい笑みが重なった。
「とうとう来たな」
と、さもいいたげである。亮も、むろんそう思って笑みを凍りつかせた。とうとう来た。
「何だ、ちょっと格好いいな。今のもせんせーの言葉か?」
ここは話を逸らすのだ。亮はいかにも喜ばれそうな修辞を添えた上で心にもないことをいって、うやむやにしてしまおうと画策した。
すると夏深は、弾けたように満面に笑って、輝く瞳の意味を変えた。
「いいでしょ、もうてつがくだよ、てつがく! あたしホンット泣いちゃったもん!」
「わかるわかる、泣いちゃう」
成功である。その瞳に先ほどから何の悪意もないことが、少し申し訳なく、また腹立たしくもあったのだが、亮は適当に調子を合わせた。
「あのね、絶望の底で見つけた希望はうんたらかんたら…」
「それは、闇を隠す光とは違ってどーしたこーした…」
と、夏深はこちらを見もせず、またも身振りを荒げて注釈を垂れているが、亮は、胸を撫で下ろしつつほとんど聞いていなかった。悔しそうな顔をしている龍胆に、勝ち誇った笑みを見せ付けていたのである。
そうしていると、夏深は「そうだ」と突然その講釈を断った。自身の手首につけているブレスレットをつまみ上げ、「見える?」と問うのである。
「これも先生の本からとった言葉なんだよ」
亮は龍胆の胸元あたりへ顔を近づけ、目を凝らした。だがよく見えなかったので、腕時計の明かりでそれを照らした。両端の穴にチェーンを通された、細長い銀のプレートには、アルファベットの短文が彫り付けてあった。
「…Live at will―思うままに生きなさい?」
「そう! さすが、よくわかるね。正確には『想いのままに生きろ』。―見て見て、おそろいだよ」
と、夏深は龍胆の首根に手を伸ばした。何かを引っ張るような手つきだったが、龍胆がすかさずその手を振り払ってしまった。「もうっ」とすねた声をあげて、夏深は引っ込めた手で膝を打った。
「チョーカー。同じプレートのやつ。いつも隠してるんだから」
肌を扇ぐように自身の着るTシャツをつまみ、夏深はやはりすねた声で愚痴をいう。さっきまで亮と顔を合わせていたはずの龍胆は、またも素知らぬ顔に戻って、そんな愚痴など聞こえていない、という体を装っている。亮はかなり無理のあるその仕草が、龍胆が照れているその様子が面白くて、噴き出して笑った。
「なんだ、見せてみろよ」
「せぇよ」
龍胆は、覗き込む亮の顔を振り向こうとはせず、吐き捨てるようにいった。やはり恥ずかしいのだろうか。「ふふ」という、夏深の嬉しそうな笑い声がこぼれ届いた。
暗闇でよかったのかも知れない。横に並んで座るのもそうだ。顔を見合わせないですむことで、この二週間のわだかまりを、まるでなかったもののようにして話すことが出来る。
亮は微笑みつつ前を向いた。ところで、と少し考えた。
亮自身には、わだかまりは最早ない。久しぶりの再会、しかも謝罪をされた立場とあって、胸のところに少々のくすぐったさはあるのだが、先にあったような意地や気概は霧散している。龍胆はどうなのだろうか? 今そうであるように、道中にあっても、龍胆は積極的に接触を持とうとしてこなかった。話しかけてもろくに応えようとせず、目も合わそうとしなかった。それは、嫌悪というよりも、やはり照れの色合いの濃い仕草であったように思うが、ともあれ、龍胆はまだ何らかのわだかまりを抱いているのかも知れない。
そもそも、何故あの龍胆が謝罪などする気になったのだろう。暴力を奮うことに関して、他を蹂躙することに対して何の抵抗も呵責も感じていなかったはずの龍胆が、なぜ今回に限って申し訳なく思ったのだろう。
それはひょっとして、相手が自分だからなのだろうか? そしてそこには、先に想像していたこと、
「亮が龍胆に近づいたように、龍胆もまた亮に近づこうとしているのかも知れない」
それが、正しいものとして当てはまるところの事実が、隠されてあるのだろうか?
少しの沈黙のあいだに、持ち前の探究心がさまざまなことを考えさせた。その辺りのことを訊いてもいいのだろうか、と一度は口をひらきかけた。しかし、適当な言葉も見つからないまま、何もいわずに口をとじた。訊ねたところで、どうせろくに答えようとしないだろう。そう思ったこともあるが、気兼ねもあったのかも知れない。
「ダメ、やっぱりわかんないや。もう時間が遅いのかな」
南の空を見つめていた夏深が、独り言のように呟いた。先ほどから探していたという二重星のことだろう。
肉眼でわかるものなのか。亮は問うた。夏深はわすれたと首をひねった。何だそりゃ、それじゃあ全くの徒労じゃないか。亮が指摘すると、夏深はつつかれたように笑った。龍胆が、同じように小さく笑った。
夏深の見る空を、同じように見つめてみる。月の明かりに負けず、いくつもの星々が夜に滲んで揺れているが、名のわかるものはひとつもない。亮は満天の隅に区切りを作って、端から順に数えてみた。これだけの星空を見るのは、ひょっとすると初めてかも知れないと、目を細めつつ考えた。
背後の国道を走る車のヘッドライトが足元に届き、鋭く闇を切り取って、やがて通り過ぎていった。海の方から届く空気は潮の香りがした。繰り返す波音には、春美らのはしゃぐ声が紛れている。時折それに、ささやくような風の声が混じる。星を、夜を見上げる亮の心は、いつしか、そのすべての音に向けて精一杯に腕を広げ、招き入れようとしていた。
すべての不快でない音色は、渾然一体となって、まるでひとつの楽曲のように押し寄せて、そっと心に触れて、引き返しては、また彼方で軽やかに踊る。満ち引きを繰り返すリズムは、やがて、色々の疑問や謎のすべてを、吸い取るように消し去ってしまった。ただ止水となった心をもって、亮は夜の片隅で世界と向き合った。色の少ない世界にこだまするしめやかな交響曲は、ときおり思い出したように石を投げて、止水の心に波紋を波立たせ、それは次第に頬を緩ませ、笑みを象らせ、亮は、妙に気分がよかった。
龍胆と夏深も、となりに並んで同じように何かを見つめている。なぜ黙っているのだろう。そうして何を感じ取っているのだろうか。ふとある邪推を抱いて、亮は二人のあいだに視線を傾けた。いたずらっぽく微笑みながら、確かめてみたのだが、二人は、期待していたように手を繋ぎ合ってはいなかった。それは意外でも何でもないことなのだが、何故だか妙にがっかりさせられて、亮はしぶしぶ前を向いた。
「いい眺めだな」
亮がそう呟くと、二人は揃ってこちらを振り向いた。夏深だけが静かな相槌を打った。
「邪魔だったかな、俺は」
そういうと、少しの間を置いて、夏深は微笑みながら首を傾げて見せた。龍胆の反応はない。亮はまた前を向いた。
「悪かったな」
「もうっ」と夏深が笑う。龍胆は、しつこい、と眉をひそめてこの横顔をにらんでいるだろう。亮は前を向いたまま続けて呟いた。
「いいや。色々と、気を揉ませたみたいだからな」
亮は徒然に微笑みつつ二人を振り向いた。龍胆は黙って前を向いていた。言葉の意を察した夏深は、あっと口をひらいて、そして笑みをとじた。
龍胆がそうしているように、亮もまた前を向く。そして、色々の音に耳を傾ける。ふと、夏深がその場で立ち上がった。二人を見下ろしながら、やけに明るい声を出した。
「なんかのど渇いたね、どこか自販機あるかな?」
気を遣っているのだろう。だが慣れぬことはするものではない。そういう声は上ずっており、彼方を見回す仕草もぎこちない。半ば苦笑しつつ亮は応えた。
「いいよ、ここにいろ。だろう? 龍胆」
龍胆は前を向いている。少しの逡巡があったのだろうか、一つの間を挟んで、「ああ」と気のない声で答えた。夏深は、ばつが悪そうに口を噤み、そそくさと腰を下ろした。
そのとき、波打ち際でひときわ大きな歓声があがった。春美が伊藤らしき影を肩に持ち上げ、高く弧を描くバックドロップで水の中へ落として見せたのである。調子に乗って、春美は次に鍵原を捕まえた。しかしさすがの怪力自慢も小太りのその身体を支えることは出来ず、頂点まで持ち上げたところでもろとも崩れてしまった。高い水柱が立ち、皆はけらけらと笑った。眺める亮も、声を立てて笑った。
しかし、となりの二人からは、何故だか声のひとつもない。ひとしきり笑った後で、亮はそぞろに口をひらいた。
「俺はさ、お前は怒ってるんだと思って、まあ一応は申し訳なかったり、逆にむかついたり。それで意地になって毎日店で待っててさ、でも内心は、気が気じゃなかったのかもな」
後ろ手に着いていた手を離し、胸の前で叩いて、亮は砂を払った。春美らはまだ楽しげに騒いでいる。今度は山田が伊藤を持ち上げようと挑戦している。
「オレぁお前が怒ってると思ってた」
「何でぇ?」
ようやく沈黙を破ったその言葉に、亮はすかさず反問した。笑いながらである。しかし龍胆は重ねて何かをいおうとはしなかった。
亮の視線は愛すべき馬鹿な連中を向いたままだった。おそらく龍胆も前を向いているのだろう。ふたり、顔を合わせてはいない。だがだからこそいえる言葉というものがある。
風になればいい、と亮は思っていた。波音や笑い声に混じって、この言葉も音色の一部になればいい、と。そうすれば、向けるべき相手はいなくなる。受け取るほうも、風に微笑むように答えればいい。心をひらかなくてもいえる言葉が、そうすれば生まれてくるだろう。ただ黙っているだけの龍胆も、同じように考えていたのだろうか?
「そこの小娘に言われたからじゃないけどな」夏深は反応しなかった。
「俺は、お前にとって邪魔な存在なんじゃないかって、そんな風にも思ったよ」
風が吹いて、むず痒いほどの潮の香りが鼻腔に届いた。その言葉のあと、不意に長い沈黙が訪れた。
龍胆はどう思ったろう、何を考えているだろう。そんなことを思ったりはしないし、口をひらくのを待ってもいない。ただその身を夜の片隅において、ただ音色に耳を傾ける。気分よく、小さく微笑みながらそうしていた亮の元へ、あるとき、龍胆は色のない声で呟いた。
「んなこたねぇよ。だって―」
「だって?」
そこに、またしばしの沈黙があった。
「―オレも、同じこと考えてたから」
呟いた龍胆を、亮は振り向いた。緩んでいた頬が知らずの瞬間に笑みを失っていた。その言葉が、ひときわ大きな石となって心に届いたのである。
龍胆はやはり黙って前を向いていた。その表情が、どんな感情を携えていたのか、わからなかったのは、夜のせいだろうか? ―夏深の両手が、そっとその右手の上に重ねられてあるのを、亮は見た。




