水の中から月を見る⑫
腹が減ったのでコンビニでも探そうということになった。浜に残るといい張る夏深に、亮はかまわないと繰り返したのだが、腰を上げようとしない者をわざわざ引っ張る理由もないので結局は置いてきた。春美らには声を掛けなかった。国道沿いを行けばそのうちに見つかるだろうと、亮と龍胆は、一定間隔に置かれた街灯に照らされながらぶらぶらとアスファルトを歩いている。
もう十分ばかりそうしているが、二人は、徹して先のやり取りに触れようとしていなかった。それもそうで、心許ないとはいえ明かりがあり、互いは互いの姿をはっきりと見ることが出来ている。そうなってはもういえない言葉というものがある。
だが、先のやり取りがこの二週間のわだかまりを完全に氷解せしめたことも事実で、亮だけではなく龍胆もまた以前の調子に戻っており、沈黙が顔を見せるようなことはなかった。二人はぶらぶらと歩きながら、悶着の起こる以前のように、くだらない話をして笑い合っていた。異なる点があるとすれば、それは二人ともが妙に明るく朗らかにしていることだが、亮はそれを自覚しつつも、胸の底より湧き上がる半ば強迫的な高揚に身を任せたまま、同じように笑っている龍胆と顔を突き合わせていた。それは、互いが互いの心を少しひらいてしまったことから来る、照れによる衝動なのだろう。あるいは照れではなく、自らの心を守らんとする本能がそうさせていたのかも知れない。
亮は芝居でもしているかのような感情を強調する声でいった。
「何か、遊びそびれちまったなぁ」
結局、海へは一歩も入っていないのである。実は自分も春美らに混じってはしゃごうとしていた、亮がそういうと、龍胆は愚者を哀れむような怪訝な目つきでこちらを覗き込んだ。
「何だ、その目は。楽しそうだったじゃねえか」
「あいつらはバカだ。ぜったい後悔するぞ。帰りも、何時間かかると思ってんだ」
自身の言葉にうなずきながら、龍胆は真面目な顔をして前を向いた。確かにそうだな、と亮は笑った。着替えもないのに、また何時間もバイクに乗らなければならないのである。
来た道にコンビニらしき店は見当たらなかったので、亮らは同じ道をそのまま先へ進んでいる。浜辺が途切れると、やがて遊泳客向けの駐車場が二人と海のあいだに割って入り、さらに行くとヨットハウスと思しき建物の並びが続いた。帆をたたまれたヨットやいくつかの船舶を、今しがた二人は通り過ぎてきた。
売店らしきものはあったが、むろんこの時間に開いている類のものではなかった。もう少しこのまま行こうと、確認し合ったわけではないが、二人は惰性に従って進んで行った。
すると、ふと建物の並びが途切れ、またも夜の海が左手に現れた。そして、もう少し進んだ先に、ぽつんと佇むように建っているその店があった。
亮は目を凝らして外壁にある看板を見た。ブルーのネオンで店名を示しているその看板は、まだ煌々と灯されてある。
「あれ、なんて書いてんだ」
亮は振り向いた。そういった龍胆も同じように目を細めていた。その文字は筆記体で記されてあり、確かに少しわかりにくい。
「―C…A…NON、キャノン? かな?」
二階建ての、大小のブロックを積み上げたようなコンクリートのその建物は、夜の海と対照をなすように純白に塗られていた。窓と看板、一階と二階を繋げている螺旋階段、そして屋上に見える貯水タンクのようなもの以外は、夜目にもそれと知れるほど真っ白なのである。
車道に向けたエントランスには小さな駐車スペースが見えるが、車は停められていない。何より目を引いたのは、海上に浮かんでいるようにも見えるバルコニーだった。波が打ち寄せるコンクリートから斜めに架脚が伸びて、その底を支えているのが見える。白い木柵に囲まれ、いくつかのテーブルの並べられたそのバルコニーは、風の吹くまま、夜にさらされている。
「開いてるよな。でも何屋だ」
「喫茶店か何かじゃないか」
「こんな時間にか?」
看板もそうだが、バルコニーにも店内からの明かりが射している。おそらくまだ開いている。その外貌から酒を飲むような店ではないだろうと当たりをつけて亮はそう答えたのだが、確かに喫茶店とも考えにくい。こちらを振り向く龍胆に、亮は首を傾げて応えた。
行ってみよう、と龍胆はいう。亮は露骨に嫌な顔をした。
あからさまに未成年の二人を、店は受け入れないかも知れない。人は居ても営業しているとは限らないし、だいたい、コンビニで菓子を買えるくらいの金しか使えないのである。
だが、龍胆は亮の意向など一顧にせず、ひとりで歩き出した。よくわからないその店の存在が好奇心を掻き立てたのだろう。立ち去り際に残した笑みは、子供っぽい輝きをその目に宿していた。進む足取りも心なし速い。
ため息まじりに失笑を漏らし、亮もその後を追った。あの目をしている龍胆には、最早なにをいっても無駄だ。そう悟ったこともあったが、亮もまたその店にこころ惹かれていたことも事実だった。御毛沼のあの店とはまるで正反対の印象を受ける、その不思議な店に。
砂利を踏み、龍胆はエントランスに立った。扉に手を伸ばすと、引っ掛かることなくひらいた。こちらを振り向いてにやりと笑い、龍胆は店内に足を踏み入れた。とじようとする扉を支え、亮もそれに続いた。
ふわっと、冷房の効いた空気がさわやかに顔に触れた。足を踏み入れて見た店内の光景は、その空気と同じように、さわやかな色の光を放っていた。
外壁と同様に店内も白の印象が強く、床のフロアーに並べられたテーブルと椅子は、壁の純白のアクセントをなすように白亜に塗られたものが使われてある。触れてみると木材特有の手にしっとりと吸いつくような感触があった。
入り口に立った正面にバルコニー、左手にはカウンターがある。御毛沼のあの店とは違い、その奥に見えた棚には夥しい数のビンやグラスが充実を見せていた。それから察すると、意外だがここはバーなのだろうか? そう思って店内を見渡すと、左手にまだ床板のフロアーが続いていることに気づいた。ちょうどL字を左右反転させた格好になっているのである。突き当りは短い階段を降りたフロアーになっており、そこには黒革の大きなソファが二席、長方形のテーブルを挟むようにして置かれている。そこに至るまで、二、三のテーブル席も並んでいる。
店内には、微かに波音が聞こえるだけで、人影はなかった。二人であたりをきょろきょろと眺めていると、そのとき、不意にその声があった。
「やあ、いらっしゃい」
声の主はカウンターの中に座っていた。いつの間にそこにいたのか、さっき見たときはいなかったはずだ。奇異に感じて、亮はその言葉に何の反応も示せずにいたが、三十がらみのその男性は、こちらを見てにこやかに笑っている。
「おっさん、ここ何屋だ」
目の前に立っていた龍胆が、ずかずかとカウンターへ歩いていった。何て口を利くんだ。眉をひそめつつ、亮も丸椅子に腰を下ろした。
男は龍胆の乱暴な物いいに対し、少しも不快を表さなかった。そればかりか「何だそりゃ、初めての質問だな」と、いっそう朗らかに笑って見せた。
「そうだな、まあ、人の集まる場所だよ。欲しい人には酒や食べ物も出す」
「人、いないじゃん」
「今日は休みだったんだ。たまたま降りてきたところなんだよ」
そういって男は天井を指差した。二階が住居になっているのだろうか。
休みだったと聞いて、亮は席を立つべきだと咄嗟に考えた。だがちょうどそのとき、男が水の入ったグラスを差し出し、目が合った亮に向けて柔らかく目を細めた。まるで意を見抜かれたかのようなその所作を受けて、亮は少々気恥ずかしくなってしまい、苦笑いを浮かべながら座りを正した。
精悍、という一語がまさに当てはまるような男性である。
Vネックの白い長袖シャツに、浅葱色のジーンズ。ひらかれた襟元からは、海辺の住人らしく適度に灼かれた肌が覗かれる。春美ほどではないが体格もいい。だが、それは「力」よりも「大きさ」を感じさせる。そう、何故だろうか、亮の目には、春美とそうは変わらないはずの男の姿が、実際よりも大きく見える。
「すげえ腹減ってんだ、何か食べれる? 千円で」
龍胆がまたも乱暴にいってのけた。いい加減にしろ、と亮は片肘でそのわき腹を小突いた。
「ああいいよ。俺もそのつもりだった。ついでだ」
「すいません、お休みのところを、」
「いいさ。メシを食うときは一緒のほうが楽しい」
そういってまた溶けるように笑い、男はカウンターの端にあるシンクのほうへ向かった。冷蔵庫を開けたり閉めたり、鍋を火に掛けたりと、手際よく調理を始めている。
「パスタだ、いいかい」と男が問うた。「おう」と「はい」という返事が重なった。「まともな口を利け」とついに口に出し、亮は鋭い視線を向けた。だが龍胆は意に介さず、しかもやけに上機嫌だった。
「ラッキーだったな、おい」
「ああ、まったくだ」
ため息をこぼしつつ亮は同意した。むろんその意味は違う。男が実におおらかな人物であって、本当に良かった。
不思議な男だ、と何となしに亮は思う。初めて来た場所であるのに、しかも龍胆のせいであつかましい立場にあるのに、何故だか居心地の悪さを微塵も感じない。それも、この男の人柄によるものだろうか。
笑うと目じりにふわりと波が出来る。ひろげられた口唇からは整った白い歯が覗く。細められた目はほとんどが黒目に埋められてしまっていて、きらきらと、水面が光を反射するように輝いて見える。
それは、見る者の胸を羽先でくすぐるような、自然と頬を緩めさせてしまうような笑顔だった。柔らかい、という形容がまさに相応しい笑顔。さっきまでどんな顔をしていたのか、ふと思い出せなくなるような、そこにあるのがごく当たり前で、かつ強い存在感を放つ、不思議な笑顔。
へらへらしているとか、心無い愛想笑いだとかいう印象はまるでなかった。それは軽々しいものではなく思われた。だが、むろん重苦しいものでもないのである。大きく、広く、力強く、高いところにあるが、決して人を圧迫せず、のしかかることも押さえつけることもせず、見上げる者を包み込むようにしてただそこにあるもの。そう、例えるなら、それは晴れた空のような笑顔だ。
楽しそうに鍋を振る男の横顔を見つめながら、不思議な男だ、ともういちど亮は思った。七星を底知れぬ深い穴とするなら、この男は果てしない空だろうか。最も不思議なのは、出会ってたったの数分でもうそんな印象を抱いたことだ。その存在は決して軽薄なものではなくむしろ力強いが、相対する亮は、少しの不安も惑いも感じない。この男は、どんな相手でも両腕を広げて受け入れようとしている。そう考えるのは、間違いだろうか? いずれにせよ、不思議な大人がいたものだ、父とはまるで正反対だ。と亮はやはり何となしに考えていた。
「はいよ、アンチョビとキャベツのスパゲッティ」
ものの数分でプレートが運ばれてきた。男は同じ皿を手に持ちながらカウンターの中の椅子に腰を下ろした。
しっとりと濡れたキャベツと細かくちぎられたアンチョビが、湯気を立てるスパゲッティの中にちりばめられている。香ばしいニンニクの香りが空腹を刺激し、亮は否応もなく食指を動かされ、フォークを手に取った。放り込むように口元へ運ぼうとしたそのとき、ふと横を見ると、龍胆がすでに吸い込むような勢いで貪っていた。自分もこんな顔をしているのかと少し哀しくなり、亮はしばし手を止められてしまった。
「ドリンクもいけるか? 千円で」
口一杯にスパゲッティを含んだまま、龍胆は悪びれる様子もなく尋ねる。「図々しいな」と男は眉を寄せて苦笑した。
「まあいいか。ただし、ジュースだな」
そういってカウンターの下に身をかがめ、何かを開け閉めして、男はオレンジジュースのビンを手にして顔を上げた。龍胆は嘆声をあげた。
「いいじゃん、そこに並んでるやつで」
「駄目だ。こっちも商売だからな」
二つのグラスを並べながら、男はきっぱりと催促を断った。しかしきっぱりとはしていたが、やはりその態度は柔和で、拒絶されたというよりはひらりとかわされた感じだ。傲慢なはずの龍胆も、渋面を作りながらではあるが、やけにあっさり引き下がった。
「君たちここらの子じゃないね。観光客かい?」
男がいう。亮たちは皿とフォークを持ったまま顔を見合わせた。何というべきだろうか。
「観光といえば観光なんですけど」
歯切れのわるい回答に、男は丸い目を向けた。仕方なく、亮はいきさつを説明した。四、五時間も掛けて、しかも目指したわけでもなくここへ辿り着いたということ。
「何だそりゃ、無茶というか、馬鹿というか」
男は半ば呆れた様子で、眉を吊り上げ笑った。亮は照れ笑いを隠しつつ親指を龍胆に指した。
「悪いのはこいつなんです、すべて」
「夏深だろ、あいつが言い出したんだ」龍胆がすかさず突っ掛かる。
「突っ走ったのはお前だろう? みんな心の底から引き返したかったんだ。ああ、けつが痛い」
「るせぇよ、結局みんな楽しんでんじゃねえか」
「それとこれとは別の問題だ。あれだ、感受性の問題だ」
向き合って戯れていたそのとき、ふと亮は男の視線を思い出した。男は静かに微笑みながら、優しい目でこちらを見ていた。亮はその視線が照れくさく、目を逸らし苦笑した。
「いいね、夏なんだな」
「何の話だよ」
感慨深げなその言葉に、龍胆がぶっきらぼうに食いついた。男は、遠い目をした後で、ゆっくりとその視線を戻した。
「夏はみんな馬鹿になるからな。若いうちの特権さ、次第にうっとうしい時期でしかなくなってしまう」
そこまでいうと、男は懐かしいものを見るように目を細め、また遠くを見つめた。背もたれへともたれかかり、木のきしむ音が聞こえた。
「それがいいと思えるのは、振り返ったときだな。ずいぶん馬鹿なことをしたものだと、楽しかったり、恥ずかしかったり、後悔したり。でもそういう思い出が人間を作ってるんだと、ふと気づくことも出来る」
男は語った。徒然のリズムで紡がれたその言葉は何故か心地よく鼓膜に触れ、龍胆までもが黙って聞いていた。
傾いていたグラスを戻すと、男は何かに気づいて現在に還った。
「当事者を前に、無粋なことを言ったかな。おっさんにも色々あってね」
照れくさそうに、そして少し申し訳なさそうに、男ははにかんだ。亮たちもそういわれて初めて我に還った。
「心配すんなよ」と龍胆が口をひらく。
「あんまり聞いてなかったから」
「そうか。なら良かった」
その悪態は、照れ隠しに違いない。そう直感した亮は、あらぬ方向を見ている龍胆の横顔を覗きながら、ひそかにほくそ笑んだ。当の男は、何の嫌味もなくそういって、おおらかに笑った。




