水の中から月を見る⑨
そのとき、嘘のようなタイミングで扉を強く叩く音があった。みな一斉に入り口を振り向いた。扉を殴るか蹴るかしてひらき、どかどかと荒い足音を響かせて現れたのは、当たり前だが龍胆だった。その背後には、やたらと神妙な顔をした夏深が静かに付き従っている。どうして連れて来るんだ! 問い詰めてやりたかったが、ソファに爪を立てつつ亮は堪えた。
龍胆は最奥のこの席へと向かってずかずか進み、立ち塞がるようにして止まった。カーゴパンツのポケットに両手を突っ込みながら、その目は誰でもない虚空をにらみつけている。亮は組んでいた足を下ろし、背もたれに乗せた腕を戻した。目だけで龍胆を覗いた。すると、同じようにしてこちらを向きかけた龍胆の目と視線がかち合いそうになった。ので、すぐに逸らしてしまった。
久方ぶりの龍胆の来訪に、しかし歓喜の声をあげる者が居ない。視線を送ろうともせずに、みな石のように押し黙っている。夏深ですら、うつむき黙っているのだ。この状況の意味と理由を、亮も含めた皆がわかっているようで実はわかっておらず、重い沈黙には不安の色合いが濃く現れている。
何をする気だろう。まさかとつぜん殴り掛かってくることはあるまいか。などと、そっぽを向きながらひそかに固唾を呑んでいたそのとき、龍胆がひとこと、「どけ」と低く呟いた。
顔を上げた春美らは自分たちに命ぜられたことであると気づき、ものすごい速度で席を立った。邪魔にならないはずの、亮のとなりに座る伊藤までもが、そそくさととなりの席へ逃げていった。にらむような視線を送ったが、誰も目を合わそうとしない。
龍胆が腰掛ける。亮の目の前の席で、大股をひらき腕を組んで、後ろへふんぞり返る。しかしまだこちらを見ようとはしない。亮の頭上、天井の辺りをにらみながら、眉間に深いしわを作り口をへの字に曲げている。どう考えても機嫌は悪そうだ。やはり何か怒っているのだろうか、そして暴力に訴えようとしているのだろうか。不安がじりじりと胸を騒がせたが、どうして良いか全くわからなかったため、亮はかえって身じろぎのひとつもしなかった。
龍胆は何もいわない。ならば自分から切り出そうか、とふと考える。しかしそうするにしても、何といえばいいだろう。「よう、どうしてたんだ?」などと朗らかに話しかけては、春美らに、恐怖に慄いて下手に出ているのかと思われかねない。といって、「何の用だよ」などと高圧的に接して、刺激してしまっては面倒だ。考えてはみたもののけっきょく現状を打ち破る方途は見つからず、亮は追い立てられるようにして不安の渦へと舞い戻った。頭を掻きむしってしまいたいような、臍を噛む思いが不安と一緒に胸を突いた。
そのとき、通路に立つ夏深がつと前へ出て、龍胆の肩に手を触れた。何かを促したのだろうか。龍胆はちょっと夏深を振り向くそぶりを見せて、組んでいた両腕をだらりと下ろした。そして首を折ってうなだれた。しかしまだ何もいわないし、動かない。右膝をかたかたと上下させながら、何やら懊悩しているかのように奥歯をかみ締めている。
その様と沈黙を、こっそり横目で覗きながら、亮はひそかに祈りの言葉を呟いていた。心臓の脈打つ数よりも多く、たのむ、と内心に繰り返していた。どうか龍胆の抱く感情が怒りでありませんように、と。怒りであってもいいが、せめてそれが暴力に結びつきませんように、と。
心中にこだまするその願いが、よほど必死なものであったからだろうか。そのとき発せられた龍胆の言葉を、亮は聞き逃してしまった。
「―」
胸中を騒いでいた不安が、そのとき一点に集まって喉の奥を突き上げた。亮は顔を上げた。何かをいったことはわかったが、果たしてそれはどんな色を帯びていたのか。龍胆は次にどう動く?
しかし、注視すれども龍胆は依然うなだれたままで、続く言葉や挙動がない。どうしたのだろう。そもそも龍胆は何といったのか? 亮は回答を求めて夏深へ視線を送った。聞き取られなかった、と首を振って見せると、夏深は、怒っているような、困っているような、哀しんでいるような、そんな妙な顔をして龍胆を見下ろした。そしてもう一度その肩に手を伸ばした。龍胆は、びくっと、微かだが全身でそれに反応した。
「ちゃんと、」
と夏深がいう。龍胆は貧乏ゆすりを止めた。そして振り向きもせずに肩の手を振り払うと、ぱん、と膝頭を叩いた。
もう一度、ちゃんといおうとしているのだろうか。ならば聞き逃すまいと、亮は全身に力を入れて警戒しつつ、耳をそばだてた。龍胆はいまだうつむいたままである。しばしの沈黙のあと、先と同じ声音と、同じ語調、そして同じリズムだが少しだけ大きな声で、龍胆は呟いた。
「ごめん」
「ん?」
という声を発したのは、となりの席の誰かである。
「ん?」
亮もまたこぼし、となりの席を向いた。すると、皆おなじ表情で、こちらを覗き込むように顔を前へ突き出していた。眉を吊り、目を見ひらき、口角を上げ顎を突き出した、間抜けな顔。亮も同じ顔をしていたに違いない。
(ごめん?)
と、確かにいった。そんな気が確かにする。たぶん確かなのだろう。だが、
(何が?)
助けを求め、亮は夏深を見た。だが、やたらと満足げに微笑むのみでよくわからない。龍胆はまだ下を向いている。手を両膝に着いて肘をいからせ、何かを踏ん張っているように見える。真意を、問うてもいいのだろうか? おそるおそる、亮はなるべく声に色を持たせぬようにして訊ねた。
「いま、謝ったよな?」
反応はない。亮はなおも重ねた。
「―何に対して?」
沈黙である。ふと見ると、夏深が「がんばれっ」とでもいいたげに、両の拳を握り唇をかみ締めて、龍胆を見守っている。妙に静かで、ひとつの音もなく、皆が聞き耳を立てていることが嫌でもわかった。亮は待つしかない。
いまだ誰の顔も見ようとしない龍胆は、またも右足をかたかた鳴らし始め、カーゴパンツの裾を摘んだり引っ張ったりと、いたずらに時を浪費する。そしてひとしきりの懊悩の様子のあと、搾り出すようにしてようやく呟いた。
「止めただけなのに、殴ったから」
「はあ?」
と思わず亮はいってしまった。それだけ信じ難かったのである。
さすがに怒っているわけではないことはわかった。しかしどうしたことだ? そういうことなのか? 頭の中で、がちん、がちんと音を立ててパズルが組み合わさっていったが、亮は見たことのないその奇妙な完成図を前にして、腕を組み考え込んだ。
この二週間は、謝らなければならないと思いつつもそれを躊躇っていた時間だったのか? つまり龍胆は自分を殴ったことを申し訳ないと思っているということなのか?
完成図を壊し、また組み直すも、やはり同じパズルが出来あがる。しかし亮は首を傾げる。そう考えるよりほかはないのだが、相手は龍胆だ、どうにも得心が行かない。
はっと、亮は皆の存在を思い出した。助力を求め、すかさずそちらを振り向いた。
しかし助けは得られなかった。皆のほうが、亮をはるかに凌いで驚愕していたからだ。よほど意外だったのか、というよりも想定外のことだったのか、皆が皆のけ反って、大口を開けて、タバコの灰が落ちかかるのも気づかずに硬直していた。山田に至っては、まるでこの世の終わりを見たかのような顔をしていた。
亮はそれを見て、しばらくして、噴き出してしまった。
緊迫する空気にもはばからず、小刻みに笑いを漏らした。
何故だろうか、皆にこれほど驚かれてかえって納得してしまった。信じ難いが、やはりそういうことなのだろう。信じ難いが、龍胆にもかわいいところがあったのだ。新たに知った一面が、さっきまで慄いていた分だけ妙にしおらしく思えてきて、また気が抜けてしまったこともあり、亮は、それぞれがそれぞれの理由で沈黙している中、ひとりで笑い続けた。
「な、なんだぁお前」
春美が声を掛けつつ立ち上がった。龍胆のとなりに座ると、下を向くその首を抱くように太い腕をまわした。
「そんなこと気にするなんて、どうしたんだオイ、風邪引いてんのか?」
―なあ、と同意を求めて後輩らを振り向いた。皆は叩かれたように我を取り戻した様子で、「へへへ」と、そぞろに拙く笑った。そんなこととは何だ。殴られたのは俺だろう。亮は思うが、にやにやと笑いつつ黙っていた。
春美は重く曖昧な雰囲気がいかにも耐えられないようで、うつむいたままの龍胆をしきりに揺さぶろうとしている。それはグループへの責任感の為す業か、それともひときわ不安耐性のないことの証左か? とにかく、努めて朗らかに話しかけようとする。
「みんな待ってたんだぞ。二週間も何してたんだよ」
「まさか悩んでたんだ? え? 謝り方のベンキョしてたんだ?」
「あ、わかった」
などと、ついにはいわなくていいことまでいいだした。
「お前ハズかしかったんだろ? え? そうだろ? だから―」
それはまずい、と亮は片目をつむった。果たして予想通りに、龍胆の鉄拳が飛んだ。「ああ、これでみんな笑ってくれる。楽しくなる」―おそらくそんなことを、浅薄にも考えたであろう巨体は、二本の太い腕で哀れに舞い踊って、どすんと床に落とされた。
「ってぇな何すんだ!」
「るぅせええ!」
床の上ですかさず息巻いた春美だったが、龍胆が常の様子に戻ったことに気づいて、やはりすかさず怖気づいた。その怒号は、龍胆が今日ここへ来て初めて発せられた、色の付いた声だった。
その声に、弛緩しかけた空気がまたも凍りついた。春美もまた、一筋の鼻血を垂らしながら、その怒号によって床に縫い付けられてしまった。しかし恐ろしいというよりは、わからないのだ。龍胆が謝った、という事実にとにかく混乱していて、みな現実に対応できないでいるのである。
その空気を破ったのは亮だった。
「よかったなあ春美ィ、いい気分だろ」
と、呵呵大笑したのだ。皆が気狂いを見るような視線を向けてきたが、構いやしなかった。緊張していた分だけ、今が馬鹿馬鹿しくて仕様がなかった。そして、日常が、たったいま目の前で色を帯びて帰って来ようとしていることが、嬉しかった。
「じゃあ、ハイ! 仲直りオッケーねっ! よかったよかった!」
夏深が大きく手を打った。少々無理やりではあったが、ひとまずの区切りが付いて、後輩らの表情も、疑問を残しつつ次第に緩み始めた。しかし、春美は納得がいかないようである。
「よかねぇよ! いま殴られたじゃんオレ! さあ謝れ、ほら謝れ!」
床に膝を着いて、今にも掴みかからんとする勢いではあるが、まだ内心で警戒しているのか触れようとはしていない。龍胆が顔を逸らし黙っているのをいいことに、春美は調子に乗って催促を繰り返した。
すると、龍胆は突然に立ち上がった。
意を決したかのような立ち上がりざまであった。その拳も固く握り締められている。いよいよ沸き立ったか、と亮以外の誰もが息を呑んだ。春美はすかさず両腕で顔をかばっている。
しかし龍胆はその場を動くことなく、後輩らを向くと吐き捨てるように怒鳴った。
「おら終わりだ! どっか行くぞ!」
後輩らは顔を見合す。
「どっかって、どこすか?」
「どこでもいいだろ、ボウリングとか、何かあるだろ!」
「でも、」とまた互いを見合して、「カネ、ないっすよ」
勢いを制せられ、龍胆はぐっと歯噛みをした。京谷がまだ戻らないので、必然と、遊ぶ金はないのである。
「終わりじゃねぇだろうがよ!」
そのとき、春美がその巨体を起こし、龍胆と後輩らのあいだに割って入った。
「亮に謝って何でオレに謝んねぇんだよ! えぇ!」
その巨体は完全に視界を塞いでいる。つまり目に入っていないわけがない。しかし龍胆はその姿も言葉も全く無視して、後輩らに「立て」と促した。ソファに片足を付いて、無理に身をひねって、となりの席へと顔を覗かせているのだ。
「おらさっさとしろ! 出るぞ!」
しかし、後輩らはまたも顔を見合わせて沈黙し、そして立ち上がろうとはしなかった。
「って、どこ行くんすか?」
「何かあんだろ! カネ掛かんねぇところが!」
「おい聞けよテメェ、無理あんだろがその体勢!」
「そうだよ行こうよ、ねっ、パーっとさ!」
「おうそうだ!」
言葉尻に食いついた夏深を振り返り、龍胆はその顔を指差した。春美がそのあいだに回りこんだが、龍胆は顔も見ずにはねのけた。
「いいこと言った、どこに行きたい!」
「…ああ! ハナ血出てるぅぅ!」
「え? どこって―」
急に話頭を渡されて、夏深は窮してしまったようだ。ただ調子を合わせてみただけでまさか提案を託されるとは思っていなかったのだろう。しかし、ここで回答を渋るわけにはいかないのだ。それが龍胆のためなのだ。夏深は「えぇ~と…」と斜めを見上げて小首を傾げた。果てに何かを思いついた顔になって、小さく口をすぼめた。
「う、」
「う?」龍胆が食いつく。
「うみ?」
はあ? という疑問符が一斉に浴びせられた。龍胆ですら同様の大声を上げた。
「おいティッシュティッシュ、エム男んとこにあっか?」
「行けるわけないですよ、夏深さん」
「あの、うん、ごめんね?」
山田の冷静な指摘を受けて、夏深は恥ずかしそうに笑いながら忘れてくれと手を振った。あまり考えもなしに本当に「行きたいところ」を口に出したのだろうが、ここから海と呼べる場所まで、直線距離でも数十㎞とあるのだ。ボウリングをする金もないというのに、どうやって行けという。
せっかく為された提案だったが、それがあまりに荒唐無稽なものであったのでみな一様に気を緩めてしまい、その表情もほころんでいった。まさか行くわけがないからだ。どこかに行くという話し自体も、これでなしだろう、と。ちなみに春美は控え室へ行った。
しかし、龍胆という男はよくよく理解から離れたところに立っているのだということを、次の瞬間に皆は思い知るのだった。
「よっしゃ。行ったろうじゃねぇか、海」
冗談をいった、と思った誰かが小さく笑った。皆もその笑いに釣られそうになったが、誰先となく、龍胆がいかにも真剣な顔つきをしていることに気づき始めた。まずい。さっきまでにやにやと趨勢を見ているだけだった亮も、否応なくそれを直感した。まずい。
「ちょ、まま待って、待って。行けないすよ? 電車代ないない」
「原付で行きゃあいいだろ」
「いーだろって、どこに? 何時間もかかりますって」
「まっすぐ東か西で着くだろ」
「いや、だから」
「行くんだよ!」
その怒号に気圧され、みなは絶句してしまった。なぜ龍胆がこんなにこだわるのか全く理解できず、一様に当惑した様子で首をひねった。
おそらく、当の龍胆もよくわかっていないのだ。そう思った亮は、くすりとひとりほくそ笑んだ。初めて謝罪をしたことを醜態と捉え、それを引け目に感じて意固地になっているのだろうが、どうにも意地を張るポイントを間違えている。責任を感じておろおろとしている夏深の傍らで、龍胆も何となくそれを自覚しているのだろう。だからこそ叫んだのだ。だから、こんなにも顔が赤いのだ。
「いいよ。行こう」
亮はいった。皆の視線が一斉にこちらに傾いた。むろん訝りのそれである。
「遊びに行くのに何で躊躇う? それで気が済むんだろ、―龍胆」
朗らかに笑いながら、いや、にやつきながら、亮は目前に立っている龍胆を見上げた。ほんのちょっとこちらを振り向きかけたが、案の定、龍胆は口唇を噛んで顔を背けてしまった。たった今までの怒勢がまるで嘘のように、しおらしく。
亮とて行きたいわけではない。なのに「行こう」といった理由は、実はよくわからない。別に、龍胆が素直に謝罪をしたからといって、その意を汲んでやろうと思ったわけではない。妙にしおらしいその様子が哀れになったからでもない。ただ、何故だか座っていたくなかったのだ。何でもよかった。たったいま束縛から解放されたかのように躍動する心が、とにかく動きたい、何かがしたいと、もしかすると龍胆のそれと同様に、胸を突き動かしていた。
亮は席を立つ。そしてめいめいの腕を引っ張り、無理に立ち上がらせる。みな同じように不思議そうな顔していたが、やはり構いやしなかった。
ただ、夏深だけが皆と違って心やすい微笑みを浮かべていた。ふとそれに気づいたとき、亮は始め、それは龍胆に向けられたものかと思った。だが夏深は、重なったその視線を、柔らかく愛らしいその視線を、いつものように逸らそうとはしなかった。何故だろう? そう思った瞬間に、何故だか知れない鼓動の高まりがあって、亮は少しのあいだ首をひねったが、すぐに顔を上げた。
バイクは三台ある。龍胆が乗ってきたのなら計四台。二人乗りになってしまうが数は足りる。本当に行くのか? と互いに顔を見合わせて確認し合いながらも、後輩らは背を押されるままに出入り口へ向かった。龍胆は、自らの提案が呑まれたことを少しも喜んでいない様子で、いまだ恥辱を引きずっているのか、憮然とした表情でその背後に連なった。
そのとき、鼻の穴にティッシュを詰めた春美が控え室の扉を開けて出てきた。
「え。どこ行くんだよ」
「海」
亮が答えると、春美は澄まし顔を一変させて、いまさらの疑問を叫んだ。
「何だそりゃ、何でそうなるんだよ」
それよりも、自分への謝罪はどうなった。さもいいたげなその胸中を察して、亮は巨体の肩に腕をまわした。
「まあいいじゃん。あいつが行きたいってんだから」
「だからなんで!」
「それはほら、あれだ。きっとお前に謝るためだ。恥ずかしいことも、海に向かってなら、叫べるだろう?」
「つまんねぇよ! なにバカなこと言ってんだ!」
息巻く巨体を「落ち着け」とさすっていると、そのとき、扉を閉めようとしていた龍胆とふと目が合った。思えばそれは、二週間ぶりの出来事だった。
こちらを見ていた視線と、亮のそれがかち合ったのである。龍胆は、まるで子供のような目をしていた。まるで叱られたあとの、子供の目。―すぐに逸らしてしまったのは、どうしてなのか? 声は出さず、しかし目一杯に笑みを浮かべながら、亮は肩へまわした手で春美の頬を叩いてやった。ぴしゃり、とやけに小気味のいい音がした。




