水の中から月を見る⑧
「おう。どうだった、出来は」
「うーん。まずまず。でもすんげボーボーだった。アレはモザイク越しでもわかる」
「じゃあランキング入りは無しか」
「いや、それは入る。下のほうだけど」
「オッパイでかかったからだろ? こいつ結局それだから」
「なんだお前それフェチか。でかけりゃなんでも良いわけだ」
「んなことないよ、もっと色々あるもん。あれだ、こう、顔とのバランスとか、こーいうラインとか」
「そうそう、あと乳輪な。奥がふけぇんだから、乳は」
「なんだバランスって」
「あるんだよ! えっこの顔でこの乳?とか、うん、この顔はこの乳だ、とか」
「やっぱりどっちでも良いんじゃねぇか」
控え室からやけに達成感に満ちた顔で出てきた鍵原と伊藤、そして春美らとそんなどうでもいい話をしていたとき、重い防音扉を開けて入店する者があった。夏深だった。
扉が開いた瞬間に、皆は揃って入り口のほうを向いた。しかし期待はまたも裏切られ、落胆するわけでもないが、小さなため息のようなものがこぼれた。気を取り直し会話を再開しようとしたのだが、あまりにどうでもいい話だったためか皆その内容を忘れてしまったようで、互いの顔を見合わせながら、あたりを奇妙な沈黙が漂った。春美の二本の指が自身の乳首の辺りを指したままになっており、亮は何を話していたのかはっきり覚えていたのだが、本当にどうでもいい話だったのであえて黙っておいた。
夏深は近頃、龍胆と皆の橋渡しの役を担っている。互いの様子を求められるまま互いに伝えている。だが何らかの伝言を預かったり願いを届けたりという作業はなく、つまりそれは双方のささやかな接点に過ぎず、思えば目的のはっきりしない役回りである。しかし夏深にそれを面倒に思っているような様子はなかった。ちょくちょくデルフィへやって来るし、積極的に龍胆の話題に触れたりする。その態度には、重役を担わされた責任感や龍胆を独占している喜びなどが複雑に入り混じって見え隠れしていて、亮は少しの不自然さを感じ取っていた。あれだけ目の敵にしていた亮に対しても、妙に明るく接してくるのである。しかも、その明るさが優越意識から来る余裕がもたらしたものであればまだわかるのだが、夏深はやたらと下手に出て、まるで機嫌を伺うようにして接してくるのだ。それは何故なのか? 不思議には感じていたが、とりあえず龍胆のことで頭が一杯だった亮は、奇異に思いつつも考えることを保留している。
途中で、夏深は絵本とにらみ合っている田中の様子に気づいたらしい。
「どう? おもしろいでしょ? いいでしょ?」
などと、パーティションに首を突っ込んで覗いている。田中は声だけで苦汁のそれと知れる顔をして、矢継ぎ早の問いに答えた。
「わかんないっすよ、何で花がしゃべってるんすかぁ」
それを聞いて、亮はひそかに苦笑した。可哀そうに、とあまり誠意のない憐憫を田中へ向けた。感想を問われ、「何で」と答えることは禁物なのである。説明を求められたと解釈されてしまい、例の熱弁が始まってしまうからだ。
ところが、いつもなら嬉々として目の色を変え、口火を切る夏深が、このときは何故か大人しく身を引いた。
「そう? もっとちゃんと読みなよ」
というひと言を残して、こちらの席へやって来る。となりの席へバッグを置くと、夏深は席を詰めてくれと合図して亮のはす向かいに腰を下ろした。皆は特に何も感じていないようだったが、亮はやはり少しの違和感を覚えた。
「おう、どうだ?」
と春美がいった。何度も繰り返されたその問いからは、「龍胆は」という一語すら省略されてしまっている。夏深は言葉すら省いて、苦笑いしながら首を振った。特に変わりないらしい。
「あ、何か飲まれますか」
山田がちょっと腰を浮かせた。今にも「姐さん」などと言い出さんばかりである。夏深はくすぐったそうに眉をひそめて、気を遣うなと手を振った。
皆、一様に黙りこくっていた。会話を寸断されて話頭を見失ってしまったからではない。その切っ掛けが龍胆の問題であったからだ。「なぜ来ないのか?」という何度も念頭に及んだ疑問に、今もまた支配されてしまって、それを口に出しても仕方がないので、自然と黙るほかはなかったのだ。心中の一念を反映させて、皆、心なしか口を曲げているように見えた。
「ああーっ!」と突然、春美が沈黙に耐えかねて大声を出し、背もたれに身を投げた。皆の視線が一斉にそちらを向いた。
「でも、おっかしいよなー、長すぎねぇか?」
「ねえ。たぶん初っしょ、こんな長いのは」
「そんでまた何も言わねえんだかんな。どうしろっつんだ、あの野郎」
「やっぱり何かあったんじゃないの? あのあと」
「だから何もねえよ。またあいつがボーソーして、そんで二人で止めただけ。なあ?」
春美は同意を求めてこちらを向いた。亮は少し迷ったのち、その通りだとうなずいた。こちらを向いていた皆の視線が、また一斉に方々へ散った。
何かあったのかと問われれば、実のところ、あったのかも知れない、と答えざるを得ない。しかし、説明が難しいし、話したところで皆の納得を得られるとも思えなかった。「そんなはずがない、考え過ぎ」などと、笑われてしまうのがオチだ。
またも疑問の一念に沈みかけていたところへ、夏深が拍手を打った。
「まあいいじゃん! もうすぐだって」
そして朗らかにそういう。やたらと明るいその様子、気休めとも思えない、確信に満ちた声。皆もさすがに違和感を覚えたようで、目覚めたように顔を上げた。山田が代表して口をひらいた。
「何か言ってたんですか?」
それは期待と願いを忍ばせた、やや焦り気味の言葉である。それを受けて、夏深は目を丸くした。少しの間を置いて、あわてた様子で手を振った。
「いや、なんにもないんだけどね。そんな気が」
皆は素直にがっかりしたようで、そこここに嘆息がこぼれたが、亮はひとり黙って夏深を注視した。やはりどこかおかしい。しかし何がおかしいのか、言葉にすることが出来ない。不可解な違和を抱えたまま、亮はそれ以上は思考を進めることが出来ず、やがて徒然に手を放した。
ぱん、と春美が膝を打って沈黙を破った。
「よっしゃ、まあいいか! どうせ考えたってわかんねぇしな!」
「そうそう。どうせ理由なんて本人もわかってないんだし」
「なあ。前んときなんてあれだぞ、帰って来てはじめに出たせりふが―
『お前らを試してた』
―だぞ。わかんねぇよ、どーいう意味だよ」
考えるだけ無駄だ。だから気分を変えよう、とりあえず飲もうなどといって、春美は勢いよく立ち上がった。飲む、と聞いて真っ先に反応するのは鍵原である。嬉しそうに春美の背を追った鍵原に続いて、皆も次々とカウンターへと席を立った。亮は手元のグラスに残りがあったので、座して皆の戻りを待った。といっても、相変わらずひとりだけノンアルコールであるが。
とそこで、夏深がこちらに向かって手招きしていることに気がついた。亮はグラスをテーブルに置いた。
何のつもりだろう。前かがみになって身を隠して、早くしろと、こちらを見る瞳が責め立てている。テーブルに手を着き、顔を寄せると、夏深はわざわざ両手で口のまわりを覆った。
「…あのね。あいつが、話しがあるんだって」
―そういえば、この女とこんなに近づくのは初めてだなぁ。などと、耳を寄せつつ亮は思っていた。直後に、そのひと言の意味が強く胸を叩いた。
いよいよ来たか、と亮は口唇をかみ締めた。不覚にも胸が不安に騒いだ。いよいよ対峙の時、龍胆が何らかの不満をぶつけようとしているのである。
「ああ、いいよ。これからか?」
背もたれに腕を掛け、亮は努めて堂々と即答した。夏深は、ばつが悪そうに眉をひそめた。
「うん、でもここじゃダメだって、そこのリベルで待ってるんだけど」
「ああ? 何だそりゃ」と今度は亮が眉をひそめた。
リベルとはファミリーレストランの名である。この店から最も近い場所にある飲食店なので、たまに利用することがある。
「何で出向かなきゃならないんだよ。ここでいいだろ」
「うん、でもね」
「話があるのは向こうだろう。連れて来いよ」
そのとき、両手にグラスを持った春美が戻ってきた。
「おい、ろくな食いもんねーぞ。エム男の野郎、龍胆がいないからってのびのびしてやがるな、のびのび」
通り路を作るため、夏深は顔を上げて離れた。春美が腰を降ろしたところで、ふとその視線を持ち上げた。
「どうしてもダメ?」
「どうしても駄目」
皆も次々に戻ってくる。舞い戻った騒がしさが、乞い願うような濡れた瞳と言葉を遮った。再び目が合ったとき、夏深はいったん顔を伏せ、そして何もいわず立ち上がった。
「どうした?」と春美が顔を上げる。「ちょっと」と少し振り返って言葉を濁すと、夏深はそのまま店を出て行った。皆の視線も暫時その背に傾いたが、すでにその興味は手に手に持ち寄った酒に移っている。鍵原が慣れた調子で乾杯の音頭をとると、ひそかに緊張する亮を捨て置いて、場は宴にほころんだ。
龍胆を呼びに行ったのだろうか。果たして、龍胆は来るのだろか? 考えているところで、何があったのかと問う春美の視線に気づく。話してもいいのだろうかと、夏深の努力を慮って少し躊躇したのだが、亮は口をひらいた。来るのならばどうせ同じことだ。
「龍胆を呼びに行ったんだよ。話があるんだと、俺に」
「え、龍胆さん来るの?」
と、聞き逃さず伊藤がこちらを向いた。皆もグラスを傾ける手を止め、同様に目を輝かせて身を乗り出し、場は俄かに色めき立った。
「ん? でも話って何だよ」
「知らないよ。何か文句があるんだろ」
「あいつが、お前に? 何かやったのか?」
亮は首を振った。春美は何か腑に落ちない様子で首を傾けたが、すぐに笑顔に戻り、まあいいやというようにグラスの酒を一気にあおった。皆もそれぞれに口元を緩め、舞い戻ろうとしている日常を思って歓喜の言葉を口にする。だがひとり、山田だけが静かに沈思にふけっていた。どこかを見つめていた目に色を戻すと、冷静な問いがこちらを向いた。
「じゃあもしかして、今まで来なかったのは亮さんのせいなんですか?」
鋭いひと言だった。亮はまたも不覚なことに、胸を叩くものを感じた。皆が揃って山田を向き、そしてこちらを向く。応えかねて、亮は沈黙してしまった。
「かもな」
と、誰の目も見ずに呟く。さあ責め立てられる、と亮は身をそばめて言葉のつぶてを待ち受けた。ところが、いくら待っても責言が飛んで来ない。見回してみると、皆、示し合わせたかのように同じ顔をして、そろって小首を傾げていた。ひとつの疑問を、春美が代表してこぼした。
「んん? ああ、そういうことになるのか? ええ? でも文句あるならすっ飛んでくるだろ、あいつなら」
その通りだ、といいたげに皆は小さくうなずく。そしてまたそろってこちらを向いたが、亮は何ともいいようがなく、たじろいでしまった。亮とて、何故なのかまったくわからないのだ。
「何かモメてるってこと?」鍵原がいった。
「向こうが勝手に怒ってるんだろ」
「なんか怒らせるようなことしたの?」
「まあ、したといえば…したことになるんじゃねえか?」
今度は亮が小首を傾げ、答えると、となりの伊藤が「はえぇ~」という間抜けな感嘆符を吐いた。
「すごいね、亮くん。つくづくムボーだね」
亮は真顔で振り向いた。どういう意味の言葉なのか、咄嗟に理解できなかったのである。
「だよなあ。そんでこれから乗り込んでくるんだろ? オレなら逃げる」
「うん。パスポート持って逃げる」
そこでようやく気づき、亮は「あっ」と口をあけた。龍胆は、怒り狂っているのかもしれない、暴力に打って出ようとしているのかもしれない。それをまったく想定していなかったことを、ようやくで自覚したのだ。
龍胆のこの二週間は、何かに思い悩んでいた時間ではなく、怒りを募りに募らせていた時間だったのか? 我慢に我慢を重ね、しかしはち切れて、そして今日に及んだのか? ―考えられないではない。いや、ただでさえわけのわからない龍胆のことだ、充分にありえることのようにも思えてくる。
亮は、自分がやけに背筋をぴんと正していることに気がついた。そして、どきどきと脈打つ心臓と、皆がやたらと哀れむような目で自分を見ていることにも、気がついた。
努めて背もたれにふんぞり返る。動揺などしていない、といまさら装ってみる。強気を示してやろうと、そのとき口をひらいたが、悲しいかな、その言葉は情けなく場をこだました。
「お、俺は悪くないもん」
誰も何もいわない。いった後すぐに、(だからどうした)と自ら思ったが、焦りを見せるわけには行かない。何も心に留めていない風を装って、亮は天井の辺りに目を逸らした。すると、誰かのため息が聞こえてきた。どういう意味だ! どういうため息だ! 問い詰めてやりたかったが、亮は天井の辺りを思い切りにらみながら堪えた。
もし龍胆が怒り狂っていたとしたら? ―正直なところ、やりあいたくない。負けたくないとは思うのだが、すでに心持ちは動転してしまっていて、狂気へと傾いてくれそうにもなかった。唯一の救いは、この店で待つことを撰択したことだ。皆がいるので、いざというときは止めに入ってくれる。こんな状況を想定していたわけではないのだが、先の呼び出しに応じなかったことは会心の撰択だったのかも知れない。




