水の中から月を見る⑦
春美が自分の眉を指差していった。
「キズ残ってるよな、ここんとこ。ハゲてるぞ」
亮は左眉のところに手をやった。交差して十字を作っているその傷を、上下に指でなぞった。
「これは違う。前のやつだよ。お前らにやられたんだ、お前らに」
山田はとなりの席で漫画雑誌をぱらぱらめくっている。鍵原と伊藤は鈴木から借りてきたアダルトDVDを鑑賞するために控え室にこもっており、もう三十分ばかり出てきていない。七星は自室に帰っている。
おかわりを淹れようと、亮はグラスを手に席を立った。そのときふと、パーティションを隔てた席で頭を掻きながら何かを読んでいる田中ユウイチの姿に気づいた。
「なに読んでんだ。頭抱えて」
「いや、夏深さんに、読めって無理やり。―感想文書けって、あれってマジなんすかね?」
疲れた顔で田中が掲げて見せたのは、児童向けの絵本である。
夏深は絵本収集を趣味としているらしい。何とかという作家が特に好みで、彼の作品はすべて揃えていると豪語している。その没頭ぶり、傾倒ぶりは龍胆へのそれと同様に執念染みたものがあるようで、メッセージ性が強いものであるらしい作品群の、その意味するところは何たるかなどを語り始めると止まらなくなってしまう。また、その押し付けぶりにも凄まじいものがあるらしく、皆これまでに何冊も読まされている。龍胆だけは頑なに拒絶し続けているようだが、春美などはもう十冊以上も読まされているらしい。夏深に目の敵にされてきた亮は唯一その強引な「おすすめ」から免れられており、その内容をまったく知らない。それもあって、夏深が熱く語り始めたときなどは、龍胆と二人で「避難」することが恒例となっている。
田中ユウイチは山田らと同学年の新顔である。春美には及ばないが、背が高く骨も太い。だがどちらかというと横幅の印象のほうが強い。その太い図体に不似合いなものを片手に、亮を見上げる田中の顔は、慣れない作業のためか憔悴しきっているように見えた。
「何枚書けって? 夏深は」
「いや、言われてないす」
「五枚はいっとけよ。じゃないと怒って龍胆でてくるぞ」
「ええぇー!」
口を横に広げ、田中はあからさまに嘆いた。まさか亮のいったようなことはないのだが、そういうところの機微をこの新顔はまだ知らないのだ。思ったとおりの反応を得られて満足した亮は、少し意地悪にほくそ笑みながらカウンターへ向かった。ここのところゴタゴタしていて落ち着かなかったが、それも片がついたので、夏深が抜け目なく「洗礼」を浴びせかけたのだろう。そのときの田中の困惑ぶりも目に浮かぶようだ。帰ってきた「日常」というものをしみじみ思い、亮はまた違う意味で頬を緩めた。
平和―とでも呼ぶべきものが、一応は戻っている。しかしあくまで「一応」である。亮がそう考えるのには理由があった。龍胆が一向に姿を現さないのだ。
あの夜以降、連中の襲撃はぴたりと止んだ。止んだばかりか、街で顔を見かけることすらなくなった。龍胆のあの凶行に関して、もしかすると警察へ届けを出されるかもしれないとの懸念もあったのだが、二週間が経過して何の音沙汰もないところを見ると、どうやら杞憂であったらしい。それは、龍胆の狂気によほど怖れをなしたからなのか、もしくは、積極的に警察に関わってはいけない、という少年の世界でのルールを、連中のぎりぎりの誇りが守らせたからなのか。いずれかはわからないが、とにかく日常は戻ってきており、亮らは以前のように街をうろついている。
だが、龍胆がいない。その一点のみが違う。
夏深によると、皆のところには顔を出さない龍胆だが、先頃のように一人でどこかへ消えてしまっているようなことはなく、二人では頻繁に会っているらしい。何故デルフィへ行かないのかと誘いを繰り返しても、「行きたくない」の一点張りだという。その様子はやはり不機嫌なものではあるものの以前のそれとは微妙に趣が違い、積極的に皆の様子を訊いて来ることなどもあると夏深は語る。
その弁もあって、皆は「どうせいつもの気まぐれだろう」とあまり心配はしていないようである。あのときの龍胆の様子を見ていた春美もそれは同様だった。しかし、グループが中心を欠いていることの違和感は否めず、デルフィに集まっているときの雰囲気にもそれは如実に現れていた。みな一応は日常を謳歌しているが、それは雑誌を読んだりテレビを見たりと、わざわざ集まらずともよいことばかりであるし、卓を囲んでいてもふとした沈黙がやたらと目立ってきている。楽しんではいるのだ。だがそれはあくまで仮のもの、一時的なものでしかないのである。口に出す者こそなかったが、それでも皆がデルフィへ集まってくるのは、何より、龍胆を待つためであるということは明白だった。
そして、亮である。
亮はこの二週間を、複雑な心境で過ごしてきた。頭をひねったり腹が立ったり、罪悪感や責任感に苛まれたりと、複雑な起伏を上り下りしながら龍胆のことを待っていた。
龍胆が姿を見せない原因は、亮自身か、少なくともあの夜の出来事にあることは間違いなかった。皆に仮初めの日常を強いている責任の一端は亮にあるのである。それを思うと胸が痛んだことも確かだった。しかし、亮に原因があるとしても、ならば何故その原因が「来ない」という撰択に繋がるのか、それが一向に理解できず、亮は素直に申し訳ないと思うことも出来なかった。
亮を殴ったことに気を咎め、顔を合わせにくいのだろうか。龍胆はそんな奴じゃない。敵とはいえやりすぎたことに後悔を覚え、赴く足を気後れさせているのだろうか。それも考えにくい。
ならばやはり、と亮は考えた。
(俺に会いたくないからか。俺が、衝動を抑え込んでしまうから。拒み遠ざけたいものを、目の前に突きつけてしまうから)
その想像は一抹の説得力をはらんでいた。不機嫌な様子を見せ始めた頃、あの頃より抱いていた不満が、あの夜ついに爆発してしまったのではなかろうか、と。
しかし、それは仮定の上に危うく成り立っている推測に過ぎず、得心に至るものではなかった。龍胆が何かを避けるためにあえて衝動に身を委ねている、というその考えが、そもそも亮の想像に過ぎないのである。案外、皆のいうように「単なる気まぐれ」なのかもしれない。要するに、龍胆のことはどこまで行っても「わからない」のだ。
さてそう考えると、亮は今度は腹が立ってきた。一時は申し訳ないとまで思っていたことも馬鹿馬鹿しくなってしまった。だいたい、亮は何も間違ったことをした覚えはないのである。あんな蛮行は誰でも制止するだろうし、いまさら会いたくないといわれても、自分を仲間に誘い入れた張本人は龍胆じゃないか。よしんば自分に何か非があるとしても、それなら面と向かって口にすればいい。まったく顔を見せようとしないのは卑怯であると、そう考えるようになるほど、いつしか開き直ってしまった。
自分が居ないとわかれば、龍胆はデルフィへやって来るのかもしれない。一時はそこまで思いつめて二の足を踏んでいた亮だったが、開き直ってからはかえって長時間居座るようになっていた。いつでもやって来るがいい、いつまでも待ってやる、と。もしや不満があるのなら、甘んじて受け止めてやろうじゃないか、と。あの夜のあの瞬間のように、真正面からぶつかり合ってやる、と。




