水の中から月を見る⑥
口をとじ、息を止める。そして目を見ひらく。
ここからは見ることだ。敵はどう動くか、こちらのどこに穴があるか、見ることだ。狂気の赤に一点の白を垂らし、亮は目に映った一瞬の映像を切り取って見た。
龍胆と春美が駆け出そうとしている。龍胆はリーダー格のいる死角のほうへ、春美はこちらへ。鈴木らは夏深を囲んで壁を背にする。手前の雑魚どもは、倒れた男に駆け寄る。奥の雑魚どもは形相を一転させて後輩らへ掴みかかろうとしている。
亮はまばたきした、そして走った。倒れた男が顔面に手を当てながら立ち上がろうとしていた。その下顎へ、走り抜けながら蹴りを叩き込んだ。同時に春美がとなりの雑魚を背後から吹き飛ばした。その巨体で体当たりを打ちかまし、商店のシャッターに叩きつけたのだ。アーケードに怒号がこだました。奥の雑魚三人が、円陣を作る鈴木らに飛び掛かり叫びを上げた。
亮は止まらない。穴はどこだ? ―龍胆だ。腕を振り、止まらずに駆け抜け、亮は丁字を左へ折った。リーダー格を除いた三者が龍胆を取り囲もうとしていた。左端の男へ向かって、亮は疾駆の果てに跳躍した。足の裏は振り返った男の顔面を弾き飛ばし、男は弧を描いてひっくり返った。すかさず起き上がる。馬鹿づらのリーダーと、ふと目が合う。亮はその刹那、狂気に呑まれかけ、意図せずにたりと笑った。
だが止まってはいけない。狂気を振り切り、亮は見る。夏深はどこだ。壁際でおろおろと避難している。そしてバッグをごそごそと弄っている。龍胆は? ―龍胆は二対一の格好で敵手と向き合って、楽しそうに暴れている。四本の腕をかいくぐりながら、踊るように、旋風のように蹴りを繰り出している。鈴木は前方にいた雑魚の一人と、鍵原と伊藤は背後にいた雑魚たちとそれぞれ一対一で掴み合っている。虚は衝いた、まだ誰もダメージを負っていない。だが戦線が伸び始めている、皆が個々に孤立しかけている、亮は止まらない、止まらず春美のもとへ駆けながら、叫んだ。
「かたまれ!」
そのとき、駆ける足を不意に掴まれ、亮はコンクリートに手を突いて倒れた。さっき蹴り飛ばした男だ。男は片膝を着いたまま飛び掛かってきた。肩を掴まれた。男が拳を振り上げた。一撃目は二の腕にはずれ、二撃目が首元に当たる。三発目が右頬を突いたが、芯が外れている、ダメージはない。亮は顔をしかめながら足払いを掛けた。地表を旋回した足は男のふくらはぎに当たり、バランスを崩した。すぐさま身を起こし、亮は男の胸を思い切り踏み抜くようにして蹴った。のけ反った男は、胸を押さえて前のめりに伏す。しかし亮は止まらない。立ち上がると、中央へと向かう。―見ることだ。亮はすばやく辺りを見回した。龍胆が後方で二対一、春美が前方、鈴木が右方、鍵腹と伊藤が左方でそれぞれ一対一、背後に伏す男が一人、最初に蹴り飛ばした男はもう立ち上がらない―二人足りない、一人は馬鹿づらのリーダー格、もう一人はどこだ? そのとき、右手から春美の背後へと飛び掛ろうとする男があった。春美がシャッターへ吹き飛ばした男だ。亮は反応した。咄嗟に駆けた。間に合うか?
男のタックルが春美の背にぶち当たった、直後に、亮の右拳がその顔面へ届いた。まずい、とそのとき亮は表情を歪めた。よろめいた男が、夏深の方へ近づいている。
「行け!」
邪魔だ!と右手をなぎ払うが、返事を確認する暇などない。春美は大丈夫か? 見ると、何をものともせずに、タイマン相手の髪を掴み振り回している。優勢だ、さすがだと、亮はほくそ笑んだ。きっと振り返り、亮はよろめいた男に突っ込んだ。壁際の男へ、その無防備な腹へ、全体重を乗せて突っ込んだ。「うっ!」という呻きが頭上に鳴る。亮は拳を振り上げた。右、左と、大振りに男の顔面を殴った。寝てろ、寝てろ、寝てろ!
「来る! みんなすぐ来るってぇ!」
夏深の声。携帯電話を片手に持ち、泣き叫ぶような声。それはアーケード中に響き渡った。「よっしゃあ!」と春美が快哉をあげる。敵手の男らに、微かな動揺が走る。しかし、亮が振り向き見た夏深の表情は、決して希望を含んだそれではなく、むしろ不安に染まって硬直していた。亮は直感した。嘘なのだ。
(―増援は無し、か)
亮は舌を打った。その苛立ちに任せ、男の腹に深く拳を穿った。男は膝を着いてうずくまる。とどめを刺すか、と前髪を掴む。そのとき、背後より野太い怒声が届いた。
「うオラあぁ!」
と、馬鹿づらのリーダー格が突進していた。龍胆の背後へ、あるいはその奥の鍵原へ? まずい、と亮は掴んだ髪を捨てた。龍胆なら何とかする。だが鍵原は、口の端から血を流し、すでに動きに精彩を欠いている。一人もやられてはいけない、動けない者を出すことは、逃走の撰択肢を消滅させてしまうのだ。
亮は駆けた。馬鹿づらは案の定、弱った方を狙っていた。何とか間に合った亮は、馬鹿づらの両肩を受け止めその突進をとめた。馬鹿づらも両腕を突き出し、押し合うような格好で、その瞬間、両者のエネルギーがぶつかって弾けた。
「小僧ォ! てめえ八州中だろ! んな奴が何してくれてんだぁあ?」
「…ああ、しかも学年二位のガリ勉だ、てめえらそれに負けてんだよ!」
馬鹿づらを見上げながら、亮は力みつつ笑って見せた。しかし強がっては見たものの、単純な力勝負ではどうにもならない。じりじりと腰が沈む、馬鹿づらはにやにやと不快に笑う。
(倒される、)
歯軋りしながらそれを直感した瞬間、下腹に重い痛みが突き刺さった。
「が、はぁっ!」
膝蹴りだ。血を吐くかと思った。腰から砕け落ちた。
視界が白黒にまたたく、鯉のように口をあける。音も色も匂いも消え失せ、下腹が膨満していくかのような激痛に酩酊させられたその瞬間の終わり際、前髪を掴まれ上を向かされた。にやりと、白く輝く歯だけが見えた。
一撃、二撃と鼻柱を殴られ、ぶちぶちと髪のちぎれる音がした。亮は倒れかける我が身を後ろ手に支えた。立ち上がらなければ。やられてしまう。―顔を上げたそのとき、凄まじいスピードで視界に躍り出るものがあった。
馬鹿づらでもその拳でもない。それは宙を舞う龍胆だった。跳躍し、自身の頭上まで振りかぶった踵を、馬鹿づらの後頭部へ叩き落したのだ。
馬鹿づらは亮の懐へ倒れこんだ。着地した龍胆は獣のような咆哮をあげた。亮は奥歯を噛み、立ち上がりつつ龍胆を突き飛ばした。そしてその勢いのまま、もう一本の腕で肘をかち上げた。勝ち誇る絶叫をあげる龍胆の背後から、別の男が飛び掛かろうとしていたのだ。
肘はカウンター気味に顎先を捉え、男は後方へすっ飛んだ。置き看板を抱き込むようにして倒れた男の顔面へ、亮はさらにトゥーキックを見舞った。龍胆と背中合わせ、ちょうど位置を入れ替えたような格好である。今また一人倒した、すでに龍胆にやられた者もひとり足元に転がっている、残りは? ―六人。数の上では五分にまで持ち込んでやった!
だがダメージではどうか? 血を飲み込み、亮は鼻の下を拭った。春美は元気だが、ほかはみな分が悪い。助けるべきか、なら誰を? と振り向き見ていた亮の頬を、死角から拳が襲った。
よろめきを膝でこらえ、亮は顔を上げた。さっき、亮の足を掴んで止めた男だ。なお殴り掛かろうとする男の腹へ、亮は目を瞑りながら潜り込んだ。そしてそのまま道連れにして倒れこんだ。すかさず起き上がる、相手も起き上がる、拳が飛んでくる。が、中腰でのパンチに重みはなく、当たったが亮はのけ反らない。近づいた胸倉を掴んで、亮は男の側頭へ頭突きを食らわした。骨のぶつかる轟音が内耳に響くほどだったが、男は倒れない。のめりながらも亮を押し倒すと、男は上になって顔を伏せた。そのとき、春美の大声が届いた。
「開いた! 夏深ァ!」
男の首根っこを胸のところに抱き、押さえつけながら、亮は声の元を見上げた。春美は、さっきまで伊藤とやり合っていた男を羽交い絞めにして、懸命にその動きを封じ込めようとしていた。傍らには春美が倒した男が一人転がっている。囲みの外側に、風穴を開けたのだ。
硬直し立ち尽くしていた夏深は、一瞬の躊躇のあと小さくうなずき、春美の脇を縫って駆け出した。手の空いた伊藤は、苦戦している鍵原を助太刀に向かう。誰も追いかけられない、逃げられる!
(やった! あと二分、いや一分耐えれば、)
亮は笑みをこぼした。男の耳を掴むと、思い切り引っ張りあげた。苦悶とともに、男の両手がその腕を掴む。その隙に身を反転させ、亮は腹上の戒めから逃れた。すかさず立ち上がると、同じように立ち上がった男と、にらみ合う。呼吸で肩を上下させながら、そこで、亮はもう一度笑った。
あと一分耐えて、そのときまだ皆が両足で立っていたら、それは絶好の機だ。今なら例え逃げ出しても、それはほとんど勝利に近い。中学生を相手に倍ほどの人数で取り囲んでいながら、全員に逃げられる。しかも何人かは倒されている。そんな大恥は、少年の世界での死に値する。このまま夏深が遠く離れるまで耐えることが出来れば、その結果も不可能ではないのだ。
そう、それは勝利だ、と亮は自らに言い聞かせた。数で拮抗を得たとはいえ、このままやり合うことには危険を感じていた。もう息は上がっているし、両の拳も足の先も顔面も、熱く痺れてしまっている。喉の奥に流れてくる血も止まりそうにない。ダメージのほどは皆も同様に違いないし、龍胆はまだ暴れ狂っているがいつ糸が切れるともわからない。余力を残しているのは守りに徹してきた春美くらいのものだろう。それに、倒れた敵手がいつまた起き上がるかと考えると、ここは逃げの一手を撰ぶべきだ。勝利へ向かって、逃げることだ。亮の心中で、真紅の中の一点の白が、ゆっくりと滲み広がりつつあった。狂気から明晰へと針を振り戻し、機を逃すまいと周囲に注意を渡らせた。
それが隙となったのか。気がつくと、男の拳が迫っていた。身をよじったがかわしきられず、それは左目のところに当たった。亮は片目をしかめながら男の胴へ突進し、壁際へ押しやった。どすん、という衝撃とともに、男を壁へ縫い付ける。かがんだ亮の背へ、男は肘を打ち落とす。亮は地を蹴って踏ん張り、杭を打つように男の身を壁へ押し付けながら、繰り返される肘の連撃に耐えつづけた。目をつむり歯を食いしばりながら、心中でカウントを取り始めた。二十……十…四、三、二、一―
(ゼロ!)
かっと目を見開いた。そして、溜め込んだ渾身の力を両腕に爆発させ、亮は雄叫びを挙げた。
「ぬぅううらぁああ!」
宙に浮いた男を亮はコンクリートに逆さに叩き落した。腹を踏みつけ、顔面を蹴り上げ、そして顔を上げた。膝を着いている者は、敵に掴まれている者は、―いない!
「散れぇぇ!」
亮は叫びながら駆け出した。春美は大丈夫だ。伊藤と鍵原は二対一。ひとり苦戦している鈴木に、逃げ出す隙を与えなければならない。
息を止めて駆け抜け、亮は鈴木と向かい合う男へ体当たりをぶちかまし、そのまま壁際で押さえ込んだ。
「逃げろ!」
うなずいた鈴木は、鼻血を手首で拭い、デルフィへ続く方向へ走り出した。もがく男を必死に押さえながら、向こうで伊藤と鍵原が来た道を戻って逃げていくのを亮は確認した。その背を一人の男が追っているが、二対一なら何とかするだろう。立っている敵は、すべて亮と春美、そして龍胆で押さえている、この三人ならいつでも逃げ出せる―
(よし! 勝ちだ!)
と、亮は心中に快哉を挙げた。あとは体力、持久力の勝負である。ダメージはあるが、それは相手も幾分か同様のこと。囲まれさえしなければ逃げ切ってみせる!
もがく男を抱きかかえながら、亮は一方へ倒れこむように身を傾け、その反動で敵をうっちゃった。男とのあいだに、一歩の距離が生まれた。その一瞬に亮は駆け出した。
二歩、三歩と勝利へ近づく。しかしそのとき届いた春美の怒声が、亮を振り向かせた。
「おいやめだ! 逃げろォ!」
龍胆だ。龍胆が、馬鹿づらのリーダー格へ拳の弾幕を浴びせかけながら、大口を開けて高らかに笑っていたのだ。作戦が届いていない、まだ狂っている!
「龍胆ォ!」
立ち止まり、亮は不覚にもその名を叫んだ。すかさず、背後に迫っていた男の拳が襲った。何とかかわしたが、もはや心が逃亡へ染まっており、咄嗟の反撃の手は出ない。春美も同様に、敵手の身へ抱きつきながらただ龍胆へ向かって叫びを繰り返すのみだった。いかに龍胆とて、ダメージを負っている。動ける敵手を三人も残して、まさか二人が逃げ出すわけにはいかない。
(くそっ、どうする、)
龍胆は亮らの叫びを一顧にせず、なおも狂い続けている。どうするべきか、刹那の思案を巡らせていたそのとき、男の拳が飛び掛かった。
腰の入った重い一撃が、龍胆を注視していた亮の顔面を思い切り貫通した。天地が動転したかと思うほどの衝撃。顔に火が点いたのかと亮は疑った。膝から崩れ、地に手を着いて、揺れる脳髄を支える。顔の中心から後頭部へと、一条の痛みが突き抜ける。ひとつ、ふたつと血の雫がコンクリートを歩く。―そのとき、ざわざわと耳の奥で何かが鳴り始めた。頭の中で何かがうごめき、ひしめき合うようなその音は、やがてぷちぷちと何かが弾け飛ぶ騒擾に変わった。そして、揮発したものが頭蓋を満たしきったとき、亮は表情を一変させ、顔を上げた。
「邪魔だ!!」
左から旋回してくる蹴り足を二本の腕で受け止める。そして立ち上がりざまに男の胸へ肘を突きたてる。「がはぁっ」と肺の悲鳴を吐き出して、男は背を丸める。亮はその前髪を掴む。苦痛に歪んだ男の目の中に、にたりと笑う少年の顔が映る。―次の瞬間、亮はそこへ頭突きを食らわした。もういちど叩き込んだ。たちまち赤い花がひらいた。しかし亮はなおも男の髪をつかみ上げ、赤い花の中心へ、繰り返し拳を振り下ろした。―頭の隅から隅までを、怒りが狂い咲いている、それと同じ数だけ殴ってやる、邪魔をするな! 目障りだ!
「どけぇぇ!!」
とどめの一撃が、男の心を折り、身を落とした。ぐらりと背から崩れ落ちる男とともに、千切れた髪の束が舞った。亮は肩を上下させながらそれを見下ろした。微動だにしない男の顔面から、ぽつぽつと赤い花が零れ落ちている。コンクリートに溜まり、歪な円を作っていくその色に、亮はしばし目を奪われ立ち尽くした。
「た、助けてっ、助けてくれぇ!」
という声が、その忘我を叩いた。
悲鳴を上げたのは馬鹿づらのリーダー格だった。龍胆に胸倉を掴まれ、いいようにやられている。
膝を折り、顔中を血だらけにした馬鹿づらは、もはや戦意を失っているようだったが、それでも龍胆は容赦をせず、笑いながら顔面だけを狙って殴り続けていた。
龍胆は無事である。ひとまず胸を撫で下ろした亮だったが、すぐにそれに気づいた。さっきまで倒れていた敵手の一人が、龍胆の無防備な背後へと迫っていたのである。
それ見たことか、と舌を打ちながら、亮は地を蹴って駆け出した。これを怖れていたのだ。あまりに数に差があったため、倒したとはいえとりあえず動きを止めることしか出来ていないのだ。次々と起き上がってこられては、もうどうなるかわからないではないか。
間一髪、亮は男の拳を阻んだ。横から飛びつき、もろとも倒れこんだのである。怒号を上げもがく男を、亮はそのまま羽交い絞めにして抑えた。ちょうどすぐそばの龍胆たちを見上げるような格好になった。
「もうやめろ! 死んじまうぞ!」
亮は叫んだ。馬鹿づらは両腕をだらりと垂らして、もはやされるがままになっている。悲鳴は絶え、その目も開いておらず、意識が在るのかどうかさえ疑わしい。もういい、とっととやめて逃げるべきだ。
亮が叫んだ直後に、龍胆ははたとその凶行を止めた。諫言が通じたのだろうか、掴んだ胸倉も開放し、とたんに馬鹿づらは地面に崩れ落ちた。やっと終わった。と見ていると、龍胆は顔面から地に落ちた馬鹿づらの胴を蹴上げてひっくり返し、無理やり仰向けにさせた。何をするつもりだ。龍胆は、何かをまたぐように高く膝を持ち上げた。そしてまさかと思った次の瞬間、その足を鉄槌へと変えて、哀れな馬鹿づらの顔面を、思い切り踏みつけた。
ぐしゃ、という不快な音。複雑な構造物がひとたびに潰されたような音。目を背けたくなるような光景とともに、その音がやけに響いて聞こえた。
さらに、龍胆は顔面を踏みつけた。ぐしゃ、ぐしゃ、と繰り返し振り下ろされるその狂気を目の当たりにしながら、亮は声も挙動も失ってしまっていた。何の為にそこまで? あの日抱いたものと同じ疑問で心中を染め尽くされながら、狂気に歪んだ龍胆の笑みを、ただただ見ていることしか出来なかった。
ふと、亮は気づいた。腕の中の男が、もがくのをやめている。怒号を上げもせず、振り払おうともせず、ただ凶行を見上げるその胸中を満たすのは、亮と同様の疑問か、あるいは恐怖か。亮は両腕の縛めを解き、それでも動こうとしない男を残して、ゆっくりと立ち上がった。
「おいもういいだろ。やめろ」
一心不乱に凶行に耽る龍胆の肩を掴んで、亮は無理やり振り向かせた。鋭い目つきでこちらを見た龍胆は、目を逸らしざまに亮の腕を振り払った。そして、また踵を高く持ち上げた。「あっ」と声を上げ、亮は手を伸ばしたが、間に合わなかった。
またも打ちおろされる狂気。非合理で無慈悲な暴力が、馬鹿づらの股間を、踏み潰したのだ。
ぱちん、とはちきれたような音。耳を塞ぎたくなるような音のあと、馬鹿づらは何とも取れないうめき声を上げて、そして死に絶えたようにかくんと首を落とした。微かに残っていた意識が、いま踏み潰されたのだろうか。その股間から、じわりと赤い尿が漏れゆくのが見えた。龍胆は「汚い」とでもいうように眉を寄せ、靴の裏を何度もコンクリートにこすり付けた。
亮は、―爆発した。
「てめえ何してんだらぁあ!」
その怒りの理由は、よくわからない。馬鹿づらへの同情か、自分の制止を聞かなかったからなのか、人倫に反する行為への純粋な不許の感情か。とにかくも、胸中の底から噴火の如く湧き上がった怒りに突き動かされ、亮は叫びを上げ掴み掛かった。
龍胆は胸倉を掴みあげる亮の腕を拒絶するように振り払った。そして放たれた拳が、亮の頬を襲った。
「るせえ! 邪魔すんじゃねぇえ!」
不意を衝いた拳はまともに当たったが、怒りがダメージを否定する。よろめくのを堪え、すぐさま亮は拳を振り上げた。獣のような目と咆哮を向けるその顔面へ、怒り以外のすべてを忘れた拳を叩きつけてやろうと、振りかぶった。
しかし、それを春美に止められた。間に割って入ったのだ。
「はぁなせごらぁあ!」
太い腕が狂気に染まった二匹の獣を隔てる。亮は忘我の最中、自らを止めるそれが何なのかも認められぬままに怒り叫んだ。その目には龍胆しか映っていない、狂気の目は、狂気の目をしか捉えていない。威嚇する猫のように息を荒げ、太い腕を振り払おうともがきながら、二匹の獣は互いに牙を剥き合って暴れ狂った。
しかし、そのとき放たれた龍胆の咆哮の意味が、亮の目の色を一瞬にして戻した。
「かかって来いコラぁあ! オレぁテメエなんか怖くねえぞぉああ!」
そういう龍胆は、こちらをにらむことはせず、かたく目をつむり天を仰いでいた。まるで雨を求める祈り人のように、救いを乞う哀れな子羊のように。
「…なに言ってんだ」
亮ははたと脱力した。眉をひそめ、そう呟いた。何をいっているのか、その言葉の示すものが、わからなかった。
亮の脱力に気づいた春美は、なお暴れている龍胆を抑えようと両腕で掴み掛かった。そこではじめて春美の存在を胸中に許した亮は、ふと背後を振り向いた。さっきまで春美の相手をしていたはずの男は、コンクリートの上に転がって、背だけを起こしてこちらを向いていた。まるで腰を抜かしたかのように両足を投げ出す男の顔は、何かに慄いて、凍り付いているように見えた。
亮は龍胆を見た。春美の肩の向こうで、やはり天を仰ぎながら、何か言葉にもならない叫びを上げ続けている龍胆を、見た。
怖くない? 何故そんなことをいう? 何故、強がりのようなその叫びを上げる必要がある?
亮は沈思に半歩を踏み入り、視線を落とした。そのとき、春美の声があった。
「亮、どうしよう、どうにかしてくれ、」
首だけを振り向かせて、春美は泣き出しそうに表情を歪めた。さすがの龍胆も消耗しているのだろう。暴れるのは止めたようだが、いまだその目は狂気に染まっていて、隙あらば檻を破ってやろうと息を荒げている。
亮は春美の目を見てうなずいた。その目で、ちらと下を向いた。無惨に潰された馬鹿づらの姿は、何がしかの嫌悪感を催させ、暫時、眉間に深いしわを刻ませた。
亮は傍らにへたり込んだ男へと近寄った。すると、びくっと、男は後退りをした。亮はため息をつき、その場にしゃがんだ。そして怯えきった男の目を見つめた。
「もういいだろ。あんたらじゃ何回やっても勝てないよ」
そうは思っていなかったが、そういった。また同じ状況があったとして、どうなるかなどわかったものではない。しかし狂気に中てられた男はそれを正しく理解してはおらず、小刻みに何度もうなずいた。
「頼むから、こいつをこれ以上怒らせないでくれ。次に何かあったら、もうどうなるかわからないから」
亮は親指で後方を指した。男はやはり何度もうなずいた。
向こうの方でこちらを見ている男へ視線を投げかけると、やはり同様の反応があった。亮はもういちどため息をつき、静かに立ち上がった。
春美が助けを求めてこちらを向いている。亮はすれ違いざまにその肩に手を置き、そのまま押さえつけているしかない、と視線で語りかけた。その意を理解して、春美はまた泣き出しそうに表情を歪めた。
(…怖くない。もしそれが強がりなら、本当は怖いということなのか)
ならば何が怖いという。…まさか俺自身を? それとも、俺がもたらす思慮の瞬間を?
―顔を上げたそのとき、ふと龍胆と視線がかち合った。春美の腕の中で身を震わせながら、龍胆はほかの誰でもない亮をにらんでいた。いまだ興奮し、吐く息を荒げながら、まるで敵を見るような目をしていた。




