水の中から月を見る⑤
禍というものは本当に突然降ってくるものだ。というより、突然に訪れる面倒ごとを、人は禍と呼ぶのだろうか? などと、この局面に悠長なことを考えた自分を、亮は心中にて「馬鹿か」と叱りつけた。
裏街の旧い商店街。あえて人通りの少ない道を撰んで皆とデルフィへ向かっていたところ、敵の網に掛かってしまったのだ。
ちょうど丁字路に差し掛かり、右手に見覚えのある四人の男がいることに気づいたときには、もう遅かった。前方から三人、後を着けていた三人、合わせて十人のトヨコー生に、そのとき既に囲まれていたのである。
こちらは、龍胆、春美、伊藤、鍵原、鈴木タカヒロという春美の同級生、そして亮の六人。一点突破で逃げられなくもなかったのだが、間の悪いことに加えて夏深が同行していた。逃げることは出来ない、といってこちらから打って出るにはあまりにも状況が悪い。進退窮まった皆は、ある種の思考停止状態に陥ってしまっており、にやにやと嫌らしく笑う敵どもの動向を、歯を食いしばって注視することしか出来なくなっていた。
そんな中、亮はひとりそれを自覚したのだった。思考を停止させてしまっていたことを理解した。呆けていた頭を叩き、状況を把握しようと亮は辺りを見回し始めた。
三方向の敵手たちは、それぞれ十メートルほどの距離を保って道を塞いでいる。そして、皆が一様にへらへらと笑っている。ここはアーケードの中ほど。人目にもつかなければ人家も遠い。つまり外部からの何らかの介入は望み薄い。彼我の戦力は、十対六。倍ほどの差がある上に、山田がいないこちらはベストメンバーにない。採るべき道は、抗戦か、あるいは降伏か。しかし、後者のそれはまだ龍胆が同意していない。敵はどう出るか? その意図は、目的は?
心なし膝を低くし、目だけを動かして周囲を探り、得られた情報を以って全力で思考を働かせていたそのとき、敵手の一人が放り投げるような口調でものをいった。
「お待たせ、ボクたち。ゲームオーバーだよ❤」
三方向から、野卑な笑いが起こった。手を叩き、罵詈をはやし立てるその喧騒に中てられて、皆、少なからずの動揺を見せる。そんな中で、亮はひとり龍胆を振り向いた。
グループの顔は、亮の背後で沈黙し、伏し目がちに佇立していた。心なしか小さく口をひらいてはいるが、何かをいおうとはしていない。亮は前を向いた。龍胆が黙っているので、仕方なく応対に出た。時間を稼がなければならない。
「随分と沢山で、ご苦労様です」
からかうようではいけないし、謙ってもいけない。ほとんど棒読みで、亮はどうでもいいことをいった。
「逃がさないためでちゅよ。虫を採るには網を使わなきゃ」
応えたのは同じ男である。伴って、今度はせせら笑いがあちこちからこぼれた。
不快な対応だったが、亮はほとんど聞いていなかった。どくどくと鳴る心臓の音にだけ耳を傾けながら、どうするべきか、考えていたのである。
皆の胸の内は、先頃より降伏の側へ大きく傾いている。今もまたそうであるに違いない。しかし龍胆の賛同が得られておらず、行動の統一は図れない。それでは悪い結果を招きかねず、つまり下手な降伏などしないほうがいい。やはり、抗戦に出るしかない。十中八九、惨敗するだろうが、多少の怪我ならどうせ避けられぬことだろうと覚悟していた。悪ぶっているとはいえ所詮は制服を脱ぎ捨てられない「坊ちゃん」連中である、こちらが逃げ出さなければ、夏深に妙な手出しはしないと見てよい。いずれにせよ、今日この場で事を終わらせることが出来るのだと、そう考えよう。
いくつかだが、救いもある。
まずは、敵手がこちらをナメきっていることである。こちらを格下と見、さらに数の差もあるのだろう、油断するどころか、そもそも勝負をするといった気構えすら感じられない。もしかすると虚を衝くことが出来るかもしれない。
次に、連中の顔ぶれがどれも見覚えのあるものだということ。おそらくはこの数が連中の総力に近いのだろう。増援はないと考えられる。
そして、龍胆である。何も見ていないような顔をして、呆けたように口をあけて、一切の挙動なく立ち尽くしているその様子。それは、近ごろ見られる上の空にしている様子とはまた違うのである。
茫然自失としていて、現実から離れたところに身を置いているのではない。皆がまだ動揺している中にあって、早くも臨戦態勢に入っているのだ。深く、自らの血と骨の中を、狂気を拾い上げようと深く潜っているのである。それは乱闘を前にしたいつもの様子だった。まさに嵐の前の静けさなのである。劣勢にあっても、今までどおり存分に暴れてくれるだろう。
問題は、突然の襲撃に皆が動揺していることだった。折れかけている心を、戦の一字へ引き締めなければならない。加えて、このような状況も想定して作戦を行き渡らせてはいたのだが、それは逃げに主眼を置いたもの、だから新たな戦術を施さなければならない。
連中は口々に乱暴な声を浴びせかけ、恐怖を煽ろうと遊んでいる。亮はしかしそれを無視して、動揺する皆のことも今は放っておいて、口を噤み瞑目し、深く思考を潜った。…頭を使うのは自分の役目だ、この状況を招いたのも自分だ、考えろ!
「そこの小僧! お前がさ、こっち来るなら、ほかは逃がしてやってもいいかも知れない、かもしんないけど、どうする?」
亮は顔を上げた。潜水のあと水面でそうするように、大きく息を吸い込んだ。
口をきいたのはやはり同じ男である。ヘアバンドで長い髪をかき上げ、着くずしたシャツをやたらと低い位置のベルトに突っ込んだその男の口唇には、大きなピアスがつけられてあり、じゃらじゃらと何かがそこに引っ掛かっている。となりに立つ仲間の肩に凭れながら、その男が見ているのは、亮だった。おそらく、始めに街で亮に絡んできた二人組のどちらかである。
亮は棒読みのせりふを演じた。
「ええ、本当ですか。どうしようかな」
一瞬の間を空けて、連中に笑いが起こった。「迷うこたないぞ」「優しくしてあげるから」などと、指差し嘲笑う渦の真ん中で、そのとき、亮はゆっくりと下を向いた。そして、前に立つ春美の背に、連中から見えぬよう拳を突き当て、静かにささやいた。
「…振り向くなよ」
春美の挙動が止まった。同時に、皆の意識がこちらを振り向いた。亮のとなりに並ぶ鈴木が、状況の変化を気取って目だけでこちらを向いた。
「わかってるよな。もうやるしかないぞ。―だろう? 龍胆」
下を向き声音を殺しながら、亮は努めて強気な調子でささやいた。ほどなく、背後の龍胆が「…ああ」と血の水底よりか細い返事を寄越した。
息を呑む気配が、音として伝わってくるようだった。龍胆が決定を下した。どうすればいいのか、皆がてんでばらばらに向かせていた心構えが、それにより束ねられたのである。ひとつの決意を腹の底に据え、皆はその注意を一点へと傾けた。亮の言葉である。
「タカヒロ。三人で固まって、絶対に夏深から目を離すな。壁際で守りだけ考えろ。決して前に出ないこと」
亮は親指で後輩らを指した。三者は気取られぬよう小さくうなずいた。
「夏深は、一応シンヤたちをここへ呼んでくれ。安全が確信できたら、とにかく逃げろ。駅の方にだ」
間に合うかどうか望みは薄いが、グループの他のメンバーも御毛沼のどこかにいる可能性は高い。全員が揃えば、とりあえず人数では拮抗できる。
「春美は俺とタッグだ。付かず離れず、夏深たちにも気を向けてくれ。俺は龍胆を追う」
龍胆の次に数えられる戦力がこの二人である。だから遊撃を担い、状況に応じて適所の戦力を補強する。その際は、二人を一組と考え突出した戦力を保持した上で、一方は攻の要である龍胆に、他方は守へと気を置いておく。
「…龍胆は?」
春美が前を向いたままささやいた。
「必要ないよ。ただし―」
「ただし?」問うたのも春美だ。
「今しゃべったあの馬鹿づらが、多分リーダーだ。龍胆、あいつを狙え」
亮はひそかに右手を指差した。龍胆は何も応えなかった。あまりに静かなその様子に、不安を覚えたのだろうか。鈴木が不審の目で亮を振り向いた。その視線に、亮は無言の笑みで以って応えた。慣れぬ鈴木が心配になるのは無理もないが、亮は、そして皆は、龍胆については微塵の不安も抱いてはいない。
いま、龍胆は浮上を始めている。その身に狂気を宿し、今か今かとそのときを待っている。
爆発のときを、血の噴き出す瞬間を、衝動の開放を。
振り向きその顔を見ずとも、亮にはそれがわかっていた。背に、龍胆が発した熱波が感じられるような気すらしていた。
「いいか。第一の目的は、夏深を逃がすこと。次に勝つこと、その次が逃げることだ。夏深が無事に逃げた後は、撤退も頭に入れてくれ。そのときは三方向にだ。判断は俺がする。龍胆にも従ってもらうからな。―まずは、俺が突っ込む」
亮の決意に応えてうなずいたのち、皆はそれぞれに注意を手放した。怯えた様子を装いながら、行動の機を逃すまいと、敵に隠した拳を固く握り締めた。
そのとき、背後から亮の腕に何かが触れた。振り返ると、龍胆のとなりの夏深が、何かいいたげな顔をして亮のTシャツの裾を摘んでいた。
何だ、と視線で問う。夏深はちょっと口をひらいたが、何もいわないまま目を伏せ、手を放した。気には掛かったが、もう戦術に変更の幅はない。亮もまた何もいわず前を向いた。
意を決し、作戦を頭に叩き込み、目的に向けて集中し始めた百戦錬磨の仲間たちは、動揺していたつい先ほどまでと比べて、これほど頼もしいものはない。ひとまずの役目を終え、肩の荷を下ろした亮の心中を、それもあってそのとき弛緩がつけこんだ。それは、たちまちに恐怖へと姿を変えていった。
鼓動の音が、急に一段と高くなったような気がする。心臓を、冷たい手をした何かに掴まれている。呼吸が細く、苦しくなり、背筋を凍りついた滴が落ちていく。口元を震わせ、自らの身を掴み、泣き出しそうに眉を寄せ、亮は深くうつむいた。勝てるわけがない、迫り来る暴力が恐ろしくてたまらない、ただの高校生であるはずの連中の姿が、プロレスラーのようにも見えてくる。
(くそっ!)
そこで、亮は固く目を閉じた。チャンネルを変える必要。恐怖の冷たい刃を背筋に感じながら、亮は我が身に爪を立て、強く口唇を噛んだ。
心の暗闇に、白く澄んだ真円を描く。そこに、一滴の雫を垂らす。
血の赤は水に溶けるようにゆっくりと滲んで行き、伴って、喉の奥に伝わる心臓の音の意味が、ゆっくりと変わっていった。どくどくと、まるで迫り来るようだった鼓動の音色は、湧き上がろうとする何かのそれへと変わっていき、一滴の血はやがて真紅を染めあげる。チャンネルは変わった、明晰から狂気へと。あの日、夜空から掴み落とした狂気へと、狂喜へと。
怖くとも、もうやるしかない。闘うために、勝つために、克つために。何のために? そんなことは知るか、あの「父」に比べれば、連中がどれほどの敵か!…
震えが止まり、亮は顔を上げた。一瞬の止水の表情のあと、努めて朗らかに笑い、リーダー格のいる右手ではなく前方を向いた。そしてはじめて声音に色をつけ、高らかな声をあげた。
「そうそう、渡したいものがあったんですよ。そっちへ行っていいですか?」
「なんだよ?」
やはり嘲笑いつつ、間断なく反応したのはリーダー格の男である。亮はそちらを振り向き、また朗らかに微笑みかけた。そして前方を指差し、行って良いか?と媚びるように首を傾けた。
一歩を踏み出すとき、亮は春美の肩に手を置いた。
前方の雑魚どもは、嘲笑いつつ首をかしげている。何をするつもりなのか。そこに一縷の不安も抱いていない様子で、人懐っこく笑いかける亮を待とうとしている。
あと八歩、七歩、六歩。
五歩のところでポケットから手を出し、顔を上げたとき、亮は演技をやめた。朗らかな笑みを引き剥がし、狂気のそれへと瞬時に塗り替えた。
駆けた。前のめりに駆け出した。暴風の勢いに乗って、亮は跳躍した。
雑魚どもは慌てて身構えたが、間に合うはずもない。亮の全体重と疾駆のエネルギーを乗せた飛び蹴りは、真ん中の男の顔面へと突き刺さった。
亮はすぐさま立ち上がった。そして傍らに倒れた男の顔面をさらに踏みつけた。踏みつけると止まることなく走り抜け、敵を背にして立ち止まった。
何かが込み上げてくる。たぎる、漲る、湧き上がる、燃え上がる! 地から足へ、腹の底から脳髄へと、全身を何かが貫き、興奮が満ち満ちてくる!
亮は背後へ振り返った。困惑する雑魚どもを満面の笑みのままにらみつけ、そして、全身の興奮を噴き出させるがごとく、爆ぜるような奇声をあげた。
「かァぁあああっ!」




