水の中から月を見る④
思惟の森を脱し、亮は閉じていた目をあけた。
春美が、吸い終えた〈陽のあたる場所〉を苛立たしげに灰皿に押し付けていた。
拳を突き上げて伸びをし、亮はソファを立ち上がった。
「ムリだよ。やめとけ」
春美がこちらを見上げ、吐き捨てるようにいった。龍胆の後を追おうとしている、と解釈したのだろう。
「いや、もう帰るよ。また連絡する」
ここに座っていても、もう進展はない。何かを考えるにしてもそれなら一人の方がいい。別れを告げ、出入り口へ向かおうしていると、となりの席に座っていた山田がものいわず立ち上がった。作戦を忠実に守り、同行しようというのだろう。亮は座るようにと手のひらをかざした。
「いいよ。お前の帰りが危ない」
「でも亮さんは」
「大丈夫、走って行くから。南口からこそーっと帰る」
冗談めかしてそういうと、山田は無骨な表情を崩して笑った。後輩らの挨拶に手を挙げて答え、亮は重い防音扉を開けた。
店内の重い沈黙に代わり、身にまとわりつくような湿気が亮を迎える。夜も更け日射の名残はいくらか遠ざかったはずであるのに、ゆるい風に涼しさは少しも感じられない。この店の裏口には照明のひとつもなく、そのためただの闇としか目に映らない階段を、大きな音を立てて下りながら、亮は、早くも背筋に汗が滲んでいく不快を感じていた。
路地から表へ出て、駅の方向へ少し進んだところに、自動販売機がいくつも並んだコインパーキングがある。冷を求めた亮は、立ち止まり財布を取り出した。缶の落ちる音は眠りの街に重く響いた。その場で喉を潤していると、ふと、デルフィの方角から階段を下りる音が聞こえてくる。かんかんと、忙しない音を立てているのは、誰だろうか。忘れ物でもしたか、などと考えた。缶を傾けつつ来た道を眺めていると、夜の奥から、小走りにこちらへ駆け寄るものがあった。夏深だった。
「どうした?」
急ぎ足で駆け寄った夏深は、亮の眼前で立ち止まるとはすを向いた。こちらを見てはいないが、自分に用があるのだろう。しかし問うてはみたが夏深は応えず、照れ笑うこともせず口を固く結んで、やはりあらぬ方向を向いたままだった。
何か飲むか、と亮は問うた。「ミルクティー」という現金な即答があった。缶を放っても、夏深は何もいわないままだった。
「何だよ。歩きながらってわけにはいかないぞ。俺は走るから」
亮が半ば本気の冗談を投げると、そこではじめて夏深はこちらを向いた。真っ直ぐに向けられた視線からは、どこかしらの怒りが感じられた。普通なら戸惑うところだが、この女の怒りにはもう慣れっこだ。亮は冗談をいった表情のままで、続く言葉を待った。
「あんたのせいだよ」
夏深は小さく呟いた。そして直後に、弾けるように叫んだ。
「あんたのせいなんだからね!」
口に出したことで、今まで躊躇っていたものが開放されたのだろうか。夏深は眉間に似合わないしわを寄せ、口唇を噛んで怒りの表情を露にした。この女の癇癪には慣れたつもりだったのだが、怒りに触れた亮は、こちらをにらむその視線にくじけてしまい、下を向いた。笑みに薄くひらいていた口唇も、すごすごと閉じた。
そうなのである。この一ヶ月以上に渡る不毛な争い、その原因は辿れば亮にあるのだ。故意はなかったとはいえ、それはいい逃れようのない事実だった。
龍胆たちは、今に至るまで一度も亮の責任を追及するようなことはいわなかった。真っ直ぐな少年たちにはそんな発想の生まれようがなかったのか、はたまた、過去を指し人の咎をいいたてることを潔しとしなかったのか。どちらにしろ、夏深には関係がない。その言葉はうすうす覚悟はしていたものだったのだが、常々責任の程を感じていた亮の平静を、無残にへし折った。
「ああ、わかってるよ。俺の所為だ」亮は顔を上げた。
「だから解決して見せるから。また楽しく遊べるように」
「そうじゃない」
意気消沈し差し出した誠意に、夏深は大きく首を振って応えた。ならば何の話だ? 拍子抜けした亮の脳裏に、直近の過去がいくつか思い起こされたが、身に覚えはない。
疑問の面に解答を与えようとはせず、夏深は変わらず黙っていた。と思うと、あるとき下を向いた。ためらいがあるのだろうか、そのまま、しばし逡巡のときが流れた。
「あいつのこと。おかしくなったの、ぜんぶあんたのせいなんだから!」
下を向いたまま口をひらいた夏深は、やがて顔を上げ、怒りに任せ語調を強めた。口を尖らせ、頬を赤らめたその表情からは、怒りだけではない何かが同時に感じられた。おそらく恥辱である。他でもない龍胆についてを、よりにもよって亮に告白しなければならない状況を、信徒としての誇りが耐えかねているのだろう。しかし、ためらいの理由は理解できたが、亮は、肝心のその言葉の意味がわからなかった。
丸い頬を膨らませ、激情を露にする夏深と対照的に、亮は、頬を緩め失笑した。たじろいだのではなく、引きつったのでもなく、本当におかしかったのだ。
「何だよそりゃ。俺は何もしてないぞ。だいたい、あいつが誰かの所為で変わるようなタマか?」
察するに、夏深も亮と同様にずっと以前から龍胆の変化に気づいていたのだろう。「恋人のような」関係なのだから、思えば当然のことである。そしてその関係は、亮の言葉が指す意味を、当然のこと理解していることを、同時に証明しているはずなのだ。
しかし、夏深は亮の反論をすかさずはねのけた。
「あたしだってわかんないよ! でも、全部あんたが来てからなんだもん!」
その姿と叫びが、緩んでいた亮の頬と心を叩いた。うつむき、歯を食いしばるその姿から、それが勘違いやこじつけではないらしいことが否応もなく伝わったからだ。
しかしそうだとしても、亮は納得は出来なかった。自分は龍胆に何かをしたのか? 夏深がこんなに嘆くほどの変化を、自分が及ぼしたのか? 何故だ?
「全部って、何かあったのか」
亮は問うた。夏深は下を向いたまま答えた。
特に何かがあったわけではないという。ただ、二人で居る時間が減ったとか、会ってくれなくなったとか、会ったとしてもどこか上の空にしていて、話を聞いてくれないことが増えたとか、その程度のことらしい。
亮も知るように、そんな傾向は以前からあった。だが、亮が来てからはそれが段々と極端になっていったと夏深は嘆く。二人で居ても全然楽しそうじゃない、一人になりたいといって、ぷらっと突然帰ってしまう、どんなに掛けても電話が繋がらない、明るく話し掛けても「うるさい」といいたげに顔を背けられてしまう。そして、亮と会っていたあとなどに、その傾向は最も顕著だという。
うつむき、決してこちらを見ずに静かに語った夏深の両手は、地団太を踏む子供のようにずっと固く握られていた。その身は打ち震えてはいなかったが、それは冷静に努めているという健気さよりも、むしろ体内に留められ湛えられている怒りの大きさを思わせた。これまで龍胆は「龍胆」であり続けていたのに、ひょっこり現れた亮が、自分を差し置いて、変えてしまった。それが悔しく、また情けないのだろう。販売機の明かりで、耳まで赤くなっているのがわかった。
夏深が述べた龍胆の変化、それは亮が気づいていたそれと性質を同じくするものだった。不機嫌にしてていたり、上の空になっていたりすることが増えたということ。
だが、それが亮のせいだとは限らないではないか。
「何か言っているのか、俺のこと」
夏深は首を振った。
「じゃあたまたまだろう。時期が重なっただけだ。俺は関係ないって」
夏深はまた首を振った。今度は真っ直ぐに亮の目を見て、迷いなく。
夏深の視線は確信の色を帯びていて、亮は更なる反論を失ってしまった。他ならぬ彼女が懸命に主張するその眼差しに応え、さしたる根拠もなく異を唱えることは、もう出来なかった。
一体どういうことなのだろう。刹那、亮は思惟の穴を潜る。
自分こそが、龍胆の思慮の瞬間を増やしているのだろうか。それは、自分がその切っ掛け、刺激になっているからなのだろうか。それとも、自分のこの存在自体が、憂慮すべき懸案になっているのだろうか。いずれにしろ、ならばそれは何故なのか? わからない。そもそも、理解というものより最も遠いところに立っている龍胆の心中を探ることなど、出来ようはずもない。
しかし、と亮は顔を上げた。自分自身のことは辛うじてわかるではないか。
亮自身も、これまで同世代の人間に影響を及ぼされたことはなかった。少なくともその自覚はない。ところがあの日、亮は龍胆を知り、その暴風の如き生き様に心を動かされてしまった。二度も惨敗を喫した相手を、どういうわけか知りたいと望み、そして夜へ身を投じることとなった。それを影響と呼ばず何であろう。
ひょっとすると、龍胆もそうなのだろうか? 亮が抱く、不可解な親愛、奇妙なシンパシー。それと同じものを、やはり龍胆も抱いているのだろうか?
「考え続けていた亮」と、
「暴れ続けていた龍胆」。
背中合わせの二人は、最も遠い距離を向かい合っていながら、同時に、最も身近な存在でもあるのである。夜へ没入し、亮がわずかながらも龍胆へ近づいたように、龍胆もまた、こちらへ歩み寄ろうとしているのかもしれない。
しかし、
「どうすればいいんだ? 俺は」
理由を知ったからといって、いや知ったからこそ、亮にはどうすることも出来ない。龍胆を変えるなという願いに、自分自身の存在が反するのならば、何をするわけにもいかないのである。
夏深は瞳を逸らし、亮の問いから顔を背けた。口を尖らせて、すねたような顔になって黙りこくってしまった。それは解答のない困惑ではないのだろう。どうすればいいか、それはわかっているが、まさか口にするわけにもいかず、窮しているのである。「もう来るな」、「二度と会ってくれるな」。亮とて、それをいわれたところで応えるわけにはいかなかった。
何をどうすることも出来ないと知りつつ、それでも亮を非難することを禁じえなかった夏深の心情は想像に難くない。少しの申し訳なさを覚えた亮は、それがためにかえって気休めの言葉を持たず、待っても返答などないことはわかっていたが、黙って立ち尽くしているより他なかった。
突如、夏深が駆け出した。脇をすり抜けて、まるで逃げるように駆けていくその姿を、亮は振り向き眺めたまま、追おうとはしなかった。見つめているうちに、後姿は道を折れ、やがて足音も聞こえなくなった。
いたたまれなくなったのだろうか。立ち尽くすばかりだった亮と同様に。
無責任に逃げ去られてしまったわけだが、亮はそれを責める感情は覚えず、逆に、このときばかりは夏深の子供の所業に感謝していた。彼女がそうしなければ、自分がそうしたかもしれないと思った。
残りのジュースを飲み干し、亮は備え付けのくず入れに放り込んだ。プラスチックの腹の中、空き缶は大きな音を立てて舞い踊った。ため息をつき、亮は駅へ向かおうと振り返った。
もう帰ろうと、歩み始めたはずである。しかし、アスファルトに立つ足は続く一歩を踏もうとせず、亮はその場にて立ちどまった。
うつむき、考えていたのである。
龍胆もまた亮に影響されて、何かを考え始めている。それが本当だとして、なら、いったい何を思い悩んでいるのだろうか? 亮に変化を気取らせ、夏深を哀しませるほどに向き合わざるを得なくなっている問題とは、いったい何なのだろうか?
ひょっとすると、それもまた自分のものと似た何かなのだろうか。亮は考えていた。「父という存在」、「自分という存在」、「自由のこたえ」―




