水の中から月を見る③
もうすぐ夏休みだというのに店内に浮かれた空気はなく、みな一様に押し黙っている。
春美はソファに深くもたれ、暗い天井を見上げてため息をこぼさぬよう努めていた。となりの夏深は口を曲げていらいらと髪の先をいじりながら、机の足を繰り返し爪先で小突いている。それらを一瞥して、もういちど亮は出入り口を向き、下を向いた。後輩らもそれぞれが所在なくソファに取り残されているのだろう。龍胆が、たったいま店を飛び出していったのだ。
怒ってそうしたのではなさそうだった。怒れば黙って手を出すのが龍胆である。ただこの場にいたたまれなくなって、手が出る前に自らそれを回避したのだろう。そんな龍胆にどう接すればいいのか、亮だけではなく皆もよくわからないようで、その後を追おうとする者はいなかった。
試験の結果は良好だった。むろん以前のように学年二位とまでは行かなかったが、一時期の落ち込みからすれば相当に持ち直して見せた。夜遊びを覚えて成績ががた落ちになる、そんなステレオタイプな少年像に自らが合致してしまうことが、亮は許せなかったのである。遅れを取り戻すのには難儀したが、それに報いる結果を得られて亮はひそかに満足していた。その努力は、父に攻撃の理由を与えないための努力でもあったのである。
ひとまずの山を乗り越えて、迎えようとしているのは夏休みという開放である。しかし亮の心のうちはあまり晴れやかではなかった。憂慮すべき問題が、父とのそれを別にしても、山積されていたのである。その中心にあるのが、例の豊雲高校の連中との諍いだった。
あの日亮たちは難なく鍵原を助け出すことが出来た。相手は中学生だと甘く見てくれたのか、連中はたいした人数を集めていなかったのである。数で互角以上にあれば、高校生が相手とはいえ、龍胆と春美を擁するこちらに勝ち目がないわけではない。むろんいつものように楽勝とはいかなかったが、何とか打ち負かして捕らえられていた鍵原を奪還したのである。しかしその結果が、かえって連中の闘争心をかきたててしまったのだった。
いかに「坊ちゃん学校の悪ぶった」連中といえど、中学生に負かされて何もしないでいては名が廃るというものである。亮たちも連中の報復を念頭において一応の警戒は行っていたのだが、まさか街なかをこそこそと逃げ隠れるようなまねはしていなかった。そんなとき、二人で街を歩いていた春美と京谷が、豊雲高校の制服を着た連中に突如として襲われたのだ。
京谷がいうには「バカがでかい図体してやがるから目立ったんだ」とのことだが、おそらくその通りなのだろう。三、四人の高校生に背後から捕らえられ、路地裏へと引きずり込まれ、あわやというそのとき、春美がその巨体で囲みをこじ開けて、その隙をついて京谷は逃げ出したらしい。その後ほどなくして、まったくの無傷ではなかったがどうにか春美も逃げおおせて、デルフィへと駆け込んだ。そこへ、亮は龍胆と連れ立って入店した。そして、終わったはずの問題が息を吹き返したことを知ったのだった。
それでも、当初はそれほど深刻には捉えていなかった。いちど勝利した相手とあって、慢心もあったのかもしれない。しかし、それから数日のあいだに同様の事件が相次ぎ、一同はようやく事の重大さを理解するに至った。連中は多人数で「狩り」を始め、自分たちはその標的にされているのだと。
ならば御毛沼の街をうろつかなければいい。それは最も効果的な対応策であったが、少年にはそんな屈辱は受け入れがたい。けっきょくそうしたのは京谷のみで、亮たちは別の対応を打って出た。
まず、街を歩く際は必ず三人一組で行動すること。二人では万一のときに危険であるし、四人以上では目立ってしまうからだ。そしてその三人の内に、龍胆か春美、そして亮のうちの誰かを含むこと。制服を着た人間はすべからく警戒の対象とし、相手が一人か二人ならこちらから攻撃を仕掛ける。三人なら様子を見、それ以上なら何をおいても逃走する。その際には、連中に知られる恐れのないデルフィを目的地とすること。おおよその逃走ルートも周知させておいた。
主に亮が中心となって立案したその作戦に従い、少年らはなるべく普段どおりの行動に努めた。その頃はまだ皆の心にはさわやかな闘争心がみなぎっており、どこかゲームを楽しんでいるような雰囲気があった。しかし一週間、二週間と時を経て、何度かの小競り合いと幾度もの逃走を重ねるうちに、誰も口に出すことはしなかったが、皆の心には明らかな厭戦感情か芽生え始めていた。
そもそも、仲間と遊び楽しむために街へ出てくるのである。それなのに毎夜の如く緊張を強いられ危険な目に遭っていたのではたまらない。さらに、対応策を講じた当初は重大な反撃を食らわすこともあったのだが、この頃にはこちらの作戦も相手に気取られてしまっており、連中は少ない人数では決して出歩かなくなっていた。戦力に余裕のないこちらとしては更なる作戦を講じることも出来ず、いつからか逃げ回ることしか出来なくなっていたのだ。こちらにさしたる被害がなかったことからすればそれでも善戦しているといえなくもなかったが、このままではいつか疲れ果てて惨敗してしまうに違いなかった。どのように考えても、よい結果となる終戦への方途が見出せなかったのである。
そこで、開戦より約一ヶ月となる先頃になって、亮は皆の心境を汲んで調停のための策を考え始めた。だがそれにおいてさえも良き方途は見当たらず、結局は、連中のリーダー格のところへ直接出向いて頭を下げるしかない、という結論に至らざるを得なかった。その際、惨めな謝罪か大量の金銭か大怪我、もしくはそのすべてを必要とされることは目に見えていたが、すっぱりと解決へ導くためにはそうするより他はなく思えた。まさか街を出て行くわけにはいかなかったのだ。愛着もあれば、意地もある。龍胆を除いた皆にその最期策を話してみたところ、むろん消極的なものであったが満場の同意を得ることが出来た。
考えるのは亮の役割でも、決定を下すのは龍胆である。そこでこの一週間前、亮は龍胆に先の案を話し決断を求めた。しかし龍胆は決して首を縦に振ろうとはしなかった。それは意地の故なのか、屈辱を受け入れ難しとする誇りのためなのか、それはわからなかったが、龍胆はそれから幾度も続いた説得にもかかわらず、決して皆の意に沿おうとはしなかった
彼とて、逼迫した状況を理解していたはずなのである。しかし、ならばどうするかと問うても何も答えようとせず、かといって、闘い続けようと戦意を鼓舞することもせず、つまり何も語ろうとしなかったのである。龍胆は、どの説得の場面においてもただ一様に押し黙り、不機嫌な様を見せるのみだった。
退くも進むも、龍胆抜きにはどうしようもない。しかし、当の本人は一向に意を決しようとせず、そればかりか、近頃は理由のわからない不機嫌な様を見せていることが増して多くなってきている。ただでさえ厭戦ムードに侵されていた皆の心持ちは、更なる悪条件を引き入れて、もはやいかんともしがたい倦怠に蔓延されてしまっていた。
そんな中、再度の説得を試みたのである。しかしやはり良好な結果は得られず、ついには龍胆に出て行かれてしまった。どん詰まりの状況にあることをまざまざと自覚させられた皆の心境は、緩慢ではあるもののそれだけにかえって性質の悪い、絶望といっていい状態にまで落ち込んでしまっていた。もはや嘆息の声を発する者もないほどに、店内は重苦しい空気に圧されていた。
「さて、どうするかなぁ」
あるとき、ため息混じりに亮は呟いた。独り言に反応して、くわえタバコに火を点けようとしていた春美が手を止めて振り向いた。
七星は三階にあるらしい自室へと戻っており、ついでにいえばエム男の姿もない。春美のとなりに座る夏深、そしてパーティションの向こうに座る後輩らは亮の独り言に何の反応も見せず、店内は重い沈黙に満たされている。
かちっと、ライターの音がやけに大きく響いた。春美の吐き出す〈陽のあたる場所〉の煙が、眼にしみるほどにあたりを充満したが、亮はそれを振り払う気にもならなかった。
「とにかく、向こうのアタマが誰なのかは調べとかなきゃな」
春美が灰を落としながらそういった。
「でも、別にチームじゃないんだから、誰がリーダーってこともないんだろう?」
「それだよ」春美は手に持ったタバコでこちらを指した。
「知り合いにチーム組んでる奴なんかがいて、話しまわされたりしたら、もう最悪だ。ほんとどうすっかなぁ」
足の指をぶつけたときのような、痛痒に歪んだ顔をして、春美はひときわ大きく煙を吐いた。亮もまたため息をつき、充満する空気をより重くした。
たったいま出て行った龍胆については、双方が努めて触れようとしない。他の問題とは違い、話し合ったところで仕方がないからである。だが話題を変えてはみたもののそれが懸案であることは変わらず、二人の言葉はそれ以上続かなかった。
亮は、龍胆のことを考えた。近頃の、その不機嫌な様子についてである。
春美らは近頃になって認識したようだが、実は、亮はもっと以前から様子の変化に気づいていた。降伏しようと話を持ちかける以前、一ヶ月以上前の開戦の頃より、龍胆はどこかおかしかったのである。
皆がまだゲームを楽しんでいた頃、しかし龍胆からはそんな心持ちが感じられなかった。皆が、亮の話す作戦に目を輝かせながら耳を傾けていたり、当日の戦果をはしゃぎながら報告していたりしたとき、龍胆だけは輪に加わろうとしていなかった。黙ってふさぎ込んでいたり、あらぬ方向を向いて何かを考えていたり。そんな様子にひとり気づいた亮は、ひょっとすると龍胆は戦いに際しあまり気乗りしていないのではないかと想像していた。しかし後日になって、例の提案を蹴られて、その想像が外れていたことを知った。豊雲高校の連中との一件は、不機嫌を助長させてはいるかもしれないが、おそらく、原因そのものではなかったのである。
ではその原因とは何なのか。春美らは、考えても仕方がない、どうせいつもの気まぐれだと笑うだろうが、亮はそう思ってはいなかった。
そもそも、龍胆という人物に対する認識において、春美らと亮の間には微妙な違いがある。短気で、無鉄砲で、無分別で、思慮浅く衝動によってのみ行動する、傍若無人な少年。おそらく皆の心中にある龍胆像はそのようなものだろう。亮もそれについては異論はない。違うのは、龍胆は元もとそういう人間なのだとは考えていない点だった。亮は、龍胆はあえてそのような振る舞いを撰びとっているのではないだろうかと、そう考えているのである。
衝動によって行動を撰んでいることは間違いない。だが、何の作為もなく自然にそうしているのと、ある決意の上であえてそのようにしているのとでは意味がまったく違う。龍胆は生来から思慮の浅い人間なのではなく、ただ思慮が深きへ傾くのを避けているだけなのではないだろうか。何かを深く考えること、内省や、洞察や、類推や、演繹。そのような精神の作業を、あえて放棄しているのではないだろうか。そしてその決意のゆえに、衝動に身を委ねているのではないだろうか。そんな想像を導く根拠は、これまでに見た龍胆の振る舞いの端々に、何となくではあるものの見て取れたのである。
龍胆には、他人の存在をも忘れているかのような茫然の瞬間がある。二人で話しているときにも、ふとした拍子に、何も見ていない、何も聞いていないような顔になって、まるで自らの胸の内にじっと注意を傾けているかのような一瞬がある。そして暴れているときにすら、ふとその手を止めてまったくの無為に至る瞬間がある。激しい乱闘の最中、握った拳を解いて、ただ上の空になって佇立しているのだ。
そんなときの龍胆は、何かを考えているのではないだろうか。避けているはずの精神の作業が、その心に起こっているのではないだろうか。時計の針の頂点が、ただの一秒で午前と午後を分かつように、衝動を突き進んだ果てに、ふと思慮の領域へ足を踏み入れてしまっているのではないだろうか。
亮は考えている。しかしそれは何となくの想像であり、確信を得られてはいない。春美らを差し置いて、自分が龍胆の何を知っているつもりなのだという遠慮もそれを妨げている。案外、彼らのいうように、龍胆はもっと単純に生きているのだという見解の方が正しいのかもしれないのである。
だが、その想像を戴くことで、龍胆の近頃の様子の変化を説明できてしまうことも確かだった。龍胆が不機嫌にしているとき、それはすなわち彼が何かを深く考えているときで、つまりこの一ヶ月間、龍胆は、衝動に逃げることも能わないほどの憂慮すべき懸案に、亮や春美らの知らないところで直面させられていたのだ、と。
ならばその懸案とは何なのだろう。むろん亮が知る由もないし、想像も適わない。そもそも、何故龍胆は深く考えることを避け、衝動に身を委ねることを撰び続けていたのか? まったくわからない。想像は、その背後に更なる謎を孕んでおり、どんなに考えようが想像であるところの位置を動くことは出来なかった。要するに、乏しい根拠に基づいた、単なる直感なのである。




