水の中から月を見る②
亮は、暗闇を見上げながら呟いた。
「あんただよ」
「あんたが気に入らないんだ」
コンクリートに寝転び、ビル群に四角く切り取られた夜空を見上げながら、父の前ではいうことのなかったその言葉を呟いた。
街の風が少しの音を立てている。屋上の片隅で、ゴミか何かがかさかさと転がる音が鳴った。亮は変わらず空を見上げながら、少ない星が雲に逃げ隠れするさまを見ていた。呟いた言葉を呑み込んで、夜は恐ろしく静かだった。
あの日、龍胆がハーモニカを吹いていたこの場所で、亮はもう何時間も大の字に寝転がっている。考える場所にここを撰んだのは、別に特別な思い入れがあったからではない。街をさまよっていては思惟への刺激があまりにも多く、結果、考えがまとまらないからだ。現在の亮に、そんな悠長なことをしている余裕などないのだ。自分はいったい何者なのか、どこへ行くのか、何を求めるのか。自由とは何なのか。そして、父への抵抗。もろもろの懸案に際し、より深くを考え何らかの行動を撰びゆくこと、つまり自らが送るこの日常は、もはや壮絶な「闘い」の日々であるのだと、亮は捉え始めていたのである。
父との口論は日常となりつつあった。無論、その論題は亮の生活についてである。毎日のことではなくなったとはいえ亮が龍胆らと遊んでいることに変わりはないし、一人で過ごしたとしてもすぐに家へ帰るようなことはない。終電近く、日付が変わってからの帰宅も珍しくなくなっている。父と顔を合わすことは相変わらず少ないが、そのときには決まって激しい口論を交わすのが常となっていた。
激しい口論、とはいえ、声や身振りを荒げることがあるのは亮の一方のみである。父はいつも静かに語り、一切の揺るぎなく亮を真っ直ぐに見つめていた。それに対して、亮は、以前のように取り乱すことは少なくなっている。無闇に反発のための反発を振りかざすことや、目を逸らしてしまうようなことも一応は減った。どのような変化があってそうなったのか、自身で理解してはいなかったが、「闘い」は以前のそれのように無様なものではなくなっていた。
だが、口論の終わりはいつも亮がその場から逃げ出すことによって訪れるのである。勝ち負けでいえば、敗北以外のなにものでもないのだ。だから亮は、いくらかましになったはずのその闘いざまに関してでも、何ほどの満足も感じていなかった。
しかし、そもそもこの「闘い」における勝利とはいったい何なのだろうか? 実はそれがよくわからない。
収入や腕力、知能などにおいて上回ること。そんな類のものではないことはわかっている。では、何において勝ることが、すなわち父への勝利となるのだろうか? 口論で打ち負かせばいいのか? 父の「力」に圧倒されなくなればいいのか?
(わからない。いや、どれも違う気がする)
ならば、父より強くなればいいのだろうか。
しかめ面で夜をにらみつける亮の念頭に、そんな考えが浮かんだ。
目に見えたり数値で表せたりするものではないが、確かに人が人に感じるところの、強さ。それが何なのか、何に理由を持ち、何を根拠とするものなのかはわからないが、その「強さ」において上回ることが出来れば、それが勝利となるのかも知れない。そんな気がする。
心の強さ? 人としての器? 信じるもの、守るべきもの、心の柱。有体にいえば、人間としての大きさ。それを得られれば、父を許すことが出来るのだろうか―
(―ゆるす?)
徒然に心に現れたその言葉に違和感を覚え、亮は思惟の森を立ち止まった。許すとはどういうことなのか? 亮は立ち止まった脇に見えた道へと折れ、より深く、暗い森の中を突き進んだ。
(許す。俺はあいつを、許したいのか?)
(それが目的なのか? それが勝利なんだろうか)
(でも、今の俺は負けてるんだ。それが何で偉そうに、許すなんて考える)
(大体、何を許すんだ?)
(言動を、関係を? それとも、存在を)
(そもそも許すって何なんだ)
(…認めること、受け入れること? それでいいって、思えること)
(それが何で勝利なんだ。相手を許すための闘いなんてあるのか?)
(じゃあ俺のこの闘志はどうなる、この怒りは何なんだ!)
(俺は何と闘っているんだ…!)
森の木々に遮られ、決して見えはしない空に向かって亮が叫びをあげたそのとき、夜の街に一段と強い風が吹いた。まるで身を叩かれたように感じた亮は、はっと、いま目覚めたかのように目をあけた。
さっきまで見上げていた二等星が、いつの間にか雲間に隠れてしまっている。さっきまでそんなことはなかったのに、コンクリートに密着する背がまるで寝汗を掻いたように不快な湿りを帯びていた。かさかさと、風の名残を享受するごみくずだけが音を立てている暗闇の静寂の中、「こたえ」の姿はどこにもなかった。
亮は背を起こし胡坐をかいた。ごみくずがどこにあるのか探してみたが、判然としないままやがて音は絶えてしまった。より深い静寂に、やるかたなく下を向いた。胸中をざわめく不安を誤魔化そうと大きく息を吐いてみたが、胸腔にこびりつくざらついた不快は、毛ほどにも晴れやしなかった。
亮は、今もまた気づいてしまっていた。そして、これまで何度となく念頭に及んだその考えを、今もまた、決して見ないようにして押し隠してしまっていた。やはり自分は、自分自身と闘っているのではないかという、その危惧を。
亮はそれを認めたくないのである。仮定としてでも考えたくないのだ。もしそれが事実であれば、この「闘い」が、父を前に一人ばたばたと醜くあがいているだけの、滑稽な演舞へと成り下がってしまうからだ。それは絶対に嫌だからだ。
しかし、見ないようにするという行為は、その対象を認識した上での行動なのだから、結局は見ていることと同じである。亮は胡坐をかき下を向いて、まったくの自失を装いながら、そのじつ心中で、あるひとつの「こたえ」を、見ないように見ていた。
「父を許すということ。それは、父を許す自分を、許すということ」
亮はそれを否認する。何も聞いていないような顔をしながら、そうではないと、むなしい強がりをいい放つ。しかしその言葉は、そもそも何に向き合うこともなく放たれたものでしかない。何を吹き飛ばすこともなく強がりは闇夜を飛んで行き、見たくない「こたえ」は変わらず背後にそびえていた。ただ苛立ちのみが、隠しようもなく増していった。
喉を潤そうと、亮は買っておいた缶ジュースに手を伸ばした。しかし暗闇に手元が定まらず、伸ばした手はただ空虚を掴むのみだった。苛立った亮は、あるとき爆発して、握った拳を闇雲に振り回した。冷たい感触とともに缶の倒れる音がして、とくとくと、液体が夜と絡まって零れ落ちていった。




