こんなにもリアル③
もうずいぶんと歩いた。駅の乗り口も背に遠い。
少しの汗は掻いているが、疲れてはいない。亮はブレザーのボタンを外しカッターシャツの裾をはだけ、湿ったTシャツに薫風を吸わせた。蒸れた湿気はまたたく間に晴れていった。
通りを外れ、亮は車道に沿う歩道の上にいた。その頭上を、やはり車道に沿って、コンクリートの柱に支えられた高速道路が通っている。せわしなく行き来するエンジン音は絶えないが、人の吐く息は大分すくない。高架の下にあって薄暗いためか、耳を突く雑音は激しいはずなのに、心のうちは静かになっていた。たぎる憤懣も湧き上がる苛立ちも排気ガス混じりの風に揮発していき、それは静かな思慮の香りとなってさまよう亮を包んでいた。
「―なんで、誰もおかしいと思わないんだ」
ただしその香りに、甘みや爽やかさなどはない。人がそれを嗅ぐことができれば、あくまでもその刺激に顔を背けることだろう。亮の視線は心に見るあらゆる対象へと突き刺すように向けられ、そして歩みを踏むたびに研磨されていた。静かではあるが、その思慮はやはり怒りに導かれたものだった。
「何で、誰も真剣に考えようとしないんだ」
心に見る怒りの対象。それは、いうなればすべてだった。
見聞き、知るもののすべてが、亮は腹立たしい。たとえば今日の一日に触れたもの、見たもの、考えに及んだこと。教師も、クラスメイトも、新聞や雑誌も、街の看板のひとつを取ってみても、一顧のうちに許すことができない。たとえばその偽善。その怠惰。虚偽、妥協、諦念―
重大事件が起こると、人々はこぞって社会悪に怒りテレビに向かって異議を申し立てる。しかし三日もすれば、その興味は芸能人の不倫報道だとかに流れて行ってしまう。
「要するに正義や倫理じゃないんだ。ただ皆に悪だとあげつらわれているものを同じように非難して、雰囲気と同化していたいだけじゃないか」
あの産地の野菜が危ないぞ、あのメーカーの製品は不完全だぞ。テレビがそういえば、人々はこぞって消極的な不買運動を開始する。だがしばらくもすれば、テレビがいわなくなったという理由だけで、その運動は終わってしまう。
「何で連中は外を歩けるんだ? テレビが、外に出ると車に轢かれることがありますよ、といわないからなんだろう?」
北に新商品があれば競争し、南に手軽なダイエット法があるぞと殺到し、「個性の時代」に若者たちはどんな奇抜なことをしてやろうかと右往左往して、となりの空の下で赤子が飢えていようが、赤い国で何が起きていようが、気に掛けるのは自分の財布の中身ばかり。夢のマイホームが人生のゴールで、奇麗に顔を作り変えれば人生はバラ色。ブランド物も持てない人間に価値はなく、恋愛をしていなければそもそも人間じゃない。果ては「夢」だ「癒し」だに値段がついて、身銭を切って企業を食わせてみても、結局は退屈な時間を少しのあいだ埋めるだけ。どんな事件も誰かのせいで、文句はいうが、何もしない。
「―狂ってる・・・!」
今ここで叫びを上げたとする。なるほど人々は振り向きはするだろう。しかしその声に耳を傾けはしない。「せっかく足並みをそろえているのに、せっかく調和が取れているのに、何をいっているのだ」・・・あるいは、何を大げさな、と哂う者もあるに違いない。
自身が怒りを抱き憂いている問題は、そのどれもがいわゆる紋切り型のもので、対する思慮にしても、決め付けの感が拭い去れていないということを亮は自覚している。この世で自分だけが真剣に物事を考え、自分だけが優秀であるのだなどと、思っているはずもない。共感できる主張をする者がいることも知っているし、尊敬に値する人もいるのだが、しかし、そういった主張の数々や人物の行動が、決して大きなうねりにはなっていないこと、そしておそらくは未来永劫においてもそうなることはありえないということも、同時に知っているのだ。
賢人がどんなに声を嗄らそうとも、最前線でどれだけ闘って見せても、人々はこと自分の生活に関しては真剣になるのだろうが、世の問題に対しては沸点を持たないのだ。そして、一見して自分には無関係に思えるであろうその問題に、その実のところで、あるいは被害者として、あるいは加害者として強く関係しているかもしれないという可能性に、目を向けようともしない。
「それが人間だ。そういうものだ」と、識者はしたり顔でそういうだろう。しかし亮はそういって諦められるほどに老いてはいないのだ。若かった。というよりも、幼かった―
点字ブロックを踏みしだき、亮は横断歩道を渡った。すぐに、停められた自転車に歩みを曲げられた。
横切る弁当屋のウィンドウに、走り去る車のリアガラスに、眉間にしわを寄せ射抜くような視線をどこかに向ける横顔が映っているのだろうが、振り向くことはない。淀みない歩みで、亮は車道を跨いで架かる陸橋の階段を上った。
靴底でコンクリートをこする音が、一定のリズムで繰り返された。そのたびに足元がかすかに揺れた。階段を上りきり橋の中ほどにまで進んだ亮は、欄干に両肘を預け、組んだ両手の上にあごを置いて、車道のはるか先を何を見るでもなく見つめた。
同じ橋の上に人影はなく、高架を支える柱のあいだにあって視界は薄暗い。足下の車道では、いくつもの細管から流入してきた無数の車が、街の血流となって次々と無機質な風を運んでいた。
口唇をかみしめたそのとき、逆光でグレイに染められたビル群の隙間から、一筋の西陽が射した。
亮は目を細め、まぶしい光に逆らって、それでも一点を見つめつづけた。巻き起こった街の風を抱いて、はだけたシャツが膨らんで揺れた。
…世界は、狂ってる
何もかもが違う
何もかもが間違ってる
僕は、何をすればいいんだろう
何ができるんだろう
中学三年生。春。
少年は、すべてが不満だった。しかしいったい何が不満なのか、その正体をよくわかってはいなかった。
何もかもが間違っていると、少年は信じていた。しかし正しいものとは何なのか、少しも知りはしなかった。
浅田亮。
爆発寸前で、しかしその術を知らずにくすぶりつづけ、何かを求め、しかし結局は街をさまよいつづけるだけのこの十四歳は、要するに、ただの十四歳だった。




