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PAN  作者: hkdyksry
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夜へ⑦

 ものを食べているときの龍胆は極端に口数が少なくなる。話しかけたとしてもどうせ曖昧にしか応えないので、亮も黙っていた。

 ふと、パーティションの上にゆらゆらと泳ぐ煙が見えた。七星がタバコか何かをふかしているのだろう。

 白い煙は、滞留し、濁流を描き、天井の底を悠々と泳いだ果てに、粒子にまで砕かれて不可視のものへと散っていく。かちゃかちゃと、スプーンと皿のかちあう音だけが時おり聞こえてくる。こんなとき、タバコを吸う者であれば少しは間が持つのだろうか、などと亮は考えていた。

 勢いよく、扉のひらく音があった。重い防音扉であるのに、空気の抜ける音が聞こえたほどだ。どかどかと、懸命な足音を立てて現れたのは、むろん八代春美たちだった。

 立ち並んだ三者は心なし息を弾ませている。龍胆はちょっと顔を上げたが、表情も変えず、すぐに皿へと目を落とした。

 奥歯を噛み、必死な形相をしながら、しかし八代春美は何もいわない。龍胆の機嫌の良し悪しを窺っているのだ。さっき笑っていたからといって、今もそうだとは限らない。それは慣れた者だからこそする確認の儀式である。視線が流れ、必死の形相がこちらを向いた。亮は大丈夫だと微笑んだ。その意を察して、ようやく八代春美は大声を出した。

「何やってんだよぅ、おめぇは!」

「メシ食ってんだよ。ザーメンカレー」

「来てくれよぉ! カギがとっ捕まってんだぞ!」

「さっき聞いた。三回目」

大柄な男が太い腕を振り回し頑張っているが、龍胆はやはり顔を上げることすらしない。雨の降る中を変わらず探し回っていたのだろう。八代春美がいちいち大げさに動くので、水飛沫が亮の頬にまで飛んできた。

「電話させろっつったろ! 何やってんだテメーは!」

「言ったよすぐに。何回も言った」

それでどうなったかはわかるだろう。そういう視線を亮は投げかけた。八代春美は地団太を踏み、握った拳を振り回した。

「お願いします。龍胆さん」

頼りにならない大男を押しのけ、後輩らが割って入る。そういって、山田は小気味よく、丁寧に腰を折って頭を下げた。それに続いて、「たのんますっ!」と伊藤が哀願を叫んだ。

「相手はトヨコーの連中です。カギと二人のところを囲まれて、トシヒロだけ逃がされました。仲間の一人を、連れて来いと。連中は名前を知らないみたいなんですが、どうやらそれが龍胆さんじゃないかと。だから、来てもらわないと話にならないんです」

トヨコーとは西御毛沼にある大きな中高一貫校のことだ。豊雲高校という。教育校なのだが、どこにでも落伍者というものはいる。坊ちゃんのくせに変に悪ぶっている奴が居て腹が立つと、亮は皆の口から聞いたことがあった。トシヒロとは伊藤のことだ。

 腰をほぼ直角に折りながら手を後ろに組み、顔だけを上げて、山田は冷静かつ正確に報告をした。冷静なのだが、その声は妙に力が入っていて、かすかに震えてもいた。そりゃあそんな無理な姿勢をすればそうなる。任侠映画か。と心中にて茶々を入れつつ、亮は噴き出すのを堪えた。

 そのとき、やっと皿のものを食べ終え、龍胆はガチャンとテーブルに音を立てた。

「何だそりゃ。俺は知らねぇぞ、そんな奴ら」

「でも龍胆さんしかありえないかと」

「何で?」龍胆はグラスに手を伸ばした。

 山田はようやく腰を正した。そして後方を振り返り伊藤に同意を求めた。伊藤は繰り返しうなずいた。

「なんか前にモメたって、でもポリが来て逃げられて、そんで、どっかでオレらと一緒のところを見たらしいんすよ。だから仲間だろうって。そんなの龍胆さんしかいないじゃん!」

なるほど確かに、と亮は伊藤の説明にうなずいた。高校生を相手に、単独で突っかかっていく。そんなのは龍胆しかいない。八代春美ならば腕力でほとんどの者を圧倒できるだろうが、実のところ彼はそんなに気の太い質ではないし、その巨体は否が応にも印象に残るはずなのである。だが「デカいやつを連れてこい」との指定はないらしい。伊藤の弁はそう考えるのが最も妥当と思えるものだった。

 だがしかし。待てよ。…あれ?

(あっ!)

と、亮は心中にて驚愕を叫んだ。大口を開けた顔を、それと気づいて、すぐに脇へ逸らした。

(…それって、俺じゃないか?)

覚えがある、と直感が訴える。脳裏の裡に、徐々に記憶の中のある心象が膨らんでいった。結論に達し、亮は大口を固く結んだ。間違いない。相手連中が呼びつけているというのは、自分のことだ。

 いつだったか、亮は制服を着た二人組に因縁を吹っかけられたことがあった。龍胆との再会を果たす前後の頃だ。理由ははっきり思い出せる。「ガンを飛ばした」というのだ。そのときちょうど西日が真正面にあったので、そのことだと亮は思った。単に眩しかったのだ。しかしその説明を怠り、「勘弁してくださいよ」と相手の勘違いをほくそ笑みながら、亮は二人の間をすり抜けた。すぐに二人は眼前へ回りこんできた。そして、逸った一方の男が胸倉を掴み上げてきた。予想外のことに、どうしたものかと声を失っているところへ、偶然に警官が通りかかった。それで物別れになったのだ。

 龍胆との対峙のあとのことであったからか、驚きはしたが、恐怖は感じなかった。さしたる印象を得たわけでもなく、夜へ没入した以後はすっかり忘れてしまっていた。だが、どう考えても行くべきは龍胆ではなく亮である。おそらく、二人組のどちらかが龍胆らと亮が共にいるところを目撃し、よくわからない報復を企てたのだろう。

 どうせお前だろう。八代らの多少なり非難の混じった強弁を前にして、龍胆は首をかしげている。覚えがないのか、ありすぎてどれかわからないのか? いやいや、ないのだ。

「な、何人くらい居るんだ? 向こうは」

不意に口をひらいた亮に、皆の視線が流れた。平静を装ったつもりだったが失敗した。

「わかりません。囲まれたのは五、六人だったそうですが」

山田が丁寧な返答を寄越した。「そ、そうか」と、亮もご丁寧にまた失敗した。

「とにかく来いよ! ほら立て!」

八代春美が、龍胆の腕を取って叫ぶ。

「お前の責任だろ!」

いやいやいや、違うから。亮は手首を振りかけたが、すんでで堪えた。

「知らねぇっつってんだろ」

龍胆は太い腕を振り払った。当然である。八代春美は、呆れたような、困ったような、哀しいような顔になって深いため息をついた。

「なんでだよ。なんでそんなに嫌なんだよ」

仲間を、なぜ助けようとしない。ひどく常識的なことを、そうではない者に問いかける。龍胆はそれを受けて、いまさらに何か考え込んだ。腕を組み、目だけを上へ向けて、果てに、何故かこちらを向いた。

「なんで?」

「知るか、バカ!」

返事が荒く性急になったのは、焦っていたからだろう。龍胆は亮の対応が意外だったのか、目を丸くしてしまった。亮は心中の混乱を整理しようと、何を見るでもなく下を向いた。

(どうしよう、)

どうするも何も、行くしかないのである。それが結論だということには気づいている。しかし、もし十人くらい居たらどうしようか? いや、一人で行くわけではないのか? その前に打ち明けるべきか? 隠したとて、行けばどのみちばれることなのか?

 降って沸いた責任にいささか気が動転しており、考えがまとまらない。下を向いたまま、頭を掻き毟りたいほどの懊悩に襲われる亮をよそに、八代らは龍胆を立たせようとまた哀願を繰り返していた。とそこで、思いがけないひと言があった。

「亮くんも来てよ!」

びくっと、亮は顔を上げた。龍胆に向けて頭を垂れていた伊藤が、顔だけを向けてそういうのである。混乱のさなかにあった亮は、単純に助力を求めてのその言葉を、わざわざ曲解して受け取った。

「え? なんで? 俺が?」

ばれたか、などと思ってしまったのだ。現に伊藤の目を正面から見られない。しかしすぐに気づいた。そんなはずはないのだ。

 何故と訊かれて、「お前のせいだから」とは答えない。ならば何をいうのか。伊藤の返答は、また別の意味で亮の心を強く叩いた。

「だって強いじゃん! もう二時間くらいたってんだ、助けてよっ!」

眉を寄せ、唾を飛ばしながら伊藤は嘆願した。彼と鍵原は無二の親友なのである。

 その姿を眺める亮の心中から、焦りや混乱が次第に蒸発していった。代わりに、放心したような状態になってしまった。

 いつの間にか、また皆の視線がこちらに集中している。口をあけたまま皆の顔を一瞥し、亮は龍胆を向いた。ひとりだけ無表情な顔をしていた。亮は、思わず問うた。

「俺、強いの?」

すると、とじていた口唇をにやりと持ち上げ、龍胆は目じりを垂らした。

「まあ、そこそこな」

もういちど皆の顔を見る。その表情は先と変わってはおらず、異論を差し挟もうとはしていなかった。

 間抜けにひらいていた口がとじられた。眉に力が入った。目に光が戻った。胸を叩かんばかりに、亮は溌剌と叫んだ。

「よしわかった行こう! 助けるぞ!」

強いと称賛されて、胸昂ぶらぬ十四歳がどこにあろう。亮もまた少年の一人である。頼もしくそう叫んだ姿は、さぞや仲間思いに見えたに違いなかった。それが証拠に、伊藤の哀願の表情が少しほころんだ。本当はそもそも亮のせいなのだが。

 さてこうなれば、あとは龍胆を残すのみである。皆は龍胆こそが当事者であると思い込んでいるので、次々と、非難と哀願のつぶてを投げつけた。だが、それでも龍胆は渋っていた。もはや、腰を上げる切っ掛けを失ってしまっているのだ。

 そのとき、伊藤が下げていた頭を上げた。そして意を決したような顔でいった。

「金、カネ払うから! 頼んますっ!」

龍胆へと突き出したその指が、小さく円を作っている。

 仲間を助けるのに金が必要とは、おかしな話である。しかしその申し出に、渋っていた龍胆の表情が変わった。

「いくらだ?」

それはいやらしい笑みではない。金に興味を示したわけではないのだろう。

 その顔を見て、亮も同じような表情で頬を緩めた。今まで強情に渋っていたが、これで「金のため」という名目が出来たのだ。それが、嬉しいというより、楽しいのだろう。あれやこれやの果てのこのやり取りも、彼らにしてみればつまりはひとつのコント、ゲームのようなもの。亮のその直感はどうやら間違いではなく、食指を動かした龍胆の反応に気づいて、さっきまで怒っていた八代春美も、神妙な顔をしていた山田も表情を一変させ、まるで花火が打ち上がるのをじりじりと待っているような、そんな顔になっている。

 親友の安否を気遣い、たった今まで泣きそうな顔をしていた伊藤までもが、心なしか小さく笑っているように見えた。伊藤は、突き出していた円を硬く握ると、弾けるようにその掌をひらかせた。

「五百円!」

「のった!」

わっと、歓声が上がったように思えた。「おっしゃあ!」と手を叩いた八代春美が、いち早く身を翻し先導を勝ち取った。後輩らがすぐに続く。龍胆が獣のように一歩を大きく飛び跳ねる。少年の血に任せて、亮もソファを飛び降りた。

 店内を駆け抜ける。皆が皆、笑っている。それは、これから起こる「まつり」を楽しみにしてなのか? それとも、龍胆の助力を得て勝利を確信したからか? おそらくは、両方だ。そう考えながら、というより感じながら、亮はそんな連中と共に駆けるのが楽しく、同じように笑った。

 と突然、龍胆が立ち止まった。亮は危うくその背にぶつかりそうになった。龍胆は、すでに扉から一歩を出ていた伊藤を呼び止めた。

「おい、いま払えるか」

伊藤はちょっと意外そうな顔をしたが、すぐにポケットをまさぐり、一枚のコインを手渡した。

「ちょっと待ってろ、」

と言い残し、龍胆は同じ速度でカウンターへと駆けた。丸椅子を思い切り蹴り転がすと、野太い声を出した。

「オラァ! エム男出て来い!」

しばらくして、エム男が開いた扉の陰から恐るおそる顔を出した。もう泣きそうな顔をしている。龍胆はその顔にめがけて、思い切りコインを投げつけた。

「もっとマシなの作れ! わかったな!」

コインは、エム男の鼻の下のところに、ちょうど平面で当たった。その瞬間をまともに見てしまった亮は、大声を出して笑った。

「よし行くぞ!」

 少年は濡れた階段を飛び降りる。踊り場からまた飛び降りる。足の裏の衝撃が、心臓の鳴りを心地よく昂ぶらせる。

 エンジンをかけたままのバイクに八代春美が飛び乗った。山田の背に伊藤がまたがり、亮は龍胆の肩に掴まった。三台のバイクは水飛沫を上げて走り出した。大きくひらいた口の中に、雨粒がどんどん入ってきた。

 雨降りのオフィス街には、走る車も少ない。道路の真ん中を、スクーターには不釣合いな身体をした八代春美が、楽しそうに突っ切っていく。二台がそのあとを追い、誰も顔中に当たる雨を拭いもしない。バイクはどんどんスピードを上げ、濡れゆく身体を風が奔流のようにまとわりつくが、何故だか熱を冷ますことはしない。

 角を曲がり、大きな道路に出たところで、亮は皆に聞こえるよう大声を出した。

「龍胆、あのさー!」

「何だー!」

「さっきの、相手が呼んでるっての、あれたぶん俺だわー!」

「なにいぃー!」

振り向いたのは八代春美だった。

「じゃあオメーのせーじゃねぇかー!」

「ごめんなぁー!」

 龍胆は、「やっぱりなぁ」とひとしきり肩を揺らした。そして、やはり皆に聞こえるような大声で、いった。

「まあしゃーねーだろォ! 仲間には変わりねぇー!」

 仲間。

(仲間…)

八代春美は渋々と前を向き、ハンドルを握りなおした。龍胆の肩が、まだ小さく揺れていた。

「おう、助けんぞ!」と龍胆が振り向き笑うので、

「当たりまえだろ!」と応えながら、亮もまた笑った。

 駆け抜ける道路にはあちこちに工事の跡があり、段差を作っている。そこを乗り越えるたびに、タイヤは大きく跳ね上がって少年の身体を浮かしていた。

 悪路はまだ続いている。亮はそれと知りながら、あるとき龍胆の肩から手を離した。段に乗り上げ、支えを失った身体はひときわ高く跳ね上がった。そのいただきで、亮は真っ直ぐに夜を見上げた。腕を広げ、満面に笑った。



    盗んだバイクで、走り出す

    そんな唄が、たしか、あったような


    ひとつ足りなくて、笑いそうになるけれど


    このまま空へ、飛んで行ってしまえばいい


    そのほうがいい



次章、『水の中から月を見る』

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