夜へ⑥
さっそく番号を交換しようという。
折りたたみをひらき、電源を入れたのだろう。そのとき、計ったように着信音が鳴った。
「たぶん八代だ」
亮はいった。しかし、龍胆は呼び出しに応えようとせず、ただ画面を眺めている。それをこちらへ向けた。やはり、そこには「春美」の二文字が示されていた。龍胆がいたずらっぽく笑うので、亮も頬を緩めた。
「出てやれよ」
いうと、龍胆はにやけた口を閉じ片眉を上げた。そして、一計がある、といいたげに口唇に一本指を当て、静かにするよう促した。電話を耳元へ持っていくと、開口一番にたったひと言を吐き捨てた。
「いやだ!」
そしてあっさり切った。亮は弾かれたように笑った。あまりといえばあまりな対応なのに、龍胆がやると笑えてくるのは何故だろう?
すぐに、着信のベルが鳴り響いた。単調な音が、何故か八代春美の悲鳴のようにも聞こえて、亮はいっそうに笑った。笑い声を殺しながら、龍胆は今度はまともに電話に出た。
「あん、何だよ」
「店に居るよ。腹へってんだ」
「ああ、何か聞いた。亮もいる」
「あぁ? 知るかバカ。てめぇが来い」
「嫌だっつってんだろ! 切るぞ」
そうして、本当に切ってしまった。漏れ聞こえた八代春美の大声はまさに悲鳴のようだったが、慈悲は得られなかったようだ。龍胆は無情に携帯電話を放った。ソファの上で何の動作もないところを見ると、再び電源を切ったらしい。
「まあいいや。またあとでな」
といって、龍胆はまたソファにもたれかかり胡座をかいた。そうしてもう何もなかったかのような顔をしている。「ひでぇな」と亮は苦笑したが、何らの諫言を重ねることはしなかった。龍胆は本心から「いや」なのだ。こうなってはもうどうにもならないことは、付き合いの浅い亮でも充分に知っている。
龍胆はもともと仲間思いでも何でもない。それは八代春美らも充分に承知しているはずである。楽しければ共に居るし、何もしたくない時は何もしない。間違いなくグループの中心に居るのだが、別にリーダーやキャプテンであるわけではないのだ。それでも人が集まり人望を得るのは、そのミステリアスな存在感と、何より暴風がごとき強さが、少年の心を惹きつけてやまないからなのだろう。
「おらっ」
という乱暴な声が割って入った。エム男が大きな音を立ててテーブルに皿を置いた。
「何だコリャ」とそれを見て龍胆は声を荒げた。水とレトルトカレー。明らかな手抜きである。
「じゅ、充分だろ、お前には」
エム男が答えた。それが強がりだとわかるのは、やけにソファから離れて立っていて、かつ絶対に目を合わせようとしていないからだ。
「るっせ、このヤロウ。もっとなんか、あんだろが。ペンネの何とかとか、そういうのが」
「俺ぁお前の召使いじゃねーんだよ、金払え!」
「何だと、」
龍胆が表情を一変させ、胡座を解いて腰を浮かせた。だがそのとき、すでにエム男は脱兎のごとく逃げ出していた。しかも、そうしてなお離れざまに何かをのたまっている。追いかけるのも面倒なのだろう。龍胆はパーティションから顔を出し大声を出した。
「るっせバカヤロー! ほめまくるぞこのドМが!」
そのいいざまに亮は思い切り噴き出した。なるほど、と笑った。腰を下ろしながら、龍胆がぶつぶつ呟いている。「こんど手に届くとこに来たら、殴ろう」というひと言を、亮はどれだけかエム男に聞かせてやりたかった。
以前に、エム男は龍胆にぼろぼろにされたことがあるらしい。そのときエム男がひそかに喜んでいたのかどうかは知らないが、以来、龍胆と距離をとるようになったところから見て、あまり嬉しくはなかったのだろう。決して手の届かないところで、ごちゃごちゃと喚く。怖くてたまらないくせに大人の尊厳は保ちたがるその情けなさが、エム男のどうにも憎めないところの所以だ。というよりも、憎むにも値しないところの、所以だ。
「まさかザーメンとか混ぜてないだろうな、あの変態」
「そこは賭けだな。奴のかけら残った人間性への」
ぼやきながらスプーンで皿をつつく龍胆に、亮はグラスに口をつけながら応えた。そのとき、照明を遮る影があったので、亮は顔を上げた。京谷が物いわず立ち上がったところだった。
「僕は帰るよ」
どちらの顔も見ず、京谷は投げやりにそういった。すぐさま、龍胆が「そうか。じゃあな」となんの不満気もなく応えた。そのとき京谷の鋭い視線がカレーを頬張る横顔に突き刺さったのを、亮は見逃さなかった。引き止めて欲しかったに違いない。
「いいのか?」
亮は呼び止めた。
「いいものが見られるかもしれないのに?」
その言葉に、ひとつの間を置いて京谷の片眉がぴくんと反応した。龍胆はとなりで「いいもの?」とわからない顔をしているが、京谷には伝わったはずだ。これからおそらくひと悶着がある。その乱闘を、せっかくのヒーローの活躍を見逃していいのかと、問うたのだ。
「あいにく暇じゃあないんだ。することは山ほどある」
わざとらしい嘲りを京谷は返して寄越した。「そうだろうな」と亮は即答してやった。一瞬だけ歯噛みするような素振りを見せたが、京谷はすぐに無表情になってきびすを返した。
こつこつと、神経質な足音がフロアーに鳴っている。亮はその背をもう一度呼び止めた。
「おい。場所がわかったら連絡しようか。番号は誰が知ってる?」
京谷は立ち止まった。しかし振り返ることも応えることもせず、また黙って歩き出した。言葉の意味がわからなかったのではない。わかったからこそ、反応しなかったのだろう。重い扉がひらき、雨音が小さく聞こえて、すぐに絶えた。
「お前ら同じクラスなんだろ」
カレーをいじりながら、龍胆がぽつりと口にした。亮は顔の前に三本の指を立てた。
「三年もな」
「それにしちゃあ、随分だな」
随分と、何なのか。その先を口にせず、龍胆は皿を見つめている。
言葉面には出ていないはずなのに、表面上は穏やかなはずなのに、龍胆には二人の険悪な関係を見取られているようだ。黙々とスプーンを動かすその姿を眺めながら、亮はひとり微笑んだ。
八代や水町らなら、こうは行かなかったに違いない。同じクラスで、紹介しされた仲。あまり話さないのは、いまさらだから。それぐらいに思っているはずだ。しかし龍胆は気づいた。わがまま、無神経、無遠慮でありながら、その実、グループの中で最も人心の機微に敏感なのは龍胆なのかもしれない。
とにかくも、今日で対立の構図が明らかになってしまったようだ。公園での一件以来、探り合っていた腹の中身を、双方がぶちまけてしまった。いわば諜報戦の終わり、柔らかな宣戦布告である。あの粘着の男に敵意を向けられるのはちょっと考えると面倒だが、明らかなものとなった分、今までよりはいくらかましだ。それに、そんな関係も刺激と考えれば面白い。「世界一優秀な」頭脳を持つ男が、その子供の欲求を満たすために繰り出す攻撃は、はたしていかほどのものか。どうせ負ける気はしない。ソファに頬杖をつきながら、遠くを見て、亮は小さくほくそ笑んだ。




